今日の仕事

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今日の仕事

 今夜も『キティキャット』は繁盛している。店を開けて間もないというのに、店内にある椅子のほとんどが埋まっていた。  ここには、さまざまな者たちが集まってくる。  漆黒のタキシードに身を包み、ステッキを手にしたフェレットの紳士。制服のまま立ち寄ったドーベルマンの巡査。皺だらけの手を寄せ合い、連れ添うミケ猫の老夫婦。それぞれが上品な音楽の漂う薄暗い空間に身を置き、心を安らげていた。  アメリカンショートヘアのジムは、にこりと微笑んだ。昼間はカフェ『キティキャット』のオーナーとして、動物横丁で働く疲れたOLたちの愚痴を聞き、夜になれば、バー『キティキャット』のマスターとして、見知らぬ町から単身赴任してきている孤独なサラリーマンたちの嘆きを聞く。  それがジムの日常だった。元々誰かの笑顔を見るのが好きで始めたこの仕事だ。安らぎを求めてやってくる客が増えたことを、ジムは喜んでいた。  品のいい鈴の音とともに、新しい客が入ってくる。ジムは、すっかり慣れ親しんだその男の顔を見て、浅く会釈した。男は、ゴールデンレトリーバー特有の薄茶色で長い前髪を掻き上げ、カウンター席に腰を下ろす。 「ジムニー、いつものを頼む」  その男はいつも、ジムのことをジムニーと呼んた。親しみを込めて呼ばれているのを知っているので、ジムも何も言わない。  店の奥に座っていたドーベルマンの巡査が、男の姿を認めて立ち上がって敬礼した。その凛々しい立ち姿に苦笑いして答え、男は、カウンターの中でドリンクを作るジムに向き直った。 「相変わらずここは繁盛しているな。世間は不況の波に飲まれてるというのに」 「スミス警部が来てくださるからですよ」  ジムは歯を見せて笑み、スミスの前に透き通った桃色のドリンクを差し出した。 「ああ、ありがとう」  スミスは躊躇うことなく、一気にグラスを空にする。ジムは、上下するスミスの咽喉をじっと見つめた。  スミスが『キティキャット』に通うようになったのは、今から半年ほど前だ。晴れて警部補から警部に昇進したスミスを祝おうと、仲間たちが連れてきたのがきっかけだった。それ以来、ジムの人柄を気に入ったスミスは、毎晩のように入り浸るようになった。  一方、ジムもスミスを慕っていた。その温厚な性格はもちろんだが、ゴールデンレトリーバーでありながら警部に昇進したスミスを、ジムは心から尊敬していた。  その優しい眼差しのせいなのか、穏やかな性格のせいなのかは分からないが、ゴールデンレトリーバーが警察業界で成功した例は少ない。ドーベルマンやシェパードたちがその血統のみで当然のように台頭する世界で、スミスは、その正義感と信念を認められここまで昇りつめた。初めこそ受け入れられなかったが、今ではスミスは町中の人気者だ。 「物騒な世の中になってしまったとは思わんか、ジムニー」  しばらく手の中で空のグラスをもてあそんでいたスミスが、唐突に口を開いた。スミスの声音には、深い哀愁が漂っている。ジムは、スミスが差し出したグラスを受け取りながら首をかしげた。 「何か事件でも?」 「強盗殺人だよ」  ジムは新しいグラスにドリンクを作りながら、今朝見た新聞の記事を思い出した。確か、ここからそう遠くないデパートに二人組みの強盗が押し入り、たまたま閉店処理をしていたミニウサギの店員が殺害されたと読んだ。その事件をスミスが担当したのだろう。 「被害者は、まだ若い女性だったそうですね」  ジムは、今度は緑色のドリンクをスミスに差し出す。小さく頷いてから、スミスはグラスを受け取った。長い舌でエメラルドグリーンの表面をぺろりと舐め、スミスはすぐにグラスをカウンターに置いた。 「今日が二十歳の誕生日だったそうだ。酷い話だろう」 「そう、ですね」  ジムは、少し曖昧に相槌を打った。今までスミスが仕事の話をすることがなかったわけではないが、こうも詳細に事件について語ったことはなかったからだ。 「時々、この仕事が嫌になるよ。事件は減るどころか、増える一方だからな」  ジムは、何も言わずにスミスの言葉に耳を傾けた。 「強盗に殺人、暴行に、誘拐。不況のせいで失業者が増えて、世の中は荒れる一方だ」  スミスはそこで言葉を切ると、再びドリンクに口をつけた。二度咽喉を鳴らしてから、カウンターの向こうに立つジムを見た。 「君も気をつけてくれよ、ジムニー。店をやっている以上、強盗に入られる危険があるんだからな」 「ご心配ありがとうございます、警部」  ジムは、困ったように微笑んだ。それを見て、スミスは大きな肩をすくめた。 「驚かすつもりではないんだ。変な話をしてしまったな、申し訳ない」  スミスは、照れたようにそう言ってドリンクを流し込む。そして、椅子の背にかけてあった薄手のコートを手に取り、立ち上がった。 「今日はどうも気分がおかしい。もう帰ることにするよ」  スミスは、スーツの内ポケットに手を入れ財布を取り出した。ジムがそれを押しとどめる。 「お代はけっこうです、警部。今夜は私が」 「それは困る」 「次の機会に、いつもの倍を飲んでくださればそれで」  ジムがおどけたように言うと、スミスはようやく財布を戻した。 「君は不思議な男だな、ジムニー。それでは、おやすみ」  スミスは、ジムに見送られながら背を向ける。だがすぐに、視線だけでジムを振り返った。 「ハツカネズミのネジーナさんのところのチー太が行方不明になっているんだ」  ジムは、驚いて目を丸くした。 「全力で探しているが、見つからん。もしどこかで見かけたら私に連絡してくれ」 「え、ええ、分かりました」  ジムは、ひどく狼狽えていた。スミスは、ショックが大きかったか、と余計な話をしてしまった自分を反省した。  気の優しいジムのことだ。自分のことのようにネジーナを案じたに違いない。  スミスは一度離れた距離を戻り、ジムの細い肩に手を乗せた。 「心配するな、ジムニー。あのやんちゃ坊主のことだ。どこかで迷子になっているだけだろうよ」  そう言い残し、スミスは出て行った。その背中を見送るジムの瞳孔が煌めいた。まるでその視線で射殺そうとせんばかりに、スミスが去り動かなくなった扉を睨んでいた。  スミスは、知らなかった。  この店の奥に、チー太の骨が散らばっていることを。 「今日中に片付けておかなければいけないな」  そう呟いたジムの顔は、狂気に満ちていた。  fin
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