八話 挿話 ―孤独の庭―

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 八話 挿話 ―孤独の庭―

 ――そこはヒースの庭。この邸でもっとも重要な、小さくて大切な庭。丹精込めて作り上げた庭を、彼女は『孤独の庭』と呼んだ――  昨晩『黒山羊亭』より連れ帰った淫魔は、彼の部屋、彼のベッドで深い眠りに着いている。  未明と言ってもよい時刻に目を醒ましたレイナルドは、寝間着にガウンを引っかけただけの姿で『孤独の庭』に居た。  小さな庭の中央に設えたパーゴラの内側には、チェアは一脚しかない。その一脚に腰掛け、レイナルドは暁闇を睨んでいた。  正確にはその闇の向こうに存在する、碑を。  レイナルドの祖母メイベルは、本来は下級貴族――貴族と呼ぶのも憚られるような貧乏な男爵家の出身だったという。貧乏さ故に身を売られるように嫁いだ先は、王都の中流商家だった。彼女はそこで女児を産むも、夫は更に家格の高い貴族の女性を捕まえた。離婚され娘も奪われ行き場のない彼女の窮状を救ったのは、フィルグレス次期伯爵――領地が隣り合って居たために顔なじみではあったが、親しくはない騎士だった。実は昔から彼女に惚れていたらしい騎士の告白を受けて、結婚。溺愛の末に、三男二女をもうける。  ヒース邸は、子育てがひと段落した慰労と感謝を示すために、夫が贈ったものだそうだ。彼女はそこと本邸とを行き来しながら、愛する家族に囲まれて幸せに過ごしていた。  彼女が過去の嫁ぎ先の顛末を聞いたのは、夫を流行病で亡くし、失意のままヒース邸に引きこもるようになった頃だった。  中流商家だった婚家は、彼女の後釜に据えた貴族娘の実家の援助を得て、順調に業績を伸ばしていたらしい。だがある時を境に頭打ちとなり、ついには一家離散と成り果てたそうだ。  彼女がまず思ったのは、婚家に残して来た娘はどうなったのだろう――ということだった。  調査の末、貧民街に落ちた娘がそこで男児を産み死んだことを知った彼女は、周辺の孤児院に慰問を繰り返した。既に手遅れだった娘に替わり、せめて孫だけはと思ったのだろう。執念にも似た追跡の果てに彼女が見いだしたのが、ギャロという名の少年だった。  彼女の孫とはいえ、フィルグレスの血を引いている訳ではないギャロを、彼女はヒース邸に小姓という名目で迎え入れた。  だが何か思うところがあったのか、ギャロを得てからも彼女は、貧民街の孤児院への援助と慰問を続けた。  レイナルドは、彼女の慰問によく付き合わされた。彼女としても、孤児達と同年代の子供を連れている方が話の接ぎ穂として良かったのだろう。レイナルドにとっては退屈な時間だったが。  レイナルドがシュウと出会ったのは、慰問先の孤児院だった。レイナルド十一歳、シュウ八歳の時である。シュウはどこにでもいるような、茶髪に茶色い目をした痩せて貧相な子供だというのに、何故か颯爽とした清々しい雰囲気をまとっていた。つらい境遇にありながらも陰りのない、朗らかな笑顔がそう見せていたのだろうか。レイナルドは彼にもう一度会いたくて、祖母に慰問先を指定した。初めての事だった。それ故にシュウの存在はメイベルの知る所となり――彼女はシュウに一体何を感じたのか。数回の面会の後に、ギャロと同じ待遇でヒース邸へと連れ帰ったのだった。  ヒース邸に来てからのシュウは、水を得た魚のごとく知識や技能を習得していった。素直で明朗な少年を、邸の誰もが可愛がった。  それは無論、レイナルドも。  否、レイナルドの場合は、好意の種類が違っていた。それを自覚したのは、ひどく些細な出来事が切っ掛けだった。 「おかえりなさいませ、レイナルド様!」  あれは学院の実習の関係で半年ほどヒース邸を訪問出来なかった時。ようやっと顔を見せたレイナルドを、使用人たちは玄関ホールで「いらっしゃいませ」と出迎えた。  レイナルドは邸の主人メイベルの孫ではあるが住人ではないし、ましてや滞在していた訳でもない。至極当然の挨拶だったので、その時は特に何も思わなかった。だが、いつもレイナルドが通される客間で二人きりになるや、シュウは嘘偽りのない満面の笑顔を浮かべて、前述の言葉を告げたのだった。  面食らいながら「ただいま」と応えたレイナルドは、それが妙にしっくりくることに驚いた。  「おかえり」と「ただいま」。  その対の挨拶が、その挨拶を交わし合うことが、非常に腑に落ちたのである。 (ああ)  成程、と得心した。 (俺はシュウと、この挨拶を当たり前に交わし合う仲になりたいのだな)  と。  それを悟ってからは、レイナルドは押しに押した。当時十四歳だったシュウは、随分と面食らったのだろう。初めての告白は軽口として流され、二度目三度目と続くと、次第に顔色を悪くさせて行った。そしてレイナルドが本気だと悟るや否や、青ざめて「奥様申し訳ございません」と祈り始めた。そこでレイナルドは、シュウの憂慮である祖母を先に攻略することにした。 「シュウと恋人になりたい」  そう言ったレイナルドに、彼女は、 「貴方たちはいとこ同士なのかもしれない。それでもいいのなら――優しく大切にしてくれるなら、私はむしろ応援します」  とあっさりと告げたのである。元より同性愛に忌避はない世の中だ。ましてやレイナルドは継ぐものもない三男なのだ。問題があるとすれば二人の身分差。それをシュウがどう乗り越えるかだった。  祖母を後ろ盾に使用人たちをも巻き込んで、レイナルドは外堀を埋めていった。シュウが接する人々の中には、自分たち二人を応援する者しかいない――だからこれは間違ったことではない。そんな風にシュウに錯覚を起こさせつつ、かなり必死で愛を囁いた。レイナルド自身、近衛隊に抜擢され忙殺されている時期と重なる事もあったが、暇があればシュウの顔を見に通った。またそうすることが、彼自身にとっての癒やしでもあった。  そうやって口説き続けて二年あまりが過ぎようとした頃、ようやっとシュウはレイナルドの思いを受け入れた。  ――あの頃が己の人生の絶頂期だった、とレイナルドは思う。  じれったく進む二人の恋を、邸の誰もがやきもきと見守っていた。ようやっとレイナルドの思いが通じた時は、皆満面の笑みで祝ってくれたものだ。  幸福だった。  お祝いにと祖母が高級レストランを予約してくれ、シュウを着飾らせて連れ出した。シュウは場違いだと怯えていたが、メイベルやバリーに仕込まれたシュウの作法が不調法なはずがないのだ。  食事の後は、レイナルド自身が厳選したホテルにシュウを招待した。勿論、泊まりだ。  二人の初夜は不慣れさ故に中々大変だったが、それでも確かな歓びがあった。身体を繋げた事ではなく身体に触れる許しを与えられたことこそが、シュウの心を得られた証左だと思った。  ――あの時がレイナルドの人生の最高潮だった。  いつまでも続かせてやると意気込んでいた幸福の期間は、二人が結ばれた三日後に呆気なく終わりを迎えることになる。  その日、午後休のシュウは、勤務後のレイナルドと街で待ち合わせることになっていた。ヒース邸で昼食を摂った後街に出たはずの彼の行方は、ふつりと途切れた。もちろん待ち合わせ場所に、彼が姿を現す事はなかった。  必死の捜索の末、シュウは変わり果てた姿で発見された。現場は、貧民街でも特に治安の悪い地域だった。  メイベルがシュウの遺体を引き取り、亡骸は市民墓地に埋葬された。墓地の中でもランクの高い一角を買い取りシュウ専用の墓としたのは、メイベルのせめてもの手向けだったのだろう。だがその墓は数日後に無残に荒らされ、シュウの遺体を盗まれた。貴族に縁があると見て副葬品を狙っての犯行だったのかも知れないし、遺体そのものを嗜好や研究や薬材として狙ったのかも知れない。  ともあれ運命は、レイナルドの人生からシュウという唯一の存在を奪い尽くして行ったのだった。  用をなさなくなった墓の代わりに、メイベルは彼女曰くの『孤独の庭』に、シュウの碑を安置した。名前と生没年を刻んだだけの小さなプレートを。  今、レイナルドはその碑を睨んでいる。  考えるのは、昨晩邸に迎えた淫魔のことだった。  皆が口々にメイベルに似ていると言ったが――レイナルド自身にはむしろシュウに似て見えた。黒山羊亭でひと目見た時から目が離せず、にこりと笑ってくれた時には心を打ち抜かれていた。  淫魔――ジョシュの笑顔は、あまりにもシュウに似ていた。  知り合ってみれば、笑顔だけでは済まなかった。少しとぼけた受け答えや、従順な振りをしつつも頑固な所、レイナルドに誠実に尽くそうとする所などもシュウを思い出させた。  そうしてシュウを連想させられればさせられるほど、ジョシュはレイナルドにとって掛け替えのない者となっていく――つまりはシュウの身代わりとして。 (その自覚がありながら、ジョシュに愛を囁けるはずがない)  それは決して、ジョシュを代替品と侮っているからではなかった。むしろ暗夜に光を射してくれたジョシュに、レイナルドは感謝を捧げていた。シュウを失った失意の十年を、愛を絶たれた暗き道行きを、ジョシュは不意に温かな光で照らしてくれた。  その彼を、不誠実に扱っている。  その自覚を、レイナルドは持っている。  確たる言葉ひとつ与えず、浚うように邸に連れ帰った。他の男が彼に触れるなど我慢ならなかった。囲い込みの完了した今後、この邸から出すつもりはない。外出させるならば、レイナルド自身の付き添いの元でなければ安心出来ない――今度は絶対に、誰にも奪われるものか。  そこまで思い詰めながらも、過去に囚われたレイナルドは、彼に愛の言葉ひとつ囁けずにいるのだ。  ――ここは『孤独の庭』。祖母が何故そう呼ぶのか、レイナルドは知らない。単にヒースの花言葉をなぞらえたのか、彼女の生まれ故郷たる、ヒース群れ繁る渺漠たる原野に思いを馳せてのことなのか。如何にせよ、ここは彼にとっては、鎮魂の墓所、生者の鳥籠である――  だがしかし、時は夜明け。  暁闇は黎明へと変わりゆき、払暁の時を迎えている。闇が白めき、透明な旭光に溶けようとしていた。
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