十話 それに逆らうことが可能なら

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 十話 それに逆らうことが可能なら

「月末に、仕事の関係で四日ほど留守にする」  とレイナルドが言い出したのは、年の瀬も迫った冬のこと――二人が同居し始めてから三ヶ月近くが過ぎた頃のことだった。  なんでもこの時期、王宮では年納めの大規模なパーティーが開催されるらしく、騎士団はその警備に忙殺されるそうだ。今はその準備の段階だが、それでも少しずつ、レイナルドの帰宅時間は遅くなり始めていた。 「そうですか」  備えなど出来ない以上、ジョシュにはそう答える以外にない。  出来るのは、深夜近くに帰宅することもあるレイナルドを労り、速やかに就寝させることだけだ。レイナルドもさすがに疲労を覚えているのか、連日の本番は控えるようになった。なので食事は経口摂取である。味気ないといえば味気ないが、レイナルドが抱きしめて寝てくれるのが嬉しいので良しとする。 「明日は早く帰る」  レイナルドが断言したのは、泊まり任務の前夜だった。  ベッドに座った彼の股間にうずくまり、放出したばかりの陰茎をちゅっと吸い上げていたジョシュは、上目遣いに彼を見た。その途端に口の中の物が跳ねるように硬さを増したので、慌てて唇を離す。勿体ない。もっと舐めていたい――そう思うのだが、仕方が無い。忙しいレイナルドに負担をかけてはいけない。 「大丈夫なのですか?」  寛げていた着衣を元に戻すと、レイナルドはジョシュを抱きしめながらベッドに潜り込んだ。 「追いすがる奴は蹴散らしてでも帰る」  レイナルドが冗談を言うので、ジョシュは笑ってしまう。だがレイナルド本人は、案外切実そうな表情をして、更に深くジョシュを抱き寄せた。 「そうしたら明日は三回でも四回でも、出来る限りやるぞ。……心配で仕方が無い。食べ貯めるようなことは出来るのか?」 「出来るといいですねえ」  飽和した魔力は溢れて大気に溶けるのみなのだ。だが気遣ってくれるレイナルドの気持ちが嬉しかったので、出来ないと断言はしなかった。  そして翌日、本当に夕方に帰宅したレイナルドは、ジョシュと二人で早めの夕食を済ませた。 「一緒に夕食を摂るのは久しぶりだな」  レイナルドが嬉しそうに言うので、ジョシュははにかんだ笑顔で頷く。 「ずっとお帰りが遅かったですからね」  淫魔のジョシュは食べなくともよい。だがそれを知りつつも、レイナルドはモリーにジョシュの食事を作らせ続け、出来る限り食卓を共にしようと努めて来るのだ。それがどことなくくすぐったくて、ジョシュは気恥ずかしくなる。  食後、彼が留守の間の細々とした打ち合わせをバリーと行う間、ジョシュはカーラを相手に食後の茶を飲んでいた。カーラは最近取り組み始めた大判のレース編みに夢中で、それが終わったら次はジョシュの髪紐を編んでくれるそうだ。複雑な紋様を紡ぎ出す彼女の手元を熱心に眺めているうちにレイナルドの用事が済み、抱き寄せられながら居室に連行された。 「一緒に風呂に入るか?」  脱いだレイナルドの上着を受け取っているとそう問われて、ジョシュは目を白黒させる。確か以前にも、そう訊かれたことがあった。あの時は確か「滅相もない」と断ったのである。  今はあの時ほどの滅相もなさは感じなくなっていたが、やはり気が引ける。 「どうぞ、おひとりでごゆっくり、疲れを癒やして下さいな」  なのでにっこりと笑ってご退場願うことにした。  最近気付いたが、レイナルドはジョシュの笑顔に弱い。笑われると、あまり強く出られないようなのだ。  レイナルドは肩を落とし、淋しそうに浴室に消えていった。  その背を眺めて、ジョシュは首を傾げる。少し、いやかなり可哀想なことをした気になってしまった。  ふつふつと罪悪感の沸く胸を押さえて、 (次があればお供しようかな)  などと思う。  レイナルドは相変わらず睦言めいた事は口にしないが、最近ではそれも気にならなくなっていた。言葉はなくとも、彼の態度や為さりようがあまりにも優しくて、最近では「どうせ淫魔だから」と拗ねるのも馬鹿馬鹿しいくらいなのだ。  湯上がりのレイナルドは、宣言通りに二度三度とジョシュを抱いた。一度目はかなり性急に、二度目はじっくり時間を掛けて蕩かし、三度目は労るように優しく。それに応えるつもりが、最後には無我夢中で翻弄され、彼の望むとおりの反応を返すジョシュ。そんな自分を、楽器のようだとふと思う。  世の名器たちは己のより良い旋律を引き出してくれる奏者を渇望しているに違いない。ならばレイナルドは自分にぴったりの奏者だろう。彼ほど、自分の官能を引き出し気持ちのよい嬌声を奏でさせてくれる人物はいなかった――ジョシュはそんなことをぼんやりと考えていた。 「疲れたか?」  事後のけだるさを残す白い頬を、レイナルドの指先が撫でる。 「いいえ。堪能しました。ありがとうございます」  その指先を捕まえてちいさなキスを贈り、ぺこりと頭を下げる――気持ち的には頭を下げたのだが、実際にはレイナルドの腕枕をぐりぐりと押しつぶしただけだった。 「――これで四日間を乗り切れるだろうか……?」  不在を気にするレイナルドは、だが、ジョシュに外出許可を出すそぶりはない。 「お腹がすいたら、寝て魔力を温存しますから」  ジョシュがそう告げると、レイナルドは彼を抱き寄せた。ジョシュを抱くというよりは、すがりつくような仕草だった。  翌朝、レイナルドの出勤前の身繕いを整えていたジョシュは、離れがたい思いでいた。  いつもなら笑顔で「いってらっしゃいませ」と言えるのに、そう言ったが最後レイナルドは四日も帰って来ないのだ。  戸惑ってうつむいていると、 「隙があれば抜けてくる」  気遣う声も優しく、レイナルドはジョシュを抱きしめた。大きな身体にすっぽり包み込まれて、あやすように揺すられる。 「もう…、子供じゃないんですよ。大丈夫です」  気恥ずかしさに頬を染めながら、ジョシュはレイナルドを上目遣いに睨む。するとレイナルドは、ジョシュの頤に指を掛けて上向かせると、唇を重ねて来た。  魔力の乗った甘い唾液にうっとりしていると、何度も唇を啄まれ、耳や頬を愛撫される。レイナルドも離れがたいのか、うなじをくすぐる手が背を伝い落ち、指先が何度も白金の髪を絡めては梳く。 「……もうお時間ですよ」  最後には、二人同時に身をもぎ離すこととなった。 「行ってくる」  黒いマントを翻すレイナルド。部屋のドアノブに手を掛けた彼は、だが再び振り向く。 「今日は冷えるな。暖炉を絶やさずにいろ。お前は風邪を引くのか?」  問われても分からなかった。ジョシュ自身が引いたこともなければ、風邪を引いた淫魔など見たことも聞いたこともない。 「多分引かないのでは……?」 「そうか。なら安心だ。だが暖かくしておけ。あと俺がいなくともちゃんと寝間着は着るのだぞ。飯も食え。俺の目が行き届かないからといって、使用人達に混じって働き過ぎるな。適度に休め――それから」 「レイナルド様」  ジョシュは腰に手を当てて、唇を引き結んでみせる。それが何より雄弁な返事となったのだろう。いささか頬をひきつらせたレイナルドは、ごほりと咳ばらいをした。 「ともかく身体を大事にしろ――では、行ってくる」 「行ってらっしゃいませ」  こうして、レイナルド不在の四日間が始まった。  そしてあっという間に四日間が過ぎ去った。 「ああ……、寒いと思ったら」  銀器を磨く手を休めて、ジョシュは窓辺へ歩み寄る。  磨き抜かれたガラス窓の向こう、冬枯れの庭に、ひらりと白いものが舞い落ちていく。 「積もりますかね」 「積もりそうですな」  ジョシュとバリーが思案下に見守る内にも、雪は庭を白く染めていく。蔦の絡んだアーチがまだらに雪を乗せ、その向こうのガゼボが雪に霞んで隠されてゆく。  季節の良い間は宵に涼むことや、昼下がりに茶を飲んでまったりと過ごしたガゼボだった。勿論、レイナルドと二人でである。それが瞬く間に、雪に閉ざされてしまった。 「この冬は雪が早いですな」  バリーが呟いた。例年ならば、何度か降雪を繰り返した後の積雪となる。それが当節は、初雪にして突然のドカ雪に見舞われるようだ。 「レイナルド様、帰って来られるでしょうか」  予定通りならば、今晩が帰宅日となる。  眉をひそめて問うジョシュに、バリーは憂いの籠もった唸りを返した。 「まだ確か、馬の雪備えをしていなかった気がします」  石畳上の積雪は滑りやすい。馬の蹄鉄に滑り止めを掛けるのが、馬の雪備えとなる。 「……」  ジョシュは息を詰めた。こうしている間にも、庭はいっそう深く雪に塗り込められてゆく。 (レイナルド様が今日戻れなかったら――)  ジョシュは食を絶たれて五日目を迎えることになる。  正直、三日目から飢えを感じ始めていた。レイナルドが戻ったら、思わずむしゃぶりついてしまいそうな程、実は渇いている。いつも通りを装ってバリーと作業室に籠もっているが、実際はそれも辛いほどだった。バリーが精力をみなぎらせた若い男だったら、押し倒していたかもしれない。 (いやいやいや、そんなのは絶対に駄目なのだから)  ジョシュはふらりと窓際を離れた。 「部屋に戻っていますね。頭が痛いので休みます」  暗に近寄るなと告げて、ジョシュはレイナルドの部屋へと戻った。  レイナルドの帰宅が伸びたことを受けて、気力がふつりと途切れてしまった。  息が白くなりそうな冷え込んだ部屋の中、天幕を降ろしてベッドに潜り込む。ベッドもつめたく冷えていた。 (暖炉を絶やすなと言われていたのに――)  だからレイナルドが戻る前には暖炉に火を入れるつもりでいたのに、すっかりやる気がなくなってしまった。 (まあいいや)  ジョシュ一人が居る分には、寒いも暑いもどうでもいい。  ジョシュは瞼を深く閉ざした。 (寝よう)  出来るだけ魔力を温存し、レイナルドの帰りを待つのだ。  レイナルドは、あれだけ心配しつつも他の男を当てにしろとは言わなかった。ジョシュはその気持ちに応えたい。  淫魔は、一人に拘らなければ飢えることのない生き物だ。だがそれに逆らうことが可能ならば――叶うなら、ただ一人の存在と寄り添いたい。
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