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九話 そういう生き方をする者
ジョシュがヒース邸に来た翌日の夕方。
庭を散策していたジョシュは、迎えに来たレイナルドと二人並んで邸に戻った。
邸の食堂には、既に夕食が用意されていた。レイナルドとジョシュの二人分だ。丸いアルコーブに置かれた円形の二人掛けの食卓は、殊の外メイベルが好んでいた場所で、彼女は親しい者しかこの卓に招かなかった。
今そこに、レイナルドとジョシュの食事が並べられている。
メイベルを思い返して躊躇っていると、料理人のモリーが挨拶に来た。ワインの支度を調えるバリーと並び、二人ともにこにこと笑っている。
仕方なく、ジョシュは席に着いた。
因みにレイナルドは、騎士服を着替える為に退室している。
「レイナルド様はいつも、王宮でお着替えを済ませてくるのですが。よほど早くお帰りになりたかったのでしょう」
「今日の夕飯も、必ず二人分用意してくれと仰っていたのですよ」
二人共が口々に、嬉しくてたまらない様子で告げてくる。それを聞くジョシュは、二人の浮かれた様子にいささか戸惑っていた。
(この人たちは本当に、淫魔に対してわだかまりがないのだな)
バリーとモリーは勿論、カーラもそうだ。ジョシュが淫魔であることを失念したように、とても自然に接してくる。ヒース邸に向かう辻馬車の中で、あれほど暗澹としていたのが馬鹿みたいだと思える。ジョシュとしては、僥倖である。
「――レイナルド様が僕に会いたくて、とか、僕と食事をしたくてそうなさっているのでしたら、とても喜ばしいのですが」
「そうに違いないですとも」
「私どもに『連れて来たい者がいる』と教えて下さった時のレイナルド様と来たら、……あの時は本当に幸せでございました」
「あんなに生き生きとした様子のレイナルド様は本当に久しぶりで……どうかレイナルド様を宜しくお願い致します」
「ええ、本当に宜しくお願い致します。……ずっと塞ぎ込んでらしたから」
「――ああ、おばあさまが亡くなられたからですか?」
二人の大袈裟な話を話半分に聞いていたジョシュは、それ以外に思いつく事件もなかったので、適当に相槌を打ってみる。
「いえ、もっと以前から。とても長く」
バリーの返答はいささか重苦しい。何故と問える雰囲気でも、立ち入って良いことでもないと感じたので「そうなのですか。辛い目に合われたのですね」と相槌を打つに留めた。だが心中では、自分が死んだ後にレイナルドの身に一体何が起こったのだろうかと、ひどく胸をざわつかせていた。
程なくして戻って来たレイナルドを前にしては、そんな話題も続けられない。場は自然と食事へと流れ、ジョシュは十年ぶりに食べるモリーの料理に舌鼓を打ったのだった。
その夜は報酬の支払いがあった。
自分のテリトリー内とあってか、レイナルドはより激しく長くジョシュを求めた。勿論ジョシュはそれに応えるだけの体力も愛情も持っている。長く塞ぎ込んでいたらしいレイナルドの気が少しでも晴れるように、慰撫する気持ちで、彼と抱き合った。
報酬の支払いは三日目も四日目も律儀に続き――。
(僕は毎日美味しいものを頂けて嬉しいけれど、レイナルド様はお辛くないのか)
十日続いた時には、ジョシュの方が心配になってしまった。今日も今日とて、レイナルドはジョシュの寝間着――服飾店に特注した、首元も羽の付け根も窮屈ではない寝間着である――を剥ぎ取ろうとしてくる。その手を思わず押しとどめてしまったジョシュは、今が機会とばかりに口を開いた。
「レイナルド様。以前もお伝えしましたが、最低五日おきくらいでいいんですよ……?」
「何故そんな事を。腹が一杯なのか?」
「……んー……?」
いっぱいと言えばいっぱいかなあとジョシュは髪をいじる。栄養が行き届いているのか、毛先までつやつやだ。
「お前達は食べ過ぎるとどうなるのだ? 吐いてしまうのか?」
尻から入れられた精液を口から吐く?
訳が分からなくてジョシュは首を振って否定した。
「特に何も起こりません。多い分は空気に溶けていくのでは?」
「では、多くても構わないだろう」
そんな理屈で、結局レイナルドはジョシュを抱いた。
(これって、レイナルド様が得になることってあるのかな……?)
生真面目で律儀なレイナルドに、自分ばかりがいい目を見させて貰っているようで、いささか不安である。
何故と言って、ジョシュはここに居るだけで人族の通貨を支払われ食事に困ることもなく、衣と住はレイナルド持ちで、外出は制限されているものの邸の中でなら自由を保障されている。
「レイナルド様、辛くなったらいつでも言って下さいね。僕の食事の為に無理をして体調を崩しては大変ですから」
たらふくご馳走になった後、労りの気持ちを込めてレイナルドの頭を撫でる。
「人を精力の落ちた爺さんのように扱うな」
労りは不要だったらしい。レイナルドは嫌そうにかぶりを振り、逆にジョシュを抱き込んで来た。
「しかしな、実際、食わせてやりたくても食わせられないこともあるだろう。……それについてはどう考える?」
「え?」
「つまり、俺が留守にしたら、だ。今は夜勤の任務は一泊だが、いつか遠征や遊学などで連泊することもあるかもしれない」
ジョシュは闇の中、じっとレイナルドの胸板を見つめた。答えは決まっている。『レイナルドが留守の間は黒山羊亭に戻って客を取る』だ。それが一番食いっぱぐれない方法である。だがそれは、ジョシュにとっての正解ではあるが、レイナルドにとっての不正解だということは分かる。
「――五日くらいなら、耐えます……」
実際にジョシュが食事を絶ったことがあるのは三日位だ。その時の感覚からして、五日は行けると思う。それより長期となると、少し自信がなかった。レイナルドは、それ以降ならば非常事態と判断してくれるだろうか。それとも囲い者である以上、あくまでも殉ぜよと、そう思っているのだろうか。
レイナルドの胸の内をはかりかねていると、ジョシュを抱く力が強くなった。
「お前達には、そうした場合の備えはないのか? 精液を保存する方法などは?」
「……存じません。申し訳ございません」
本当に、何も知らなかった。何故と言って、一人に拘らなければ飢えることなど無いからだ。淫魔とは、そういう生き方をする者だった。
そんな風にレイナルドとジョシュは、細かな齟齬を噛み砕いたり噛み砕かなかったりしつつも、穏やかに一ヶ月程を過ごした。レイナルドが仕事に出かけている日中は従僕のつもりで邸内の雑用を片付け、彼が戻れば愛人に成り代わってその傍に侍った。
「それは何ですか?」
風呂上がりにお互いの髪を乾かし合う行為は、今も続いている。ジョシュの湯上がりに、返事を待たずに脱衣所にレイナルドがやってくるのもいつも通りだ。
今日は、そうしてやってきたレイナルドの手に、小瓶が握られていた。白い陶器に花の絵が焼き付けられ、細くくびれた瓶口に鮮やかな黄色のリボンが巻かれている。
「乾かす前に髪に塗ると良いそうだ」
レイナルドは小瓶を化粧台に置くと、ジョシュに手を差し出してくる。この主人が何気に手を繋ぎたがることに慣れてきていたジョシュは、大人しくその手を取った。
するとその手を、レイナルドが確かめるように見る。
「かさついているな」
「すみません」
今日はモリーを手伝って、厨房の隅々まで掃除していたのだ。頑固な油汚れに肌が負けてしまったのだろう。
「いや。頑張った証なのだろう」
レイナルドはかさついた手指をいたわるようにたどり、先程よりも深く握り直す。
ほんの数歩の短い距離をエスコートされたジョシュは、レイナルドが引いた椅子に腰掛けさせられた。
「塗るんですか?」
「塗るとも」
呆れを隠さないジョシュに真面目に気負った返事をしたレイナルドは、胸に落ちていたジョシュの髪を払い背に流す。ジョシュは自分の髪に頓着はなかったが、客からの受けの良い色だからと長く伸ばしていた。例に漏れず、白金の儚げな煌めきはレイナルドをも虜にしたらしい。茶髪のシュウで居た頃は、レイナルドは髪にこだわったりしなかったので、やはりこれは色なのだろうと思っている。
小瓶のコルクを引き抜いて逆さまにし、中身を手のひらに受けるレイナルド。鏡越しに見つめられているのも気付かず、ひたむきな様子である。
「そう言えば昼間に、宝飾店が飾り紐を納品して行きましたよ。あれはやはり僕のなのですか」
自分のなのは分かっている。バリーにはっきりそう言われたからだ。だが星屑のように宝石をちりばめたその紐があまりにも美しくて、触れるのすら躊躇われたのだ。
「使え」
「――はい」
もごつきながら「ありがとうございます」と続けると、レイナルドは鏡の中で苦笑した。
「今度休みの時に街に出よう。その時に付けて見せてくれ。どこか行きたい所はあるか?」
「お出かけですか」
シュウであってもジョシュであっても、金を使って遊ぶ、という経験が殆どないのだ。それなのに遊ぶ先を問われても、分かるはずがない。
「レイナルド様のおいでになる所へ。お供します」
外出自体は禁止されているので、レイナルドが連れ出してくれる時でないと邸の外には出られない。けれども邸での生活は快適で、必要な物があればバリーに伝えればすぐに取り寄せられることもあって、不便を感じなかったのだ。
ましてやレイナルドとの外出は、人族の目が痛かった。
ジョシュ一人で歩いていても、魔族を珍しがる視線は感じる。けれどレイナルドと一緒となると、そこに嫉妬や詮索が加わって疲れてしまう。それに、淫魔を連れたレイナルド、という目撃証言が重なると、面倒が起こるのではないだろうか。
「あ。……マントがあればいい、かもしれません」
「マント?」
「ええ。室内で羽織っていてもおかしくないような。羽を隠せばいいのかも」
「――羽を隠す? どうしてそんなことを? 羽に何かが触れるのは、窮屈で嫌だと言っていただろう?」
「でもほら、人の目が気になりますし。……レイナルド様は、平気なのですか?」
レイナルドの群青の瞳が、鏡越しにジョシュを見据える。
「俺は気になる人目も、淫魔を連れている所を見られて困る相手もいない。――気を回しているのなら、心配は不要だ。俺の親兄弟は、お前が淫魔だろうが悪魔だろうが気にしない」
出過ぎたことを申しました、とジョシュは頭を下げた。
下らない思いつきでレイナルドの気を損ねてしまった――そう思った。だがその一日後にはいつもの服飾屋が現れ、ジョシュの好みと希望を聞き出して採寸すると、その二日後には透けずしなやかなマントが届けられたのだった。
これには心から礼を言うと、レイナルドは不服そうに頷いた。
「俺は羽を隠す必要はないと思っているが――お前がそれで気楽に過ごせるなら」
そう言うレイナルドは、風呂上がりにまたまた瓶を携えて来た。今度は広口の、手のひらほどの大きさの瓶である。
「それは何ですか?」
「手荒れに効くらしい」
水を使った後は毎回塗るといいらしいぞ。そう言いながら、レイナルドはジョシュの風呂上がりの手にクリームを塗り込めた。
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