五話 恋人でも愛人でも従僕でも

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 五話 恋人でも愛人でも従僕でも

 オーナーに十年の長きに渡りお世話になった礼を言い、また改めて挨拶に伺うことを告げて『黒山羊亭』を後にする。  拾った辻馬車にレイナルドと二人で乗り込み、窓の外に流れていく夜の通りを眺める。行き先は当然、レイナルドの住まうフィルグレス伯爵邸だ。そう思っていたのだが、貴族街に入り込んだ馬車はその中心を大きくそれ、その外郭へと進んでいくではないか。 (え……)  ジョシュは戸惑って辺りを見渡した。  暗くて気付くのが遅れたが、この通りは知っている。十年前までは何度となく通った道筋だ。 「あの、どこへ向かっているのですか?」  フィルグレスの所有でこの先にある邸は、ひとつしかない。その名をその姿を思い浮かべつつ、ジョシュはレイナルドに問うた。分からないのは、何故そこへ向かうのか、だった。 「俺の家だ。と言っても死んだ祖母から譲り受けたものだから、俺の家になったのはほんの半年ほど前なのだが」  死んだ祖母、とレイナルドははっきりと口にした。 (奥様が、亡くなられた)  不意打ちで告げられた訃報に、ジョシュは肩を跳ね上げた。 「どうした?」  それを見とがめられて問われ、ぐっと息を詰める。 「――いいえ、馬車の揺れに驚いただけです」  落ち着け。平静にならなければならない。  ジョシュは己を叱咤した。握った拳を膝に押さえつけ、全身に力を込めた。  恩義ある老婦人の死がいかに悲しくとも、これから向かう先が、いくら懐かしの我が家に等しくとも。  現在のジョシュは、それらとは無関係なのだから。 (カーラさん、モリーさん、バリーさん、ベンさん、ポーラさん……ギャロさん)  必死にそう言い聞かせても、懐かしい面差しが脳裏を巡るのは止められない。彼らは今も居るのだろうか。それとも奥様の死を機に、勤めを辞めてしまったのだろうか。  彼らがまだ居るのなら、あんなにも優しく温かだった彼らは、淫魔のジョシュにどのような表情を見せるのだろう。  輝かしい過去、拠り所の一端でもあった彼らとの思い出が黒く塗りつぶされる予感に、ジョシュはぎゅっと唇を噛みしめた。  ヒース邸は、貴族街の外縁にある庭付きの邸宅である。裕福な貴族の持ち物としては別宅にしてもささやかだったが、当時フィルグレス伯爵の奥方だったメイベル・フィルグレスは、それをこそ気に入って購入したのだった。  花や緑を愛した彼女は、本宅からお気に入りの庭師を引き抜いてきて、自分好みの庭を造らせた。彼女の庭は、カンパニュラやアスチルベ、クレマチスに芍薬、薔薇は勿論、ライラックや木蓮が咲き乱れる大変美しい庭となった。  けれども、彼女が一番好んだのは、ヒースの花々だった。  色彩の奔流のような庭の一番奥に、彼女は小さな庭を造らせた。エリカやカルーナといったヒースたちがひっそりと群れ咲く庭である――その小さなヒースの庭は邸の象徴となり、いつしか邸は『ヒース邸』と呼ばれるようになったのだった。  そのヒース邸に、ジョシュが小姓として勤めはじめたのは、九歳頃だ。孤児院を慰問していたメイベルがジョシュを気に入り、引き取ってくれたのである。  貧しい孤児院暮らしは辛いものだったが、メイベルが目を掛けてくれ、それに倣ったのか使用人達も優しく穏やかに接してくれた。ヒース邸で過ごした七年間は、ジョシュの人生の中で最も幸福な時だった。  過去の優しい思い出たちを思い返しながら唇を噛みしめていると、それをどう取ったのか。レイナルドが背にそっと手を添えて来た。 「大丈夫だ。邸の者達にはかなり前から話をしている」 「え……」  記憶に浸りきっていたジョシュには、レイナルドが何の話をしているのか咄嗟に判断出来なかった。 「ジョシュが淫魔であることも説明して、皆納得済みだ。――淫魔相手だからと奢った態度を取るような者達ではないので、安心してほしい」  ひとり、レイナルドの信頼に足らぬ人物の顔が脳裏をよぎるが、ひとまず頷いた。 「それにしてもレイナルド様。かなり前からということは、僕のことは、愛人を迎えたいと説明なさったのですか?」  居住が分かれているのでは、伯爵や次期の目も届かないかもしれない。であるなら、従僕よりは愛人の方がいいのだろうか。ジョシュは混乱してきた。 「――いや、恋人候補として、だ」  その混乱に更に拍車を掛けるようなことをレイナルドが言い出したので、ジョシュはあんぐりと口を開ける。 「ええ?」 「というか、お前をあの店から連れ出せるなら、恋人でも愛人でも従僕でも何でも良かったのだ。他の男が触れられぬ所へ、お前を連れ去れれば」  ジョシュは開けたままでいた口を、何とか閉じた。そして再び口を開こうとするが、一体何を言うべきなのか言葉が出てこない。  とても奇妙なことを言われたのは、理解している。 (恋人でも愛人でも従僕でも――!?)  混乱の追撃に見舞われて何も言えないジョシュの手首を、突然レイナルドが掴んだ。 「その羽は飛べるのか?」  脈絡のない問いである。 「へ、あ――これはほぼ飾りです。多少浮けますか、飛ぶ程の力はありません」  魔族の羽の大きさは、魔力の大きさに比例する。魔力が大きければ羽も大きく、実際に空を飛ぶことも出来れば、変化の魔法の応用で羽を隠す事も出来るそうだ。残念ながらジョシュにはそこまでの魔力はない。  素直に答えたジョシュにレイナルドは頷く。だが、手首は掴まれたままだ。 「あの、腕を」  離して欲しいのに、レイナルドは手首を解放すると手を重ね合わせて来た。とにかく離すつもりはないらしい。 「ええと、……羽でも足でも逃げませんよ……?」 「――本当にか? 強引すぎたのは理解しているから……、不安なのだ」  レイナルドは子供のように素直に、心情を吐露した。ジョシュは呆れてため息をつく。 「でしたらこんな風に捕まえておく前に、説明を下さい。あんまりにも言葉足らずではありませんか。――レイナルド様は僕に、一体何を求めていらっしゃるのです?」 「恋人にしたい――と思っている。だがそれよりもまず、とにかくあの店から、ジョシュを遠ざけたかった。俺が通わない日にはお前は他の男に抱かれているのだと思うと……我慢が出来なかった」  ジョシュは首をかしげた。レイナルドの言い分は、どうにも曖昧だ。  思えば彼は、「愛人になれ」とは言わなかった。「この店を辞めて、俺の所へ来ないか?」と言ったのだ。愛人だの従僕だのと言い出したのはジョシュの方である。 (恋人云々は体裁を整える為の方便で――実際には僕を自分専用にしたいだけ、ということなのかな?)  本当に恋人にしたいのならば、「好きです」と告白から入ればいいのだ。それをしないのは、やはり囲い込みたいだけなのだろう。お気に入りのおもちゃを誰にも貸したくない。そういう類いの執着なのだろうか。 (どうなさったのかな、レイナルド様)  昔は愛情を言葉にする方だったと思う。恥ずかしい程の率直さで、沢山の愛を囁いてくれていた――そこまで思い、ジョシュは再びため息をついた。過去は過去。レイナルドが変わったということではなく、単に、今の自分が彼にとってはそこまでの存在ではない、ということなのだ。  それを残念に思う気持ちは勿論あるが、傷つきはしなかった。  何故なら、所詮淫魔なのだ。執着を恋と錯覚しようにも、淫魔では相手が悪すぎる。 (まあ、いいか)  怒りも苛立ちも、やるせなさもある。けれどそれら全てに蓋をして、ジョシュは無理矢理に心を落ち着かせた。 (どうせ黒山羊亭は辞めてしまったのだし。いずれ戻るにしても、今日っていうのはちょっと格好がつかなさすぎるから)  だから、ほんの少しだけなら、ヒース邸に滞在するのも悪くないだろう。  ジョシュはそんな我が儘を己に許したのだった。 (本当に皆が納得済みなら……さよならさえ言えなかった人たちに、もう一度会えるなら――)  それはなんと素敵なことだろう。
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