プロローグ

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プロローグ

 パンが焼き上がる、香ばしい匂いが漂ってきて……  (まもる)は薄暗い、書庫の様な場所から、廊下に出た。  正面の吹き抜けにある窓から、久しぶりに朝のものらしい陽光が見えた。階下を覗くと、そこは──パン屋になっていた。 「えっ、なんで? そんな筈はない……だって、ここは──…」  その場所は──郵便局の筈だった。厳密には、元郵便局だ。  なのに、無地だったと記憶している床は、白黒の市松模様に替わり、小包の見本置場だった棚の辺りが、小洒落たレジになっている。 「何コレ、どうして──?」  護は、郵便局員の制服姿で階段を降りる。  どんどん階下の様子が見え、いよいよ本当に、パン屋だとわかる。  吹き抜け天井の下、中央に大きなテーブルがあり、茶色い数々のパン、パン……丸いのや細長いのやらが、剥き出しで並べられていた。 「けど……いい匂いだ」  護がそう、つぶやいたからか。  レジにいる、柴染(ふしぞめ)色のハンチング帽を被った若い女が、こちらを見上げてきた。──その表情が、固まる。  ──? ……僕が来ちゃ、だめなのか?  一瞬、そう思って不安になるが、一階まで降りて見ると、だいぶ様変わりはしているものの、やはり、かつて郵便局だった場所だと確信できた。後から来たらしいパン屋の店員に、怪訝な顔をされる覚えはない。  ただ、護が勤めていた局とは、ここは違うのだが──… 「あんた、いま──何処から、来た……?」  不意に、強く詰る様な男の声がして、護は驚き、そちらをふり返った。  前は窓口だった場所が、硝子張りの厨房になっていて、鈍い銀色の機器を背にした男が、そこから護を凝視していた。  その目力が凄過ぎて、顔をよく見る余裕がないないが、知り合いではないのはわかった。  スタンドカラーの襟元から、前身頃を通り袖口にかけて黒いラインが入った白地のコックコートに、短めのコック帽を被っている。七分丈袖の下から出た腕は妙に太く、その先には、捏ねている途中らしい生地があった。  この、険しい気配を出す男が作るパンは、ふわふわの幸せとは、程遠そうな気がした──。 「どうして、ここへ──?」  男がそう言って、厨房から出て来る。  壁と硝子で隔たれ、ここまで距離もあるのに、何を言っているのか、はっきりと聞こえるのは妙だった。  ──よっぽど、大きな声で喋ってるのか?  だとしたら、相当おっかない男の気がする。護は怯みかけ……だが、すぐに気を取り直す。  丸顔にどんぐり目のせいで、甘く見られることが多いが、実は四角顔家系──じゃなくて、結構、度胸は据わっている方だと思う。  学生時代、他校の生徒に絡まれても、こちらが悪くなければ逃げなかったとか、社会人になって、強盗紛いの男が局に押し掛けてきた時も、最初から最後まで対応した。  三歳年上の兄に、加減なしの蹴りなど受けて育ったせいか、殴られそうとか怒鳴られるくらいは、別に何ともない。下手に怖がったり、反撃するのは得策じゃない場合があるのもわかっているから、堪える能力もある。  見る人が見て、そのことに気づいてくれたら、一目置いてもらえるのも、わかっている。それが嬉しいと、自分は密かに思っていることも──そんなことを考えていたら、厨房にいたコックの男が、目の前まで到達した。  パンを作っている人は、コックとは呼ばないのかも……では、パン職人、だろうか?  ブーランジェという名称が、この世にあることを知らないどんぐり目を、護は瞬かせた。  その瞳に映る男に、ぐっと覗き込まれる。  一八五センチは確実にある長身に、袖から覗く腕はやはり太めで、威圧感が半端ない。 「あんた、やっぱり──どうして……?」  あんた呼ばわりをする唇は、妙に滑らかだった。肌自体が艶々しているのだ。──と、ほぼ十センチ下から見ていると、端正な顔なのにも気づいた。ダサい言い方かもしれないが、他に例えを知らないから言う──モデルみたい、だ。  光線の加減か、薄グレーがかった瞳なので、もしかするとハーフか、とも思う。だが、すっきりと整った顔立ちは、日本人に見える。  が、問題は、この男の国籍や血筋ではない。 「──本條(ほんじょう)(まもる)、……だろう?」  問題なのは、自分のことを、名前までも、この男が一方的に知っているということだ。 「そうだけど──なんで、知ってるんだ?」  さっきより多めに瞬かせる護の目の前で、男はコック帽を脱いだ。明るい茶髪が落ちて、前髪が長かったのだと判る。そんなことをされたとて、この男が何者かを知る手掛かりにはならなかったが。 「俺……北谷(きたたに)冬晟(とうせい)っていいます。と、言っても、わからないだろうけど」 「北谷……?」  その苗字には、覚えがあった。 「北谷(きたたに)斗眞(とうま)の息子です……って言えば、わかるか?」 「北谷……斗眞。北谷先輩の、息子さん──?!」  北谷斗眞は、自分に一目置いてくれた……それ以上の目をかけてくれた、忘れられない、ひとつ上の男だ。  その斗眞を思い出して、この冬晟──名前の響きが似ているから、父親に寄せて名付けたのだろうか──を、見るが…… 「ちょっと待て……僕と先輩は、ひとつしか違わないんだ。なのになんで、こんなデカイ息子がいるんだ?」  デカイとは、長身やガタイのことではなく、年齢の方だ。冬晟はどう見ても、二十代後半くらいだ。 「──護、さん。……自分がもう死んでいるって自覚、あります?」 「…………えっ?」 「護さん……あんた、三十年も前、二十六の時に死んでるんです」 「護さんって──僕のこと、なのか?」  北谷冬晟が頷くと、長めの茶髪がかすかに揺れた。そこに朝日が透けて、とてもキレイだった。まるで、艶々したパンの表面の色みたいに──… 「……だったら、護さんって呼ぶのはおかしいだろう。本條さんって、ちゃんと苗字で呼ばないと」  冬晟は、その滑らかな唇を、「え」という形に引き伸ばした。
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