全5/30エピソード・完結
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 おれはいま、チベットのラサにいる。標高は三六五〇メートル。酸素は低地の七十パーセントほど。  正直、へばっている。ホテルの一室で寝たきりだ。  頭痛がし、全身が重い。食い物はのどを通らない。  体が高地に順応するための、正常な反応だ。が……つらい。  こんなんでもし走ったりすれば、死ぬんじゃないか? ここで死んだらどうなる? 「鳥葬よ。死体をばらばらに切り刻んで、ハゲワシに食べさせて死者を弔うのよ。安心して、ハゲワシがあなたを天国まで運んでくれるわ」  半病人になっているおれに、橋爪ゆりかはそう言った。  高山病にならないようその日はじっとして、深呼吸し、ひたすら水を飲んでいた。  そのあいだ、ゆりかは忙しく活動していた。王国の観光申請その他もろもろの手続きと装備品の調達うんぬん……。タフな女だな。 「おれじゃなく、あんたが堂嶋雅史を探しに行けよ」  おれがうなると、ゆりかは肩をすくめた。 「堂嶋総帥の秘書としてあなたの世話を命じられているの。あなたがキャラパスへ旅立ったのを見届けるまでが、わたしの仕事」  堂嶋氏のメルセデスベンツに撃ちこまれた銃弾は彼の上腕をかすめたにすぎなかった。そして今回の襲撃は、表向き事故として処理された。  堂嶋慶吾郎氏はいま、東京の病院に入院している。経過は良好だそうだが、似たような襲撃がいつあるかはわからない。  おれたちは荷物をまとめてホテルを出た。 「ラサ駅からバスで高速道路を使うわ」 「便利なもんだ」  バスの中には一目で観光客と分かる西洋人の五人グループや中国人らしいカラフルなジャケットを着込んだ家族連れがいた。  バスの外では、羊を放牧している人やテントが見える。赤褐色の大地はひどく土煙がたった。  ヤルンツァンポ河が見えてきた。  この河はチベットの南を流れている。インドに流れこめばブラマプトラ大河と名前を変えるのだ。大河は数千キロの旅路の果てに、ベンガル湾に注がれる。  そのあたりになると、大地に鍬を入れている男女の姿が見られるようになった。畑をたがやしている家々の屋根から、煙が立ち上っていた。 「正直に言えよ。堂嶋のなにをつかんでいる?」  バスのシートで寝たふりを決め込んでいる橋爪ゆりかに言った。  腕を組んで目をつぶったまま、ゆりかはふふんと鼻で笑った。 「ミネヅカのことでトラブッてるおれに、この一件を回してきたのはどういうつもりだ」  ゆりかは目を開き、ゆっくりとこちらに顔をむけた。 「銀色のメルセデスを襲撃してきた若造、あれはミネヅカの殺し屋だろ」 「そうでしょうね。ミネヅカは焦ってるわ。政治家の神原が失脚秒読みで」  大蔵大臣の神原竜一郎と裏社会の顔役・ミネヅカのつながりは闇のように深い。どちらかが転べばどちらも崩壊する。 「あなたが救いだした佐藤という神原の第一秘書が、闇資金の動きを記した裏帳簿を信頼できる人物に送り届けたのよ」 「その信頼できる人物が堂嶋慶吾郎氏か」 「ええ、でも総帥はこれを表ざたにするのをためらっていたわ。政界に激震が走るという以上に、ただの政争の道具にするには忍びないというの」  おれはうなずいた。 「そんなことをすれば、罪をかぶせられて自殺に追い込まれる人間が後を絶たないだろうからな」  だが、帳簿が堂嶋氏の手にあるということは、ミネヅカと神原にとって脅威だ。堂嶋氏が自分たちに敵対姿勢をとっていると考えたのだ。  敵は取り除くしかない。  ミネヅカはお得意の強硬手段にでた。  命の危険を感じたそんな時期、堂嶋氏は例のあの写真に気づいた。  ヒマラヤ山脈にあるキャラニジャール。その盆地にあるキャラパス王国。王国に行方不明となった息子に似た男がいる。  堂嶋雅史がもし、そこで生きているとしたら。  身の危険がせまっているからこそ、息子の生存に願いを賭けたのだ……とゆりかは言う。 「きれいごとを、よくそこまで作れるもんだな」
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