1.プロポーズの夜
全1/13エピソード・完結
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1.プロポーズの夜

◆ テーブルにほおづえをつき、俺は崩れ行く世界を支えていた。 冷蔵庫が低くうなる。 体を起こし、グラスから一口飲んだ。 少し笑ってかすれた声をしぼり出す。 「ごめん、よくわかんなかった」 彼女は額にかかった髪を耳にかけて、かすかに息を吐いた。 「私が悪いの」 決して自分を悪いとは思っていない。目の前の困難を切り抜けようと決意しているだけだ。 俺はフォークを取り上げ、乾きかけたスパゲティを巻きつけて口に運んだ。 みしみしと噛みくだく。 苦労して飲みこむと、鼻の奥がつんと痛んだ。 あきらめてフォークを皿に置いた。 椅子の背に体重を移し、手のひらで鼻をはさんで、目をつぶる。 どこから、こうなった? 悪い朝じゃなかった。 金曜日だった。 続いていた休日出勤の予定は、もうない。 天気も文句ない。 やわらかに湿気を帯びた風が髪をかすかに揺らす。 ずっと続くように思われた冬も、暦に一足遅れながらだんだん薄れていく。 人々は皆せわしげで、そんなかすかな変化には気づいていない。 浮かれた足どりで、俺は満員電車に飛び乗った。 女性車掌の放送に気がついてにんまりする。 ダッシュで飛び乗りダッシュで乗換えをする身には、お顔を拝する機会もないが、かの声を聞けた朝はラッキーデーと決めていた。 混雑にひしゃげながら見上げれば、お気に入り漫画家の連載再開を、中吊り広告が告げている。 今度はちゃんと単行本が出るまで続けてくれるだろう。 窓の外に鮮やかな紅白の梅の花が流れていく。 よどんだ車内の空気まで香るようだ。 ドアの上のテレビの占いだって、ご丁寧に星三つだ。 「重大な決断がハッピーな結果を生む」だって。 大丈夫。今日はやることなすこと、うまくいく。 いつものポイントでがくん、と揺れを受け止めながら、朝の俺は落ち着きなくスーツの上から胸ポケットを確認した。 四角い塊はちゃんとそこにあった。 目を開くと、夜になっていた。 彼女はもう一度、必要以上にはっきりと言った。 「好きな人がいるの。これは受け取れない」 さっき押しやったビロードの小箱を、更に押しやる。 「公樹はとてもいい人なのに…わたしがダメになっちゃった」 椅子の上にいるのに、俺は二歩ほど退いた気がした。 すぐ後ろに大きな穴があって、自分を飲みこんでくれればいいと思った。 がちゃん、とフォークが皿から落ちた。 ふと、妙な感覚に陥った。 俺はこの状況を知っている。 映画かテレビで見たのだろうか。 沈黙が続く。 「俺、役所やめようかな」 自分の組んだ指に向かって言った。 彼女は眉をひそめた。 「なんで、公樹が」 「だってここんところずっと残業で、紗希のこと放ったらかしだった。さびしい思いさせた」 「そうじゃないんだってば」 彼女が叫んで席を立った。 「公樹が悪いんじゃないの。私なの、私の心が離れていってしまったの」 俺は彼女の手の演技を見ていた。 彼女の手は「私」というたびに効果的に胸に当てられた。 ― こういうとき、男も泣いた方が盛り上がるのかな。 必要以上に冷静だったが、腹の中に油みたいなものがどんどん溜まって重くなるばかりだ。 上目遣いで彼女を見た。 「俺の知ってる奴?」 視野の端で彼女が立ったまま固まった。 図星か。 「誰?」 彼女は口を引きしばった。 俺は息を吐いてへらへらと笑った。 「どうせ、ばれるんだからさあ、誰よ。わが社の人でしょ」 彼女の顔は陰になって見えなくなる。 「溝呂木さん」 俺は顔を上げた。 「公樹んとこの、課長」 叫ぶように付け加えて、両手で顔を覆い、そのまま劇的に泣きながら玄関から出て行った。 やっぱり、泣かないことにした。 一面の平原だった。 乾いた風が吹き渡り、首ほどの高さの枯れ草がばさばさと揺れている。 雲が次から次へと流れ、傾きかけた太陽がせわしなく隠れたり現れたりを繰り返していた。 俺は長い棒で体を支えて、草むらの中にしゃがみこんでいた。 遠くに人の声が聞こえた。 悲鳴のような、怒鳴り声のような叫びが、風と草の音に混じって切れ切れに飛んでくる。 声がする度に腰を浮かせて方向を見定めようとするが、自分の呼吸が荒すぎて耳をふさぐ。 体を支えている長い棒から、錆びた鉄の匂いがする。 棒は重く、黒く、ぬれていた。 握った手がやたらに粘っこい。鉄の匂いはそこからするようだ。 また太陽が顔を出した。手のひらを見る。 血だ。 あわてて棒を放り出し、そこらの草や地面に手のひらをなすりつける。 手だけじゃない、体全体が土と血で汚れていた。 腕や、裸足についた泥は乾いて膜となり、動くたびにがさがさいった。 つま先にしっとりとやわらかいものが触れる。 髪の毛だった。 仰向けになった顔が地面からじっとこちらに目を向けている。 俺の姿は映ってはいない。 瞳はすでににごって乾きかけている。 少し離れて、顔の持ち主がマネキンのように転がっていた。 首があった場所にどろどろと血が溜り、目をむいた生首へ赤い川をつないでいた。 下半身にまるで力が入らない。 腰はずいぶん前から抜けているらしい。 腕の力だけで、そこから離れようともがいた。 冷たいものが背中に触れた。 叫ぼうとするが声にはならない。 華奢な手のひらが口をふさいだ。 「声、立てるな。おめえがやったのか」 じっと身をすくめたが、体の芯からの震えを止めることはできない。 目の玉だけで女をとらえた。 ぼろぼろの短い着物からむき出しの手足が伸びていた。 長い髪は高い位置で一つにくくられている。 顔は土と血で汚れ、日にかげってよく見えない。 女は投げ捨てた長い棒を拾って、俺に押しつけた。 「刀あ放すな。まだ、そこらにいる」 女は首のない体に取りついて懐を探った。 三十センチほどの長さの棒を見つけると、黒いカバーを払った。 金属の白い光が目を射た。 「いい腰刀だ。もらっておこう」 太陽に刀を透かし、こちらを振り向いて白い歯を見せた。 沙希に似ている。 女の後ろに影が走った。 考える間もなく、俺は刀を槍投げの槍のように投げていた。 誰かに押さえつけられてそうしたみたいだ。 刀は鈍い音を立てて、影に突き刺さった。 女は素早く振り向くと短刀を低く構え、影に体ごと突っこんだ。 布の破れる音と短い悲鳴が響いた。 風が止むと、あたりはしんとした。 俺は腕だけで這った。 倒れた大きな体を引っくり返し、その下から女を引きずり出した。 女は刀をにぎったまま出てきた。 全身は血でどす黒くぬれ、肩で息をしていた。 俺は死体から取り上げた着物や刀を担いで歩いている。 女の背中だけを見失わぬようについていく。 時間も距離も方向もわからない。 月が昇り、あたりは夜に包まれていた。 かすかに水の流れる音が聞こえた。 冷たい風が顔に触れ、目の前が開けた。 下手に小川が光った。 女は砂利を踏んで川へ下りていった。 女は川辺で結っていた髪をほどき、着物を脱いだ。 月に照らされ、ほの白い背中が浮き上がった。 雲に月が隠れて、その姿は消えた。 ばしゃばしゃと水をかく音がする。 「冷てえ」 笑い声だ。 俺は荷物をほぐして、持っていた中で一番汚れていない着物を探した。 暗闇の中では難しい作業だったが、なんとか縞の着物を見つけ、上がってきた女を包んだ。 女は驚きもあらがいもせず身を預けてきた。 そのまま、二人は川原の草むらの中にからまり倒れた。 女の体は俺の真下だ。 抱きしめているうちに少しずつ温まってくる。 湿った呼吸が頬にあたる。 体の芯が熱く、ずきずきと痛む。 女の耳に口をつけた。 女が首を持ち上げ動きを止めた。 俺はいったん体を離して、その顔をよく見ようとする。 最初の一撃で見えなくなった。 痛みはない。 温かい液体がどくどくあふれる。 もう一回、同じところへ刀が入った。 最後に聞いたのは女の悲鳴だった。 天井のダウンライトに目がくらむ。 つけっ放しのテレビからニュースが流れている。 ソファの上で寝てしまったようだ。 体を起こした。 おかしな体勢で眠ったせいで筋肉がきしみ、汗をかいていた。 テーブルの上には空のワインボトルが倒れている。 ほとんど一人で空けてしまったのだ。 変な夢も見るはずだ。 立ち上がると急にこみ上げてきて、口を押さえトイレに駆けこんだ。 上半身が痙攣する。 便器が真っ赤に染まった。 ここも夢の中なのか。 よく考えれば、昼から赤ワインとトマトソースしか口にしていない。 涙を拭い、洗面所で口をすすいだ。 シャツに点々としみが飛んでいた。 電動歯ブラシをくわえながら、ぼんやりとニュース映像に見入る。 刃物を振り回して暴れた男がいたという。 京都駅が映っている。 おととしの夏に紗希と行った。 ― 駅ビルなのにずいぶん暗いね。 そんな会話をしたのを覚えている。 暗い建物のそこここでカップルが抱き合っていて、どきまぎさせられた。 そのとき彼女がすっと指を絡めてきて…。 テレビから目をそらせば、テーブルの下に彼女のバッグとジャケットが置いたままだ。 「バカだな」 両方つかんで外へ飛び出した。 真夜中の住宅街を走る。 とりあえず駅へ向かった。 冷たい外気がシャツを突き通す。 紗希はひどい寒がりだ。 上着なしじゃきっと震えている。 バッグの中には財布も定期も入っている。 どうやって帰るつもりだ。 歩いて帰れる距離じゃない。 電車はとうに終わっている。 おかしな男に声でもかけられたら。 息を切らせ、駅前のタクシーの行列の中に彼女を探した。 知らない顔をいくつもながめるうちに、胸の内は醒めていく。 足は止まった。 実家だから、着払いのタクシーで帰ったんだろう。 大騒ぎして、荷物を持って、うろうろしている間抜けのことなんて、どうとも思っていない。 ブロック塀を背にして、その場にぐずぐず崩れこんだ。 ジャケットを握りしめ匂いを嗅ぐ。 甘い匂いがだんだん薄れていく。 奴と寝たんだろうか? きっと寝たのだろうな。 いつからだ? 俺となくなってからか? 二人で俺の話をしたのだろうか? 二人で笑ったのか? 体をそらせ、塀に頭を叩きつけた。 予想以上に痛い。 引っくり返ってもだえた。 やけになって大声を出してみる。 転がって手足をばたばたと振り回してみた。 道の真ん中で大の字になって、変に明るい夜空を見上げる。 道行く人の靴が俺のまわりを避けて通り過ぎていく。 すぐにやめて起き上がった。 腹の中の黒い油はそのままだ。 こんなことしたって、なんにもならない。 ずきずきする後頭部を押さえながら歩き出した。 途中でコンビニに寄り、ジャケットとバッグを宅配便で送った。 彼女の住所をよどみなく伝票に書きこむ。 よく出張先からお土産を送った。 ふと見ると、シャツの胸ポケットにあの小箱が入っていた。 無意識に突っこんだらしい。 思いついて同封する。 せめてもの復讐だった。 金を払いながらウインドウに映った自分の姿を見つけ、ぞっとした。 目は落ちくぼみ、髪はばさばさに乱れている。 今朝のぞいた鏡とはえらい違いだ。 ベタなことを考える。 もし時間が戻るなら、やり直せるのだろうか? 近所の川まで戻った。 低い手すりの小さな橋の上に立った。 コンクリート製だが木の幹を模しているぶん、かえって安っぽい。 貧相な流れを見下ろす。 堤防ぎりぎりまで民家が建ちこみ、水は、背の高い枯れ草にさえぎられほとんど見えない。 枯れ草の間に目を凝らした。 誰かいる。 今、束ねた髪が揺れた。 俺は橋から堤防にまわりこんで川底に下りた。 草をかきわけながら橋の下へ向かう。 浅い流れの中に、コンクリの四角い石がいくつも突き出ている。 その上を飛び伝って影を追った。 かすかに水音がした。 水はくるぶしほどの深さしかないはずだ。 女の声だ。 「ステザ、ステザ、オレだ、どこにいる」 紗希が俺を必死に呼んでいる。 そんな錯覚に陥り、喉がつかえた。 声は橋の下の暗闇から聞こえた。 もっと彼女を追った方がいいのだろうか? ぐずぐずと考えながら橋の陰に入る。 コンクリのふちから飛び下り、水の中に踏みこんだ。 靴の裏にぬるぬるとした川底のやわらかさが伝わる。 どぶの匂いのする水がずっしりスニーカーに染み渡った。 橋の下に入ると景色も音も消えた。 後ろにも前にも、あるのは暗闇ばかりだ。 俺は真っ直ぐ前に進んだ。
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