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十二話 備えあれば憂いなし
カーテンを閉め忘れた窓から、弱々しい朝日が差し込んでいる。ぼんやりと明るくなった部屋をレイナルドの腕の中から見ていたジョシュは、ふと我に返った。
(掃除しなきゃ)
壁の時計を見れば、時刻はまだ早朝である。バリーが起床を促しに来るにも早すぎる。
(昨日聞くの忘れたけど……レイナルド様は多分お休みだよね。だからきっと、バリーさんは来ないはずだ)
そう思いつつ暖炉の前に放置された諸々が気になって、ジョシュはレイナルドからそろりと抜け出した。
切るのを忘れた暖炉は、未だに疑似炎を燃え上がらせている。その前に敷かれた毛足の深い藍色のラグは――白い飛沫を浴びて毛羽立ち、乾燥していた。赤面しながらそれを見遣ったジョシュは、まずはクローゼットに入って身繕いを整える。そして再びラグに戻ると、脱ぎ散らかしていた服達、自分の寝間着や、レイナルドのコート、手袋、ブーツ、鞄、騎士服などをより分けて行った。洗濯に出す物をより分け、鞄や手袋、ブーツなどはひとまとめにして床に置き、ラグに洗浄魔法を試行してみる。
(うん。落ちないね)
自分程度の魔力では手に余る代物だ。
かといってこれをカーラに洗わせるのは恥ずかしすぎる。やむなく自分で踏み洗いをしようと、端から丸めて浴室に持って行く。
レイナルドが目を醒ましたのは、ジョシュが浴室に籠もった頃だったようだ。
「ジョシュ。ジョシュ、どこにいる」
突如聞こえてきた呼び声に、ジョシュは踏み洗いもそこそこに部屋へと戻る。
「おはようございます、レイナルド様」
起床したレイナルドはジョシュを探しがてらクローゼットへと行き、服を着込んでいたらしい。
レイナルドはジョシュの姿を見ると、ほっとした様子で肩の力を抜いた。
「掃除をしてくれていたのか?」
「ラグの汚れが酷すぎちゃって……」
取り敢えずは水に浸けてきたので後回しでも大丈夫だろうと、ジョシュはレイナルドに近寄る。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
腰に腕を回してくるレイナルドに寄り添い、彼の顔を見つめる。キスを迎えに来るように、唇が落とされる。まるで恋人同士のような振る舞いだ。頬を紅潮させながら、ジョシュはキスを貪った。
「――身体はもう大丈夫なのか?」
「あ、はい! ありがとうございます。すっかり元通り、魔力満タンです!」
握りこぶしを作るジョシュに、レイナルドは滲むような笑みを向ける。
「そうか。本当に良かった――青ざめた顔をして横になっているのを見た時は、死んでしまったのかとうろたえた」
「ご心配おかけしました」
ぺこりと礼をすると、レイナルドは「そうだ」と声を上げて、床に放置されていた鞄に詰め寄った。
「今更と言えば今更なんだが――今後役に立つこともあるだろう」
彼はそう言いながら鞄を探ると、その中から小さな瓶を取りだした。
いつも彼が贈ってくれる美容系の陶器の小瓶とは違う趣のガラス瓶だった。親指と人差し指を輪にした程度の直径で、長さは中指程度。上下の円周が同じ円柱形の瓶の口には、コルク栓が嵌まっていた。ガラス瓶の外側全体に魔術印が描かれ、底部には魔石が嵌め込まれているようだ。そしてその内部には、白く濁った液体が注入されていた。
「何ですかそれは」
「『精液を保存する瓶』だ」
レイナルドは重々しい口調で、さも重大な物体のようにガラス瓶を振ってみせるが、ジョシュには今ひとつぴんとこない。単に採取して溜めるだけならば、魔術印は必要ではない。
「……鮮度を保つ?」
「半分正解で半分間違いだ」
レイナルドは得々と語り始める。
「魔術団の研究課に勤める友人に、緊急時に備えて精液を保存する方法を依頼していたのだ。研究の結果、精液そのものの鮮度を保つことは難しくないのだが、魔力は保存されずに失われていくことが分かった。この瓶は、最長二日魔力を保つことに成功した試作品だ」
「おぉお……、つまりこれがあれば、レイナルド様がいない時でも食事が出来る……?」
「そう思って研究を急がせていたのだが、結局出来上がったのは昨日だった。これだけを誰かに届けさせようかと思ったが、王宮の警備が厳しい時だったので、……こんな得体の知れない物は検められるので……」
あああ、とその羞恥を想像し、ジョシュは身悶える。
「これ、中身、レイナルド様の……ですよね……?」
頷くレイナルドも、心なしか頬を染めている。
「いや、お前が生きていたからこその笑い話なのだが」
「多分五日くらいじゃまだ死にません。しんどくはありましたが、寝ていればそれなりに生きるかと」
「極限を経験させたい訳ではない。今度からは、これを用意しておく」
「試作品ということは、いずれはもっと期間が延びるのです?」
「期間も延びるし、いずれは精液ではないものを溜める予定だそうだ。――お前は『魔力を摂取できればいい』と言っていただろう。とするなら魔力を水に溶かすことが出来れば――?」
「……わざわざ精液を飲む必要は、なくなるのですね……?」
「おそらくは。それについては研究してみなければわからないので、お前か他の淫魔の協力者が欲しい所だ。あとは、高濃度の魔力を少ない水に溶かす事が出来れば、魔石の代わりに印に嵌められるのではないかとか、或いは人族の魔術師がこれを飲めば魔力の回復にならないのかなど、色々考えているようだが。まあ、俺としてはお前の非常食を確保出来ればいい」
そもそもはレイナルドの無理強いから始まった依頼だったのだが、風向きは軍事利用や魔術印の利便性へと繋がっていくようだ。
ジョシュはレイナルドの手の上の小瓶をじっと見つめた。レイナルドがまさか、こんな事を考えていたなど全く知らなかった。
「ありがとうございます。まさかこんな用意をしてくださるなんて」
「……お前に他の男が触れる機会を潰したいだけだ」
レイナルドは自嘲するように言ったが、ジョシュ自身、今となっては他の男を求める気などない。
レイナルドだけがいい――レイナルドによってしか満たされないのだから。
(好きです)
油断をすれば、想いが口をついて出そうになる。
だが、それを封じ込め、ジョシュはにこりと笑った。
「それ、触ってもいいですか?」
「あ、ああ」
魔術印の描かれたガラス瓶を、レイナルドはジョシュに手渡す。傾けるととろりと流れる白濁は、レイナルドのものだ。ジョシュはそれを矯めつ眇めつした挙げ句に、きゅぽんとコルク栓を取り去った。
「飲んじゃっていいですよね?」
「あ、おい! 鮮度は保たれているが魔力はもう抜けているぞ!」
「魔力はお腹いっぱいですし。だって勿体ないじゃないですか、飲まないと」
レイナルドの制止を歯牙にも掛けず、ジョシュは瓶を傾けて内容物を飲み干してしまう。レイナルドは彼の様子を心配さと面映ゆさが入り交じったような複雑な表情で見つめていたが、呑み込んだジョシュがげほりと噎せた所で、あわててその背をさすりに行った。
「ど、どうしたんだ……!?」
「――す、すみませ……味が……。……なんでこれ、甘くない……」
小さく噎せ続けながら、味わった苦さを表すかのように小さく舌を突き出すジョシュ。レイナルドは予想外の感想を耳にした為にか、ぎょっとした顔をした。
「普通それは甘くないだろう……?」
「え……甘いです、よ……?」
お互いの齟齬に、つかの間見つめ合う二人。身動きしたのはレイナルドの方からで、彼はなんの前触れもなしにジョシュの唇を啄むと、舌先を絡めた。
「どうだ。今のも甘いのか?」
「甘いですよ?」
ジョシュは何も考えずに感じたままを答えたが、すぐにハッと気付いた。
普通、唾液は甘くない。人間同士ならば当たり前のことだ。人間を止めて長いので、失念していた。
「淫魔のお前にはつまり、唾液や精液は甘く感じるということだな。そして、魔力の抜けた精液は甘くない……つまり、甘いのは魔力のせいなのか?」
魔力とは甘いものなのか……、とレイナルドは再び呟いた。どうやら、カルチャーショックだったようである。
「ということは、魔力を溶かしたお水は甘くなるのですね。うーん、いっそのことお水じゃなくて飴にしたほうがそれっぽいかも?」
ジョシュの方は安穏と笑っている。
「それも伝えておこう」
重い瓶を携行するよりも小さな飴の方が持ち運びやすい。全ては含有させる魔力量によるのだろうが。
何処までも生真面目な返答をするレイナルドに、ジョシュは微笑ましい笑みを向ける。
「いつか、魔力キャンディーが舐められる日が来るのかな。とっても美味しそうです」
本当にそのような物が開発されれば、淫魔のみならず魔族の生き方は劇的に変わるだろう。そしてそれは、魔族と人族との関係も変えていくに違いない。人族が悪魔や吸血鬼に畏怖を、淫魔に侮蔑を抱くのは結局は捕食する者とされる者だからだが、魔力水やキャンディーはそのパワーバランスを崩せる物となる。
(こんなことを思いつくとは、レイナルド様はなんてすごいんだろう)
誇らしさと好きだと思う気持ちが胸にこみ上げる。
「レイナルド様――」
好き、と言いかけて、
「――ありがとうございます」
頭を下げた。
レイナルドに愛されているのは、多分ジョシュの気のせいやうぬぼれではない。なのに何も言わぬ彼に想いを告げることで、彼に返答を強要することになるのが嫌だった。
だからこのまま、曖昧で居心地のいい関係を続けていこう、とジョシュは思っていた。
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