一話 黒山羊亭にて

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 一話 黒山羊亭にて

 確かに、「報酬は貴方の精液でお願いします」と言ったのはジョシュ本人だった。淫魔の彼にとって、男性の精液は一番のご馳走だったから。  だがそれを口にしたその時は、下品な冗談をと流されると思っていたのだ。それがまさか、真に受けられてしまうとは。 「今日の報酬を支払おう」  そう言われてベッドに引き込まれ、三回目の報酬が支払われる。ジョシュがこのお屋敷に勤め始めて、三日目の夜となっていた。 「あ……、ん」  従僕のお仕着せを自ら脱ぎ捨てたジョシュは、求められているだろう通りの、甘やかな喘ぎを漏らす。レイナルドに委ねたしなやかな身体を妖艶にくねらせ、四つん這いになって尻を向け、突き込まれる陰茎に合わせて腰を振りながら、感じている証のように羽と尾をばたつかせる。元より、喜悦を隠す気はない。淫魔のジョシュにとっては、嬌声と媚態はサービスの一つだ。大袈裟に感じて見せれば見せるほど、男たちは上質の精液を提供してくれるのだから。 「あっ、レ…ナード様、ん、んッ……」  勿論、感じているのも事実である。淫魔は官能に忠実な生き物だ。だが淫魔だからこそ、快楽に流されない冷静さも持ち得ているのである。  その冷静な部分でジョシュは、下品な冗談を真に受けるレイナルドの生真面目さ。そして報酬を毎日律儀に払い続ける律儀さを、とても好ましく可愛らしいと思うのだった。   ※ ※ ※ ※  ジョシュとレイナルド。二人の出会いは、三ヶ月ほど前に遡る。  繁華街のそこここに掲げられた街灯や、贅をこらした店頭装飾が煌びやかな光を瞬かせて、夜空の星々の輝きを打ち消してしまう――二人が出会ったのは、そんな普段通りの夜だった。  ここはアリセア王国の王都リュノー。そのリュノーの色街のはずれに、『黒山羊亭』という看板を掲げた店がある。  『黒山羊亭』は、悪魔が経営する酒場だ。酒場と言っても、真っ当なものではない。給仕はすべて淫魔で、客たちは酒と食事がてら給仕を物色し、気に入った子がおれば交渉の後に二階の個室で事に及ぶことが出来る。つまりは娼館と連れ込み宿の中間のような、中途半端な店だった。  アリセア王国は人族の国で、魔族の数は非常に少ない。そんな中、訳あって魔の国に縁故のない魔族たちが寄り集まって作った店。それが『黒山羊亭』だった。  ジョシュは勤続十年の淫魔である。歳は二十六で若いとは言えないが、そもそもが淫魔だ。男心をくすぐる白金の髪と潤みの強い菫色の瞳、華奢な肢体と優しげな美貌のお陰で、買い手に困ったことは終ぞない。  その夜もジョシュは、一人か二人の客を目標に勤務に当たっていた。  『黒山羊亭』を訪れる客は、基本的に人族である。娼館を使うよりも安く手軽とあって、客の身分は平民が多い。たまに身分のありそうな客が訪れることもあるが、物珍しそうに店内を見回し軽く飲み食いするだけで帰って行く。魔族はともかく、淫魔は人間に蔑視されているので、このような冷やかしも偶に発生するのだった。  そうした中で、騎士のブラッドが常連に名を連ねているのは異例といえた。男前な偉丈夫であることに加えて陽気な性格の彼は『黒山羊亭』の従業員達に大人気で、我先にと淫魔達が給仕に群がる程である。  そんな人気者の彼が、今日は同伴者を一人、連れていた。  上背のあるブラッドと並んでも遜色のない、立ち姿の隆とした美しい男である。癖のない真っ直ぐな黒髪を肩に流し、群青の瞳で店内を睥睨している。鼻筋の通った、冷然とした美丈夫だった。  その姿を見て、ジョシュははっと息を呑んだ。  十年ぶりに目にする姿。十年前よりも精悍さを増した、佇まいに落ち着きと深みを増した姿だった。 (レイナルド様――)  十九歳だった彼を脳裏に思い返しながら、ジョシュは彼を見つめる。目が離せなかった。  息もつけず身動き出来ずに居る間に、ブラッドとレイナルドは淫魔達に空席に案内されてゆく。完全に出遅れたジョシュは、きゅっと唇を噛んだ。 (レイナルド様と言葉を交わしたい。目を見交わしたい)  そんな願望が胸中に湧き上がる。  だがジョシュは、動きそうになる足を必死に押しとどめた。ジョシュを目にした所で、レイナルドにはジョシュを見分けないだろう――そしてジョシュ自身、現在と過去の己を同一視されたくなかった。  十年前のレイナルドとの記憶は、七色に煌めく泡のようだ。ジョシュはそれをまばゆいままに、胸に抱き続けたいのだった。  たっぷりとした夕食を腹に納め、ブラッドは給仕の一人を手招いた。その淫魔が今日のブラッドのお相手となるのだろう。嬉しそうな顔をして駆け寄った淫魔の腰を抱き寄せながら、ブラッドはレイナルドに何かを告げている。レイナルドは煩わしそうに首を振ったが、やがて大きなため息をついた。ブラッドのしつこさに辟易したらしい。そして群青色の瞳を上げ、周囲を見回しはじめた――給仕に立ち働く淫魔達を。  ちらちらと彼らを伺っていた淫魔達はどよめく。  無論ジョシュとて例外ではない。彼らの席のすぐ近くで給仕にあたっていたジョシュは、固唾を呑んでレイナルドを見つめた。  揃いの黒いホルターネックのお仕着せを着、色とりどりの髪や羽の色をした淫魔たちの上を、レイナルドの視線が滑っていく。誰かを探しているのだ。抱いてもいいと思える淫魔を。  しらじらと光る青白い星をちりばめた暗夜を思わせる瞳が、ジョシュの優しげな菫の瞳と交差する。  ばちりとかち合った視線に竦んだジョシュは、慌てて踵を返した。両手に食器を掲げ、足早に厨房へと去ろうとする。だがしかし――、 「君」  決して大きくはないのに、周囲を圧する声。低く張りのある、昔から好きで仕方がなかった声が響くのを、無視することは出来なかった。  自分が呼ばれたのか。それとも他の誰かなのか。  恐れと期待に胸をざわつかせながら振り向けば、レイナルドは鋭い視線をひたりとジョシュに当てていた。 「そこの、君だ。金髪に菫の瞳の――金の羽の淫魔」  見つめながら特徴を挙げ連ねられては、観念するしかない。 「はい――」  私でございますか、と言いかけ、ジョシュは口を噤んだ。場末の酒場で身体を売る淫魔が『私』など、似つかわしくないことこの上なく、不自然だ。 「僕ですか?」  昔の態度と言葉遣いは努めて封じ込め、この場に似合った庶民じみた発声で応じる。 「そうだ。君を呼んだ」  レイナルドが掲げた手に誘い込まれるかのように、ジョシュはするりと彼に寄り添う。重ねた指先を軽く握り返したレイナルドは、僅かに微笑んだ。 「今晩、相手をしてくれるだろうか?」  随分と控え目な誘い文句だった。大柄で冷徹な雰囲気のレイナルドだ。居丈高で高圧的なほど似つかわしく周囲もそれを是とするだろうに、彼は己よりも小さな淫魔の目を覗き込み、優しい声音でお伺いを立てたのだった。 「はい。喜んで」  そこにかつての優しさを垣間見てしまったジョシュには、レイナルドの申し出を断る事など出来なかった。  過去を汚してしまう事への恐れは、今も胸にある。だがその恐れを凌駕する強さで、新しく始まるかもしれない彼のとの未来に、胸を高鳴らせていたのだった。
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