1|始まらなかった日常

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1|始まらなかった日常

84237e18-d1f3-4f34-a728-54468b0df891  全て、一週間遅れのエイプリルフールであれと、どれだけ願っただろう。  雷奈(らいな)は昼間の住宅街を疾走しながら、本日何十回目かの視線をスマホの画面に投じた。ロック画面には、何度見ても同じ、今日の日付が表示されている。  四月八日、。その事実が、信じられない。  とにかく、他の二人と合流しなくてはと、男子顔負けの速度で道を駆け抜けた。  目先のT字路で、ちょうど二人が落ち合うのが見えて、雷奈もそこに飛び込んだ。もしかしたらあとの二人が反証を見つけてくれるのではと、淡い期待を抱くも、彼女らの憔悴しきった表情を見るに、望み薄だろう。 「どうだった? 芽華実(めがみ)」 「だめだったわ。氷架璃(ひかり)は?」 「こっちもだめだったよ。みんな私のことを変な目で見るだけだ」  互いに尋ねあって、ほぼ同時に意気消沈する。そして二人は、最後の希望を求めて雷奈へと視線を移した。雷奈も、いい報告をしたかった。けれど、彼女にできることは、かぶりを振って、自分を含めてこの場の全員をどん底へと突き落とすことだけだ。  氷架璃がため息をつき、芽華実が泣きそうな顔をする。 「昨日、四月七日が火曜日だったのに、今日が月曜日になってる。それはどのメディアを見ても同じ。極めつけは、今日入学するはずだった私たちが、新入生名簿に載ってなかった……というか、先生も私たちが新中三の認識だった。これって、つまり……」  氷架璃の言葉の先は、みんな、もうわかっていた。  ただ、認める勇気がないだけ。  いや、勇気などという問題ではない。常識を覆す大惨事を、こんな事実を、どうして受け入れられようか。  だが、信じられなくても、認めざるを得ない。そうしなければ、前に進めない。  だから、雷奈は押し黙る二人を代弁して、口を開いた。 「戻っとるね。――一年前に」 ***  四月七日は晴天で、次の日の入学式も好天が保証されていた。  はらはらと舞う桜の花びらを見ながら、縁側に腰かけてお茶を飲んでいるのは氷架璃だ。黒い髪はいつも通りツインテールに結われており、長身の体を包む服は完全に春の装いである。  湯呑から口を離し、彼女は温かい嘆息をこぼした。 「ついに私らも高校生かー……なんつーか、実感ないな……」 「それもそうね。だって受験がなかったもの。内部進学だから、先生も同じ、生徒もほぼ同じ。進学っていうより、進級ってくらいの変化よね」  同じようにして氷架璃の隣に座っていた芽華実が、そう言ってほほ笑む。茶がかった髪はポニーテールで、パステルカラーの春服を身にまとっている。  時が止まっているのではと思うほどにのどかな神社の境内は静かで、落ちた花びらを掃くほうきの音だけが二人の耳に入ってきていた。舞う花びらの中、仲睦まじく並んで座る二人の姿は、新生活のパンフレットの表紙に採用されてもおかしくないほど絵になっているが、彼女らの視線の先にいる一人の少女は、さらに見栄えする姿をしていた。  眩しく輝く白衣に、鮮やかな緋袴――巫女装束だ。一三八センチの低身長では小学生の氏子のようにも見えるが、白い肌と、足元まで届くほどの長い薄茶の髪が、むしろ妖精のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。  巫女、雷奈に向かって、氷架璃が口を開く。 「あんたの九州弁も、東京に漬かってからもう五年! いい感じに中途半端になってきたよね」 「そう? 私のは最初から中途半端ばい。両親とも標準語で、近所の子が使っとるのを聞いて覚えた方言やけん」  それより、と雷奈はほうきを持ったまま、下駄を鳴らして二人のほうへと歩いてきた。 「明日、待ち合わせ何時にすると? 入学式は十時からやったね」 「そうね。いつも通り、一時間前でいいんじゃないかしら。八時半に授業が始まる学期中も、七時半に神社で待ち合わせだし」 「(すめらぎ)学園、私立だから小学生の時から電車通学の子は多かったけど、私たちは徒歩圏内でよかったよね。歩いて二十分、校風よし、外観よし、人間関係もよし。皇、いいとこ、一度はおいでー」  ご当地観光大使のようなセリフに、芽華実がくすりと笑みをこぼした。 「ご機嫌ね、氷架璃」 「へへっ、そうかな」  そう言う芽華実も、そして雷奈も、内心では気持ちが浮かれていた。  明日から、高校生。もちろん、中学時代も楽しかったが、制服も学校も変わらない中で、一つ大人の階段を上った心地がするのだ。  三人とも、普段どおりおしゃべりをし、キリのいいところで解散し、そして当然いつものように次の日が来るものと思って床についた。  何の変哲もない普通の世界だったのだ。まさかあくる日、入学式のために訪れた学校で、先生たちに「一年早い」と門前払いされるなど、夢にも思うまい。  ――春休みの向こうの日常は、始まらなかった。 *** 「……さて、どげんすっかね」  途方に暮れた三人は、T字路で立ちすくんでいた。  学校で先生に帰されてから、彼女らは必死で、今日が昨日の続きである証拠を探した。けれど、商店街の店主も、近所の知り合いも、みんな今日は四月八日”月曜日”と言い張る。西暦も一年齟齬があった。つまり、今のところ、この事態に気付いているのは雷奈たち三人だけということだ。 「というか、二人とも、家出るとき、家族に何も言われんかったと?」 「うちのジジイとおばあちゃんは、学校行事のスケジュールなんて把握してないからね。普通に、今日から学校なんだと思ってるよ」 「私のお母さんはいつも通り、夜勤疲れで寝てたから何も言われなかったわ。妹は友達の家にお泊りに行ってて、今はいないし。雷奈は?」 「おばさんには、入学式とは言っとらんけん、始業式か何かだと思っとるやろね。どうりで三人とも、学校に行くまで気づかんかったわけったい」  雷奈の声が沈黙に溶けると、彼女らはいよいよ、最後の可能性に目を向けざるを得なくなった。  最後の可能性。誰も口にしないが、既に共通認識となっている結論。 「やっぱ……私たちがおかしい?」  勇気を出した氷架璃の言葉に、雷奈と芽華実は顔を見合わせた。否定したくても否定材料がない。お互い困り果てているのを察する。選択肢は、肯定しかない。  おそるおそる口を開き、 「うん、やっぱり……」 「私たちが……」 「いーや、君たちはおかしくないよ」  ――突如、四人目の声が、躊躇いもなく絶望を一刀両断した。  雷奈たちは反射的にあたりを見回した。しかし、家の立ち並ぶ路地のどこにも、人影などない。 「今……声がしたと思ったんだけど」 「ばってん、誰もおらんったい」 「やべえ、私たち、本格的におかしく……」 「もう一度言うけど、君たちはおかしくない。おかしくなっているのは、この世界さ」  声は、背後からした。まさか、と思いながら振り向く三人。なにせ、彼女らの後ろには、塀しかないのだ。  塀の上に人が立っている、というのなら、まだ冗談で済ませられた。  実際には、塀の上には、二匹の猫がいた。ここまでは問題ない。冗談じゃないのは、声の発生源がその猫であったということ。しかも、そのうちの一匹は、 「なっ……青い、猫……!?」  比喩でもなんでもなく、水色の毛並みをした猫だった。耳の先端には濃い青の模様まである。どうやら、先ほどから聞こえている、少年のようなやや高めの中性的な声は、この青い猫が発しているようで、その口から同じ声音で言葉が紡がれた。 「やっぱりね。予想できていたよ、その反応は」 「青い猫が……しゃべってる……!?」 「まあ、驚くのも無理はないね」 「触った感触があるばい……夢じゃなか……」 「うん、夢ではないよ。ボクたちは……」 「……毛並み、思ったよりモフモフしとらんかった」 「急にげんなりしないで!? なにそれ、ダメ出し!?」 「あ、こっちの白猫はモフモフばいー」 「ごめんね!? ボク短毛なんだよ! 君はよかったね、褒められてるよ!」  雷奈に抱きかかえられた、白い毛並みをしたもう一匹の猫は目を細めてジタバタしながら、 「く、くすぐったいってば、ちょ、一回離してぇ……」 「……やっぱこっちもしゃべるんだ」  氷架璃と芽華実も、茫然としゃべる猫を見つめた。地面に下ろされた白猫は、当たり前のように二本足で立って、目に浮かんだ涙をぬぐった。 「はあ、びっくりしたぁ……急にモフモフされるんだもの」 「そんな哺乳類最強……いや、最嬌の武器さらしといて、なんば言っとーとか。これば目の当たりにしてモフモフせんとか、修行僧の御業たい。っていうか、普通に立っとるけど、何者?」 「それを説明しようとしたんだよ」  先ほどの青い猫が、軽やかに塀から降りた。 「青いわ、しゃべるわ、立つわ……普通の猫じゃないのはわかるけど」 「素直でよろしい。その通りだよ、ボクたちは普通の猫じゃないんだ、――水晶(すいしょう)氷架璃」  最後に付け足された単語に、氷架璃がぴくりと肩を震わせた。いささか警戒した顔で、問う。 「……なんで、私の名前」 「知っているよ。神託があったからね」 「あなたのことは、私のほうに神託があったわ、美楓(みふう)芽華実」  芽華実の名を口にしたのは、白猫のほうだ。案の定、芽華実は不安そうな表情を浮かべる。 「……どうして……」 「それも含めて説明しよう。ボクたちはね、『フィライン・エデン』という世界から来たのさ」 「世界? なんじゃそりゃ。まるでこの世界とは別にあるみたいな……」 「氷架璃の言うとおりだよ。要するに、異世界だ」  映画や小説、フィクションと呼ばれる類にしか存在しないはずのそれを、さも当然のように肯定する青い猫。けれど、雷奈たちは一蹴する気にはなれなかった。現に猫がしゃべっているのだから、異世界くらいあってもおかしくはない。常識の水準は、すでに狂いつつあった。 「……仮にその異世界があったとして、それは何、ファンタジーものよろしく、猫も犬もトカゲもしゃべって歩いて、人間と仲良く暮らしてるわけ?」  投げ捨てるような氷架璃の問いに、青い猫は真摯に答えた。 「いや、違うね。フィライン・エデンには、猫しかいないんだ。犬もトカゲも人間もいない。完全に猫の世界さ」 「……猫の、世界」  反芻するように、雷奈がつぶやいた。青い猫はそれにうなずき、ふいに天を仰いだ。日はまだ高く、空は青い。小さな姿の彼からは、人間よりも空が遠く見えていることだろう。 「厳密には、違うんだけどね。別に猫じゃなくてもよかったんだ」 「どういうこと?」 「フィライン・エデンとは、猫が住み着いたからそう呼ばれているけど、本来はどの動物が支配してもおかしくなかった。あの世界の正体は、『人間以外の動物が、人間以上の存在になる世界』だよ。そこにたまたま、人間界の猫が迷い込み、長年過ごすうちに、人間以上の存在になったってわけだ」 「人間以上……しゃべれる以外にも、何か……あっ!」  突然、氷架璃が声を上げた。そして、びしっと青い猫を指さして、 「あんたらの仕業か!? 一年前に戻ったのは!」  人間以上、つまり人間と同じか、それを凌駕する何かがあるということ。ややもすれば妙な術を使えてもおかしくない――例えば、時間を巻き戻すといった術。  しかし、 「違うわ」  白猫は一言でそれを否定した。 「というより、私たちもあなたたちと同じように戸惑っているの。私たちの世界も、一年前に戻ってしまったから」 「そっちも?」 「ええ」  だから、彼らは言ったのだ。「君たちはおかしくない」と。この現象に巻き込まれているのは、雷奈たち三人だけではなかったのだ。 「ばってん、なして他の人たちは、気づいとらんと? まるで、人ごと一年前に戻ったみたいに……」 「たぶん、その人たちは本当に一年前に戻っているんだと思うよ。記憶がどのように操作されているかはわからないけど。でも、君たちだけが気づいている理由なら説明できる」  青い猫は自信ありげに前置きして、 「なぜなら、君たちは選ばれた人間だからだよ」 「……あ、そう」  胡乱な目をする三人に、青い猫は「あーっ、信じてないな!?」と声を上げる。 「どこから半信半疑なのさ!?」 「まずはそのフィリピン・エデンとやらかな」 「フィライン・エデンだよ! 何その南国の楽園みたいなの!? いや、信じられないのはわかるけどさ……。だったら、来てみる? 一度」  予想だにしなかった提案に、雷奈たちはたじろいだ。 「え、行けんの? 私たち」 「うん、行けると思うよ」
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