2.娘と馬と
全2/13エピソード・完結
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2.娘と馬と

◇ 急な青い光に襲われ、思わず目を閉じる。 ざわざわとあわ立つ水音がした。 川の流れが急に早く、冷たくなっている。 薄く目を開けると、あたりはすっかり暗い。 自分の裸足の足を見下ろすのがやっとだ。 裸足? いつの間にかスニーカーを脱いでしまったようだ。 裸足の下には白く丸い石がたくさん転がっている。 流れを斜めに突っ切って、草の生い茂る岸に上がった。 女がこちらに近寄ってきた。 俺の服を引っぱり、上がるのを助けた。 女から抱きついてきた。 紗希と同じ匂いがする。 「どこ、行ってた」 泣き声だった。 「…小便」 意味もわからず、ごまかそうと嘘をついた。 「黙って行くな。オレ心配したぞ」 女は胸をこぶしで叩いた。 抱きしめながら、俺は来た道を振り向いた。 流れのしっかりした小川、崩れそうな木橋、その向こうに草原が続き、夜空には月がこうこうと輝いていた。 女に導かれるように草むらの中に身を横たえた。 さっき夢の中で女を抱いた場所に似ている。 二人は寄り添ったままじっとしていた。 薄い着物を通して体のやわらかさが伝わる。 心臓の音がシンバルのように耳の中で鳴り響く。 月の光だけなのに目がちかちかする。 女の着物の中に手が入ってしまった。温かい。 「そんなことしてるときでねぇ」 女が離れようと腕を突っ張らせる。 その力は弱い。 俺の動きを止めることはできなかった。 仰向けになった女の体に着物をかぶせた。 暗闇の中で呼吸が少しずつゆるやかになっていく。 裸のまま川まで下りていって、体を洗った。 冷たい水が心地よかった。 背中にかかると水がぴりぴりとしみる。 女が背中に爪を立てた痕だった。 声はまだ耳に残っている。 俺は頭をすっぽり、流れにつけた。 顔を出したときには疲労感が全身にまんべんなく広がっていた。 どうしてこんな気持ちになるのだろうか。 後ろめたいのなら最初からしなければよかったのだ。 川から上がって他の着物で体をふいた。 シャツとパンツが見つからない。 仕方なくそこらの着物を巻きつけ、すかすかする袴をはいた。 女から少し離れた場所に横になった。 初めは全身がぽかぽかしていたが、ぬれた髪から体温をどんどん奪われる。 自分を両腕でかき抱いたが寒くて眠れない。 起き上がってあたりを確認する。 女はそのままの姿勢で眠りに落ちている。 着物の端から体の曲線が垣間見える。 罪悪感や疲労感は脇へ追いやられた。 傍らにもぐりこんだ。 寝顔を見ていると、どうしても紗希と重なってしまう。 俺のベッドで眠っていた無邪気な姿が思い出される。 もうずいぶん昔のことだ。 温かい背中に体をくっつけて目を閉じた。 夢の中でなら、これまで何度も色々な女と寝ている。 ずいぶん生々しかったが、これもきっと夢だ。 大丈夫、俺は紗希を裏切ってはいない。 翌朝、下着を洗うハメにはなるだろうが、紗希に知られることは決してない。 こうして眠りにつけば、夢は終わる。 目覚めればきっと、ラッキーな金曜の朝からやり直せる。 頭を軽く蹴られ、はじけるように身を起こした。 女がすぐそばに立っていた。 夜明け前のとがった空気に包まれていた。 体は凍ったように冷えて、次の動作までに暇がかかった。 カラスが遠くで鳴いている。 「明るくなる前に帰んべ」 女はしゃがんで、着物や刀を縄で担げるようにまとめはじめた。 俺は自分の着ている着物にぼんやりと触れた。 麻だろうか、がさがさして体中がかゆい。 衿から手を入れて背中に触ってみる。 傷が筋状のかさぶたになって貼りついているのがわかった。 見上げると、彼女は口に手を当てて目をそらし、 「ステザ、あんだか別の男みてえだった」 後ろを向いた。 「きっと、盗人の首ねじ切った後で、おかしくなったんだあな」 急に動悸が激しくなる。 女は俺のことをステザだと思っている。 俺はステザじゃない…その根拠が思いつかなかった。 とにかくこの子といっしょにいなくてはならない、と思った。 風が震えだした。 女は立ち上がって音の方向に首を向けた。 俺は刀をつかんで体に寄せる。 震えはだんだん近づく馬のひづめの音となり、野原の彼方に黒い影がちらちらしだした。 腰の短刀に手を差し入れていた女の表情が変わった。 飛び上がらんばかりに手を振り、叫びだした。 「おーい、ここだあ」 あっという間に真っ黒な馬が目の前に現れ、地響きと荒々しい息を響かせた。 女はそのくつわにとりつき、体重の全部を使って押さえた。 馬から男が飛び下りた。 腰の長い刀ががちゃんと鳴った。 短パンみたいな袴と草鞋をはき、俺よりはずっとやわらかそうな着物を着ていた。 「大事ねえか、おサエさ」 男は女に近づいたが、俺にも気がついた。 「なんだ、ステがいっしょだったあか」 うんこにたかるハエを見るような目つきになった。 「ステのお手柄で、オレ、助かったあよ」 サエと呼ばれた女は、馬の長い顔を抱いて鼻面をかいてやった。 女でも耳に手の届く、ずんぐりとした小さな馬だ。 男はしかめ面をやめなかった。 「四人いたが、それか」 「そうだあ、二人はステがやったあだ」 サエは縄でまとめた着物や刀を男に見せた。 「信じらんねえ」 男はまた、なんともいえない表情でにらんだ。 背は低いが、がっちりとした体つきだ。 こいつと殴り合いしたら確実に負けるだろう。 日に焼けた顔は不精ひげだらけ、ぼさぼさの髪に黒い烏帽子がひしゃげてついていた。 「この腑抜けにとられる首がどこにあるだ」 サエはくつわを取って俺に渡した。 黒馬は口からぶくぶく泡を吐き、全身から湯気を上げていた。 短い首と尾を落ち着きなく振っている。 頭の中で声が響いた。 ― 水だ、水だ。 それが馬の声だというのはすぐにわかった。 ごく自然に体が動き、動物の熱い体を叩いた。 手綱を引いて川原へ下りていく。 馬も素直に応えてついてきた。 川原で綱を離す。 馬がざんぶと飛びこむと、熱い鉄をつけたみたいにあたりに湯気が散った。 ― 兵十は強く脇を蹴るから嫌えだ。 脇腹を見ると、あぶみのあたりの皮がすれて桃色の肉がのぞいている。 手を当てるとうす赤い液体がついた。 あたりはだいぶ明るくなっている。 「痛そうだ」 俺は岸辺のやわらかな草を摘んで、傷を押さえた。 馬は白目の目立つ目の玉をぐい、とこちらに向けた。 ― おれの声が聞こえんのか。 馬と目を合わせ、小刻みにうなずいた。 「ああ、なんだかわからないが」 ― お前はステザではねえな。誰だ。 「それも、わからない」 両手を上げて天を仰いでみせると、黒馬はいなないてぶるぶると全身を振った。 笑ったように見えた。 馬は好きなだけ水を飲むと、川の中に立ったまま岸辺の草をざくざく喰い始めた。 その首の陰から、俺は上にいる二人の様子をのぞく。 男が怒ったようになにか言い、サエはからかうように笑った。 かなり親しい間柄に見える。 男の腕が今にも彼女に触れそうで、気が気ではない。 男がこっちを向いたのであせった。 「ステ、帰るぞ。口取れ」 不機嫌な声が響いた。 黒馬を引いて土手を上る。 朝日の最初の一条がまともに顔にあたった。 荷物を馬の尻にくくりつけると、男は鞍にまたがった。 「おサエさ、早えとこ乗んね」 男は自分の前に場所を作って、ぽんぽんと叩いた。 「やんだあ、オレ、兵十となんか噂になりたくねえ」 サエがふざけたように笑って手を振った。 「オレ、ステといっしょに歩いてくだ」 男がいらいらと口をはさんだ。 「俺がお館様にしかられるんだ。ゲスといっしょに姫様に馬引かせたのがばれたら、頭かち割られるだ」 「やんだあよ」 サエはスキップするように馬の前に回った。 俺の腕にするりと腕を絡ませて歩き出した。 もつれた足で彼女についていく。 「おサエさっ」 男は吼えて、馬から飛び下りた。 サエの体をがっしと持ち上げ鞍に乗せた。 俺から引き綱を引ったくって、ずんずん歩き出した。 黒馬が首を傾げて、尻餅をついた俺を振り向いた。 ― 来ねえのか。 残りの荷物を担いで、馬の尻についた。 おかしな行列は野原を過ぎ、ゆるやかな山を一つ越えた。 山の森を抜けたころから、あちらに一つ、こちらに一つと家を見るようになった。 草で屋根をふいた素朴な木の家のまわりには、女や子どもたちが出て立ち働いていた。 頭の上に桶を載せていたり、柴を両手一杯に抱えていたりで忙しそうだ。 朝はもう、とっくに始まっているのらしい。 冷たい風はどこかに消え、朝日があたりを暖めていた。 女や子どもたちは行列をみとめると、仕事の手を休めて軽く頭を下げた。 「姫様、朝帰りけ」 からかうように声をかける者もいた。 サエは笑って、 「あんだよお、おめえらのために鬼退治してきたのにさあ」 と、馬上から叫んだ。 家の中から烏帽子をかぶった男たちも出てきた。 「そりゃあ、立派なお供がおってええだあなあ」 一人が言うと、皆がどっと笑った。 いつの間にか黒馬のまわりには人だかりができていた。 裸の子どもらが俺の担いでいる荷物を引っぱる。 「えーい、前をふさぐなあ」 ついに兵十がいら立った声を上げて、鞭を振り回した。 皆はふわっと避けて道をゆずり、それでも脇や後ろについていっしょに歩いた。 「盗人は何人いた」 男の一人が聞いた。 サエはくるりと瞳を動かした。 「四人やった。残りはもういねと思うが」 大人まで俺の担いだ荷物に手を伸ばして、布を引っぱったり刀に触れたりした。 よろよろしながらも、俺は引っぱり返して真っ直ぐに進んだ。 「兵十、兵十は何人斬っただ」 娘たちが二、三人固まって、くすくす笑った。 兵十はちらりと娘たちを見たが、すぐに視線を正面に戻した。 「兵十の出番はなかっただ」 サエが娘たちに答えた。 「兵十が来る前に皆、おれとステザでやっただ。ステザは二人やった」 「ステが、そんなに勇ましいとは知らなんだ」 娘たちは俺を見て袖で顔を隠し、いっそうくすくす笑った。 「おサエさのためなら、あんだってやんだあな」 頬が熱くなるのを感じて下を向いた。 でもその隙に彼女たちの姿に目を走らせる。 淡い緑や赤の着物に、腰にはエプロンみたいな布を巻きつけている。 つやつやとした長い髪を垂らして、ゆったり途中で結んでいた。 衿や、袖から垣間見える白い肌はふっくらとしてやわらかそうだ。 横を通ったら花の匂いがした。 でもと、馬を見上げた。 もつれた長い髪が馬の弾むタイミングに合わせて揺れている。 結った髪の下に日に焼けた首筋がときおりのぞく。 垢じみた短い着物のすそからしまったももとひざが伸び、馬の脇腹をしっかり押さえた。 俺のサエは別格だ。 正面に大きな屋敷の門らしき建物が見えた。 まわりに堀と板張りの塀がずっとめぐらされている。 閉じた門の上にはバルコニーのような張り出しがついていて、男が二人、自分の背よりもはるかに長い槍と盾を構えていた。 サエは馬上で尻を浮かせ思いっきり手を振った。 「帰っただあよ」 バルコニーの二人ははじけるように引っこんだ。 すぐに門が内側から開いた。 「大事ありませんでしたか、姫様」 「大事ない、ない」 サエは馬からひらり飛び下りた。 最後までいっしょにくっついてきた子どもらは、槍の男たちに追い払われた。 俺が中に入ったとたんに後ろで門がぴしゃりと閉められた。 サエは表情を変えた。 「なにかあったか」 門番たちはお互いを見交わす。 兵十が向こうの小屋を見た。 前に三頭、馬がつながれている。 「お客人か」 「ええ、その、今お館様が相手をしてますけんど、あんだかややこしい相手のようで…」 「ややこしいって」 サエの質問を門番たちは首をひねってごまかし、一礼して門に戻っていった。 兵十は俺を呼んで手綱を渡した。 偉そうに大きな声を出した。 「黒ォ、小屋につないで来い。それから盗人からせしめた荷物は小屋の中にうまく隠しておけ」 俺は手綱を握ってサエを見た。 サエは兵十といっしょに正面の一番大きな家に向かっていく。 ついていこうとした。 「ステ」 兵十が刀の柄に手をかけた。 サエがすかさず間に入った。 「ステザ、黒を馬小屋に戻して水を飲ましてやれ。兵十の言ったとおり、荷物は奥に隠してな」 彼女と離れたくなかったが、うなずいて言うとおりにするしかなかった。 「いちいち、腹の立つ奴だあ」 兵十は吐き捨てるように言って土を蹴ると、サエと正面の建物に入っていった。 二人の姿が見えなくなるまで見送った。 ― さて、おれに水をくれる気があるんだか、どうだか。 黒が鼻を鳴らした。 俺は手綱を持ち、なおも母屋の方を見ながら馬小屋に向かった。
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