喫茶店の老いた幽霊

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喫茶店の老いた幽霊

 飾りガラスの嵌まったオーク色のドアを押すと、カウベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」と、押さえた若い女の声が言った。  3人の若者は恐る恐る、暗い店内に入った。  カウンターの奥で老婆が食器棚を拭いている。  他に客はいない。  案内された手前右の、2つしかないテーブル席のひとつに座り、メニューをのぞき込む。  メニューには、珈琲ばかりがずらりと並んでいた。  太った、人の良さそうな男が言った。「俺、珈琲よく分かんないけど」 「ねえ、ミルクと砂糖入れたら怒られるかな」と、豊かな茶髪を自慢そうに肩に乗せた女が言った。 「まあまあ。最初なんだし、ブレンドを頼んでみようぜ」と、濃紺のジャケットの男が言った。  ジャケットの男が右手を挙げ、やってきたウェイトレスにブレンドを3つ頼む。  ウェイトレスは注文を書き留め、伝票をカウンターに置いた。  老婆が注文を確認する。  3人は、なにかを探すように慎重に店内を見回した。  と、太った男が携帯端末を構えて、言った。「見ろよ、あれ」  顎で奥のカウンターを差している。  静かなジャズの流れる店内に、シャッター音が響き渡った。 「やめてよ。店の人に怒られるでしょ」茶髪の女が顔をしかめる。 「やっぱり本当だったんだ。あれ、幽霊用の珈琲だ」  息をひそめて言った男の言葉に、茶髪の女がごくりと唾を飲む。 「じいさんの幽霊が出るんだよ」  どうやら、3人のお目当ては珈琲よりも幽霊らしい。 「あれ? なにも写ってないや」  太った男はもう一度写真を撮ろうと携帯端末を上げ、茶髪の女に手首を掴まれて、やめた。 「じいさんの幽霊っていうんじゃ信憑性ないな」と、それまで黙っていたジャケットの男が言った。「じいさんの幽霊なんているわけない」 「なんでだよ?」と、太った男。 「幽霊ってのは、姿形は自由だろ。それなのに老いた体ってのはないよ。若い元気な姿で現れるに決まってる。俺ならそうする」 「……それもそうね」と言って、茶髪の女がうなずく。 「いや――まあ、そりゃ若い方がいいんだろうけど……」太った男は不服そうだ。  ジャケットの男は調子に乗ってきた。「だいたい、幽霊なんてのは、死を受け入れられない奴らの自己肯定の幻だよ――」 「お前さ、いつも心霊現象を馬鹿にするけど、世界中でたくさん目撃情報があるんだぞ。げんに幽霊用の珈琲だって――!?」  太った男が息を呑んだのに気づかず、ジャケットの男はぺらぺらと続ける。「――誰もいない墓場と、誰か分からないけど1人だけいる墓場と、通り抜けるならどっちがいい?」  問われた茶髪の女は小首を傾げて、「誰もいないほう」と答えた。 「だろ。怖いのは幽霊じゃなくて人間だ――ん?」  かたんかたん、と、机が鳴っている。  見ると、太った男がスマートホンを持ち上げようとしては取り落としている。 「なにやってんの?」 「あ、あれ、ゆゆゆ……」  ジャケットの男は溜め息をついた。 「いちいち付き合うのも面倒くさいんだぞ……ッ!?」  唐突に、カウンターの奥の席に老人がいた。  カウベルは鳴っていないはずだ。  老人は、灰色の短髪によく手入れされた短い白髭をたくわえている。白いシャツに黒いセーター。その上に茶色のエプロン。下半身は暗がりに消えて見えない。 「やだ……」茶髪の女の声が震えている。  老人は、ひと口、ふた口、無駄のない静かな所作で珈琲を飲み、音もなくカップを皿に置いた。  ゆっくりとこちらを振り向く。 「ひ……」と、誰ともなく押さえた悲鳴が上がる。  がたん、とひときわ大きな音を立てて携帯端末が床に落ちた。 「ホッホ――僕は幽霊ではないですよ」  老人は両眉を洒落た感じに上げて、ウェイトレスに声を掛けた。「みどりちゃん、これならお客さんに出せるね」 「ありがとうございます」と、ウェイトレスが頭を下げた。  老人は微笑むと、「さて、みなさんの珈琲を淹れましょう。お待たせして申し訳ない」と言って立ち上がった。  グレーウールのパンツが、カウンターの下から現れる。 「……なによ、普通におじいさんじゃない。マスターでしょ」と、茶髪の女が呆れて言った。  老人はカウンターに入ると、瓶から愛おしそうに珈琲豆を取り出して四角い機械に入れた。  豆を挽く音と香ばしい香りが店内に満ちる。  ウェイトレスが棚からカップを取り出して、コンロの上の行平鍋に入れた。 「あの……失礼しました」と、ジャケットの男が言った。 「いいえ、幽霊に間違われるのも楽しい経験でした」と老人。「ただ、老人の幽霊はいないかというと、そうでもないのじゃないかと、僕は思います」 「や、やっぱりこの店には幽霊が出るんですか!?」と、太った男が元気を取りもどして言った。 「こら、失礼でしょ!」茶髪の女がたしなめる。 「ホッホ。まあ、出てくれたら嬉しいですけどね。あいにく、いまはみどりちゃんと2人きりですよ」と言って、老人は笑う。  老人は少し間をおいて、言った。「もし逆で、妻が生きていて僕が先に死んでいたら――僕は老人の姿に化けて出ます」 「……どうしてですか? わたしなら、若いほうがいいかなって思うけど」茶髪の女が小首を傾げる。 「妻ばかり老人で僕だけ若返ったんじゃ、妻が恥ずかしがりそうです」  あ、とジャケットの男が息をもらした。 「妻のそばでひっそりと一緒に歳を取って、妻が死んだら、2人で若返って天に昇って行くことにします。ホッホ、結局は若い方がいいってことになりますかね」  ジャケットの男は顎に手を当てて考え込んだ。  茶髪の女はソファに深く掛けて息をついた。  太った男はスマートホンを拾ってポケットにしまった。  老人はそれきり無言で、集中して珈琲を淹れた。  糸のように湯を落とし、ネルの方をゆっくり回す。  珈琲は1杯ずつ落として、コンロで温め直す。  熟練した所作を観察していたジャケットの男は、奥の棚に飾ってある写真に気がついた。  古い写真だ。  大きな木の下で、40代くらいの男女が寄り添っている。  男性の方は若い頃の老人だろう。  女性の方は亡くなった奥さんかもしれない。  瞑想のような時間が終わり、トレーに並んだ珈琲を老人が机に運んできた。  老人は、向きを調整しながら、1人1人の前に丁寧にカップを置いた。 「ミルクを入れても砂糖を入れても、珈琲は美味しいです。お好みでどうぞお好きになさって下さい」  カウンターの中で、老婆が嬉しそうに微笑んだ。  思い思いの方法で珈琲を楽しみ、店内の2人に挨拶をして店を出た3人は、幽霊の話など忘れて、次はどの珈琲を飲もうかと話しながら会社へもどって行った。    了
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