赤鬼になった。
全4/13エピソード・完結
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4.いざ、鎌倉

黒が高くいななき、後ろ足で立ち上がった。 サエがきゅうと手綱を絞って落ち着かせた。 黒にとっては体にびっしりとくっついた真っ赤な紐飾りがひらひらなびくのが、どうにも我慢できないのだった。 俺は黒の鼻にとりついてささやいた。 「村から出たら、すぐに外すから」 黒は軽蔑しきった目でこちらをにらんだだけだった。 我慢できないのは馬上のサエも同じだった。 先祖伝来の鎧兜は彼女には大き過ぎた。 中でむすっとふくれているに違いないが、顔すら見えない。 「誰も見てねえのに、あんだって、こんな恰好しねえといけねえんだ」 彼女はぶつぶつ言った。 「しきたりだろ。昨日、自分で言ってたじゃん。神様だけがごらんになるって」 荷車の黒牛を引きながらとりなした。 しきたりといってしまえばそれまでだが、見送りは不吉とされた。 夜明け前の薄闇に包まれて、前庭はがらんとしていた。 いつもの朝なら、女や子どもらが引っきりなしに行き交う井戸のあたりにも誰もいない。 皆、館の中にいて戸を締め切り、息をひそめている。 サエは手綱を引き、馬の首を南に回した。 「兄者は寝坊だな。兄者はしきたりなんぞなんの役にも立たねえって、いっつも言っていたから」 俺は緊張した。 積んでいた布が動いた気がして、しわを伸ばすふりで縛り直した。 「日が昇らないうちに、出るよ」 館の門を大きく開け放す。 村の家々もしきたりを守り、戸を閉めきって静かだった。 村境の橋を渡るとき、川原にある小さな小屋が目に入った。 あれが太平の家かもしれない。 兵十を袖にした娘は粂村に嫁いだそうだ。 橋を渡りきると黒の飾りを外した。 サエもさっそく兜と鎧を脱ぎ捨て、菜の花の咲く川原へ、がしゃりと放り投げた。 「あー、せいせいした」 黒とサエはそろって身軽になって川へ下りていった。 ばしゃばしゃ顔を洗っている。 牛を外そうとして、俺は荷車から音がするのに気がついた。 さっきの布をどけ中をのぞいた。 とたんにキタが顔を出して、はあはあと息をついた。 目の下は真っ黒で、明らかに具合が悪そうだった。 彼は両手で口を押さえ、かさかさした声で言った。 「酔った」 頭を突き出し、その場でげえげえやりだした。 サエが川から上がりこちらへやって来る。 俺はサエを迎えに走り、いきなり抱きしめた。 「どした、ステ」 戸惑った声が上がった。 彼女が荷車の方を向かないようにくるりと回り、後ずさりで抱えたまま川原を下りた。 ひんやりとした草地に座らせる。 「我慢できない。サエはなんてきれいなんだ」 首筋にやたらめったら唇を押し当てた。 彼女の体から力が抜け、二人はいっしょに倒れた。 日はもう真上にきていた。 馬上でサエが大きなあくびをした。 「ステ、いいかげんにしろよ。暗くなる前に田中に着かねば、野宿だぞ」 俺だって目の前がくらくらしていた。 腰とひざが痛い。 「ごめん、あんまりサエさが可愛かったから」 荷車を気にしながら答えた。 吐くだけ吐いたキタはぐったりして、カマスの干物みたいになっていた。 半分外に突き出した白髪頭が風になびいている。 俺もあくびをした。 キタも気になるが、自分の体力がもつのかが心配だ。 穏やかな日だった。 田畑ではひばりがちりちりとあちこちでさえずっている。 「あの山に入ったら、途中に泉がある。そこで飯を喰うべ」 またあくびをしながら、サエが指さした。 菜っ葉の漬物で巻いた大きな握り飯を食べると、サエは大木にもたれ寝てしまった。 木漏れ日があどけない頬の上で震えている。 透明な泉のごぼごぼわく音が、あたりをいっそう静かにさせた。 ときおり虻が羽音を響かせ消えていく。 黒と牛は穏やかに草を食んでいる。 黒の機嫌は直っていた。 大きな黒牛は無口なのか、なにも考えていないのか、まったく心が読めなかった。 キタは握り飯を断り、汲んできた泉の水を竹筒からゆっくり飲んだ。 時間をかけ狭い中で仰向けになり、目を閉じた。 「大丈夫ですか。今ならまだ後戻りできる」 俺は乱れた髪を押さえ、ぬれた布で顔をふいてやった。 髪に隠れた眉の上に大きな古い傷痕があった。 息を抑えながらキタが言った。 「あんまり一度に色んなものを見たから体がびっくりしただけだ。森、山、泉、知らない村に花畑、鳥、虫に霞に空に…これで海でも見たら、おっ死ぬかもな」 やつれた顔をもう一度ふいた。 「キタ様は、海を見たいんですね」 彼は薄目を開けて、口をひきつらせた。 「いいや。俺が見てえのは、その向こうなんだ」 言ってしまってから、まだらに赤くなった。 日が落ち、だいぶ暗くなってから田中村の名主館の門をくぐった。 よく知っている家らしく、サエは大歓迎を受けた。 俺は白木の真新しい馬小屋をあてがわれた。 黒や牛をほどく前に、乾いたいい匂いのするわらの上に、キタの軽い体を運び寝かせた。 色の黒い少女が、かごと湯桶を下げてやってきた。 かごにはふかした里芋がどっさり入っている。 干した柿や杏もあった。 「お塩つけてね」 少女は懐から小さな椀を出した。 「ご馳走だな。ありがとう」 俺が受け取ると、前掛けで顔を隠し真っ赤になった。 「この家のお姫さんかい」 彼女はますます顔を赤くして笑った。 「お姫さんだなんてやんだあ、お客さん、口がうまいこった」 少女は奥に目をやった。 とたんに笑みが消え、びくりと一歩引いた。 キタが暗闇から手を伸ばしていた。 少女は逃げるように立ち去った。 「珍しく、腹が減った」 彼は無表情のまま、芋にかぶりついた。 疲れているのに寝つかれない。 俺は開いた戸口から星が震えるのを見ていた。 キタは背を向け、寝息を立てている。 影が戸口に立った。 目だけ動かし影を追った。 影はすぐに迫り、しなやかに俺の横にすべりこんだ。 後ろ手でキタにわらをかぶせてから受け止めた。 サエはいきなり俺の口を吸った。 苦労の末、ようやっと引きはがした。 「家の人に見つかったら変に思われるぞ」 サエは半分まぶたを下ろして、妙な目つきをした。 「ステ。隠してるだろ」 目をそらせてしまった。 「そこに誰かいるな」 サエは俺を乗り越え、わらをかき上げようとした。 彼女の胴を持ち上げ向こう側に押し出した。 「いるわけないだろ」 俺は彼女にかぶさり耳たぶをかんだ。 彼女はこれに弱い。 首をそらせて温かい吐息をもらした。 「あ」 「もういいだ、サエ、やめてくれ」 まだらになったキタが叫んで、わらから身を起こした。 サエも身を起こし、俺を突き飛ばして兄に近寄った。 「ようやく出てきたな、兄者」 サエはキタの衿首をつかまえた。 キタはおびえてされるがままになった。 「オレが気がつかねえとでも思ってたか」 サエはキタを放り出して立ち上がり、腰に手を当てて仁王立ちになった。 「いつから、知ってた」 引っくり返ったままキタが聞いた。 「ステが荷造りしてる時から」 サエは鼻にかかった声で答えた。 「でも、面白えから黙って見てた。兄者、一日気持ち悪くて大変だったな」 俺とキタは顔を見合わせた。 その姿にサエは大笑いした。 俺も吹き出した。 キタだけは思いつめた顔をして小さな声で聞いた。 「田中さに言って、村に送り返すか」 「そうだな」 サエが意地悪そうな顔で笑った。 「兄者がとても鎌倉まで持たねえのなんの、文句ばっかり言うんだったら、いつでも送り返すべ」 キタはまだ心配そうに妹の顔色をうかがっていた。 「それから」 サエはいったん小屋の外に出て行った。 すぐに大きな包みを抱えて入ってきた。 「総領息子がゲスと同じ衣裳じゃ、オレ恥ずかしいぞ」 包みには真新しい着物と、烏帽子が入っていた。 キタは着物をぼんやり見つめる。 サエは腕まくりして、てきぱき準備を整えた。 逃げようとするキタをつかまえ、思うところに座らせた。 「オレ、屋敷を出たら、きっとこうしたかったんだ」 兄の髪に油をつけ、櫛ですきはじめた。 「いいのか、サエ」 かすれた声でキタが聞いた。 「いいも、なんも、もう出てきちまっただ。オレはなんにも知らねえ。しきたりの細けえところは忘ちまっただ」 サエはなんともないという顔をして、キタのもつれる髪を引っぱった。 キタは痛いのか、困ったのか、わからない顔をした。 額を出し髪をすっかり結ってしまうと、キタの印象はがらりと変わった。 烏帽子をつけ着物を着替えた姿は立派で、白髪がかえって貴族的な印象を与えた。 眉の上の大きな切傷もすっかり見せてしまえば、思いのほか気にならない。 「にらんだとおり、兄者はひどく男前じゃねえか。あんだってオレそっくりなんだから」 サエは自分の作品をよくよく見直した。 しかし、キタはうなだれるばかりだ。 「キタ様、お疲れになりましたか」 彼は額に手をやり、俺から顔をそむけた。 サエは別の包みを開けた。 「次はステだぞ」 俺はおかしな声を上げて聞き返した。 「俺って」 サエは俺の両肩を捕まえると、さっそく櫛で髪をすきはじめた。 「あたりめえだ、オレの婿殿だぞ、もっと男前でないと困る」 「痛い、痛い」 髪が短いのでサエは力任せに引っぱる。 強引にちっちゃな髷を結い、烏帽子をかぶせられた。 「これで、おめえら二人の烏帽子親はオレだかんな。孝行しろよ」 サエはひどく満足気に、屋敷に戻っていった。 「これ、寝るときもつけるの」 俺はキタに聞いた。 かさかさと音を立てる烏帽子はなんだか変な感じだ。 キタは心ここにあらずというふうだった。 自分の烏帽子をおさえ落ち着かなく体を動かしている。 「俺、本当に大丈夫か。これ以上、人をおどかすまねはしたくねえんだが」 「すごく素敵ですよ。鏡がないのが残念です。びっくりするどころか、女たちが寄ってきますよ。お屋敷にいるときにもそうしていればよかったのに」 「どんな恰好してたって、俺は怖がられていたさ」 キタはふてくされたように言った。 「その傷を気にしているんですか」 キタはびくっと体を揺らし、袖で顔を隠そうとした。 「そうだ。この傷を、外で見せるわけにはいかねえだ」 重い打ち明け話が出る前に、俺はキタの腕を下ろさせた。 「今はお館ではありません。気軽な旅の身の上ではないですか。傷痕のひとつもない侍なんて、かえって恰好がつかないぐらいだ。本当に素敵ですよ、キタ様」 「そういうわけにはいかねえ。この傷はケガレの印だ」 キタは寝つくまでぶつぶつそんなことを言っていた。 朝日が山の端を茜色に染めている。 荷車の前に座ったキタをちらりと見やって、俺とサエは何度となく目配せをし笑い合った。 朝餉の粥を持ってきた夕べの少女は、キタの姿に見とれた。 キタは知らん振りしていたが、少女はわざわざわらをかき分け、キタのすぐ前まで粥の椀を置きに来た。 「キタ様、声をかけてやったらよかったのに。かわいらしい子だったじゃないですか」 キタはからかいを無視したが、まだらに顔を赤くしていた。 「見たかったなあ。兄者にみとれる女子かあ」 サエもくすくす笑った。 衣裳の威力はすばらしかった。 先々の屋敷では、キタも俺もきちんと座敷に通され、敬意のこもったもてなしを受けた。 ただ俺は、馬小屋に泊まるほうが気軽だった。 なによりサエと二人きりになりたかった。 それを察してか、昼間休んでいると、キタはひょこひょこ、一人で遠くまで散歩に行ってしまうときがあった。 「そんなお気遣いは無用です」 俺とキタは夜具を並べ寝ていた。 「なあ、ステザ」 キタは少し微笑むようになっていた。 「早く、おめえらにぼこができるといいな。たくさんできたら、一人俺にくれよ」 子ども。 考えてもいなかった。 自分が外からやって来た人間だということを思い出した。 そこへ戻ることがあるのだろうか。 もとの世界のことはうすぼんやりして、思い出せない。 全部夢だったような気がする。 子どもができれば、一生ここにいるのだろうか。 完全にステザその人になるのだろうか。 俺は起き上がって、キタの衾を直した。 「ご自分で嫁をもらってお作りなさい。ここの女たちもキタ様のこと色々噂して、仕事を怠けて見に来た者までいたそうですよ。今様光の君ですって」 「俺は無理だ。いっくら恰好つけても、歩いてる姿を見たら、女はびっくりしちまう。なあ、ステよ」 キタは真面目な顔になって、俺を見上げた。 「女とつがうってのは、そんなにいいもんか」 俺は思わず笑った。 抱えたひざにあごをのせて、少し考えた。 「さあ…それはどう話しても説明のつかないぐらい、いい気持ちです。そのためなら、俺は生まれてきた世界を全部差し出しても後悔しません」 キタは闇の中で、しばらく黙っていた。 やがて静かに口を開いた。 「俺のお父は大蔵じゃねえんだ。大蔵の舅、つまり爺だな。爺が実の娘のお母に手をつけたのよ。爺もガキの頃から髪が白かった。そのせいかどうか、村中誰もが俺は爺の種だって知ってる。けど黙ってた。大蔵すら気がつかねえ振りをしていた」 俺は笑いをしまいこんだ。 キタは天井の梁を見つめている。 「俺が五つのとき、村にはやり病が起こった。この病にかかって生き残ったのは俺一人だった。大人も子どもも死んだのに、俺は死ななかった。俺は病のまんま生き残った」 俺は首を傾げた。 「病のまんまって、どういう意味です」 「病は治ったが、足が動かなくなっちまったからだ。村の年寄りや坊さんは、俺の体の中にはまだ病が居座っていると言った。大蔵は俺を始末しようとした。はやり病のもとが村にいたら、また誰かが病気になる。大蔵にしたらいい口実だ。俺の顔も見たくなかったろうからな」 キタの横顔は無表情だった。 「俺は北の境まで連れて行かれた。でも刀で刺されたのはお母だった。こっそり大蔵の後をつけて、俺が刺されそうになったとき、かばって身を投げ出したんだ。お母の体を貫いた刃がこの額の傷を作った。お母はすぐに死んじまった。とち狂った大蔵は、その場で自分の首をかっ切った」 俺は夜具を払い、座りなおした。 「え、日我村大蔵様が死んだと」 キタは白っぽい目を向けた。 「サエのお父は大蔵の弟だ。総領がそういう死に方をしたんで、名を継いで形を取り繕ったんだ」 息をつめて、どうでもいい質問になった。 「じゃあ、キタ様とサエはいとこってことになるんですね」 「そうだな、顔は双子みてえに似てるんだが。お母も姉妹どうしだったからな」 キタは自分の額に手を当てた。 「ごたごたしてる間に、爺や小さい弟が相次いで病で死んだ。その後も村の長老たちは大蔵に、俺を始末しろと迫った。ところが、そのたんびに誰かが病にかかったり、村に不幸が起こる。とうとう、サエのお父は俺を殺すのをあきらめて、あの北の境に小屋を作って閉じこめた。それきり俺と話したり直接触れたりした者は、病にかかるか不吉な目に遭うと皆信じてる」 俺はそっとキタの顔を盗み見た。 彼の口の端が少しひきつっている。 「もっとも、病や不幸の話は大蔵の言い訳だと思う。あの人は体はでけえが、気が小っちぇえ。俺を殺すのが怖かったんだ」 俺は夜具の上でじっと動きを止めた。 キタは不器用にゆっくり寝返りをうって背中を向けた。 「ステ、俺はおめえを恨むよ。俺は生きてるだけで罪なんだ。だから、昔の俺に欲しいものはなかった。夢を見るのすらとんでもねえって、自分に言い聞かせてきた。なのに今は、欲しいものだらけになっちまっただあ」 俺はキタの肩に触れた。冷たく細い肩だった。 「なぜ、俺のせいにするんです。これは自分で選んだことでしょう。村を出たのは、キタ様が決めて実行したことだ。俺はちょっと手伝っただけです。欲しいものが見つかれば、自分で手を伸ばして取ればいい。あなたが罪だとか、ケガレだとかと思っているものなんて、今ここでは関係ない。もう誰もなにも言わない」 「俺は…」 キタは喉がからんで、咳払いをした。 「俺は鎌倉で商売がしてえんだ。村の馬や麦や椀なんかを、元や高麗に売って、代わりに誰も見たことのねえ外国のものを買ってくる」 俺は自分のことのようにわくわくしてきた。 「いいですね、大もうけして大きな家を建てましょう。金持ちになったら、美しい妻女をもらって、子どもをたくさん作ってください」 肩をどんと突くと、キタは痛そうに肩をさすった。 「へだらこくなよ、ステ。この俺にそんなことができると思うか」 「思います」 確信を持って答えた。 「ステ、お前はなんて…」 言いかけてキタは口をつぐんだ。 木々がいっせいに芽吹いたため、山は赤い霞がかかったように見えた。 森の中に入るとほんのり空気が暖まっている。 ごつごつと岩の突き出す谷底のような坂道が続いた。 荷車の幅がいっぱいで、何度もつかえてしまう。 俺はずっと降りて、後ろから車を押した。 キタは紙のように顔を白くして、精一杯荷台にしがみついている。 何度か車を止めて休まなくてはならなかった。 黒はサエを乗せたまま、軽やかに先へ行ってしまう。 しばらく見えないと思うと、曲がり角の向こうで止まって待っている。 待っているとわかっているのに、その度に俺の胸は不安にときめいた。 彼女がもしいなくなったら、この世界でどうやって生きていけるのか。 鎌倉に着いたら、サエはあのかまきりの屋敷を訪ねなければならない。 俺はついて行けるのだろうか。 苔むした岩を乗り越え、荷車がきしみながらようやく上りきった。 俺は肩で息をした。 待っていたサエが、馬上で真っ直ぐ腕を伸ばした。 「海だ」 俺は荷車に乗り伸び上がった。 薄赤い山の交差する向こうに、鉛色に光る小さな三角形がのぞいていた。 キタをおぶって再び立ち上がる。 キタは俺の肩をぎゅっとつかんだ。 「ずいぶん小っちぇえな、海」 キタが言ったので、サエが笑った。 「ここ、下りた先に木戸があるぞ。そっから先が鎌倉だ」 「これを。おサエが持っておけ」 キタは懐からたたんだ紙を出して、サエに手渡した。 「俺が作っておいた。おサエの証文では怪しまれる。こっちの書きつけなら、俺の頭も勘定に入ってるからな」 広げれば鮮やかに墨跡が躍っている。 俺にはちっとも読めないが、キタが達筆なのはわかった。 「馬にむながいしりがいをつけろ。それと、いくばくか渡さねえといけねえだろう」 キタは細かく指示をした。 黒がいなないて抗議した。 「そんなに、厳重な関所なんですか」 声を上げた俺に、サエはにっこり笑った。 「大丈夫だあ。これはしきたりだ。オレたちはなにも木戸破りすんじゃねえんだから」 サエの言うとおり、キタのそれらしい証文と紐に通した銭ひとかたまりとで、すんなり通った。 木戸の役人は黒を引いた男装のサエをぶしつけな視線でじろじろと見たが、サエは少しも動じず、つんと上を向いていた。 「おサエは、後で笠かぶった方がいいな」 キタが言うと、 「オレ、兜かぶればよかっただ」 サエは鼻息を荒くした。 キタは目を細め、ちょっと首を傾げた。 木戸を過ぎ、だらだら下るうちに道は広くなり、あっという間に交通量は増えた。 人をかきわけ強引に馬で進む武士、美しい着物と笠の女たち、裸の赤ん坊を背負う母親、老人の手を引くざんばら髪の子ども、鉦を叩きながら大声でうなっている僧侶、犬を連れた物乞い、桶を天秤棒で運ぶ商人…ありとあらゆる人々が行き交っている。 道端には穀物や野菜、雑貨など色とりどりの商品をござに置き、商売をしている女たちが目立つ。 そんな中に笠屋を見つけて俺は真っ先にサエの笠を買った。 値段を聞いて、サエは笠を手に震えた。 「そんなにしたのか、値切れや、ステ」 「ここじゃ、なんでも銭、銭じゃ。村じゃただでも、こっちじゃ百文」 キタが歌うようにちゃかした。 彼は朝から変にはしゃいでいる。 「兄者、鎌倉はどうだ」 キタはサエの声すら耳に入っていない様子だ。 一切を見損なうまいと思いつめた目を開いて、浮かされたようにきょろきょろしていた。 この調子では夜に熱でも出すんではないかと、俺は心配した。 巨大な寺院や立派な屋敷があったかと思えば、にぎやかな町屋がある。 穴を掘って上に屋根をたてかけただけの小屋もたくさんあった。 「日我村出の人足たちもこういう小屋に住んでいるだろう。まずはそこを見つけて身づくろいをしないと」 キタは地図を取り出した。 「それから、かまきり屋敷だ」 俺は身震いをして、馬上のサエをちらりと見た。 彼女がどう考えているのか、まるでわからない。 サエはかまきりの妾にされてしまうのか。 こんな都会で妾になるのなら、それはそれでサエにとって魅力のあることなのかもしれない。 たちくらみがして足が止まりそうになると、後ろから黒牛が俺の腰をそっと押した。 よだれが着物から糸をひいたが、牛の頭を軽く叩いて礼を言った。 「兄者、その前に海を見にいこう」 俺の思いを知ってか知らずか、サエが言い出した。 太陽はちょうど真上にあった。 日差しが雲間から差しこむと、まわりはがらりと色を変える。 鉛色の空と海は、透き通った藍色になった。 砂浜は遠くまで白く光り、青くけぶる岬まで続いている。 キタは取りつかれたように砂浜を進んだ。 杖にすがり、砂にはばまれながらも一歩一歩波打ち際まで歩いた。 やがて彼の細い脚に、白い網のような波がかかった。 彼は長い間、水平線を見つめていた。 雲が再び日をさえぎり、空と海は青黒く平板な色に沈んだ。 潮の香りのゆるい風が渡っていく。 俺とサエは少し離れて砂浜に座っていた。 ― ろくな草がねえ、喉が渇いた。 後ろで黒が怒って鼻を鳴らしているが、聞こえない振りをした。 ただサエを見つめた。 彼女の横顔にやわらかな産毛が光っていた。 ほんのり赤い頬、少し開かれた唇、首筋の後れ毛、どれもすぐに手にとって、感触を確かめたかった。 砂浜に人がいなければ、彼女を押し倒していただろう。 これからの生活に、彼女と二人きりになる場面があるのだろうか。 かまきりが彼女に手をかけたら。それが、彼女の望むことだったら。 俺は砂をつかんで風になぶらせた。 どんなにきっちりとつかんでも、砂はするすると手のひらから抜け落ちてしまう。 恥ずかしそうな顔をして、びしょぬれのキタが戻ってきた。 キタはたった四日で別人のように変わった。 烏帽子と着物のせいばかりでなかった。 干物のような目付をして無表情で、人前には一切出なかった彼が、今では笑ったり歌ったりするようになった。 人目もはばからず、杖をつきながらひょこひょこと歩き回るようになった。 もし、あのまま屋敷の隔離された小屋にいたなら、この目の前にいる知りたがりで、皮肉屋で、機知に富んだ男は存在しなかったのだ。 キタが地図を見て推理したとおりの場所に、日我村人足らの住処はあった。 途中に見たみすぼらしい竪穴式住居よりずっと人の家らしくて、俺はほっとした。 ゆるやかな下り坂の向こうに、丸太を組んだ板葺きのこぎれいな小屋が菜の花畑に囲まれていた。 まるで、日我村の百姓家をそのまま、切り抜いて貼りつけたようだ。 サエはすぐに知った顔を見つけた。 麻布を頭に巻いた赤ら顔の男が、小屋から桶を担いで出てきた。 男はこっちを向いて、飛び上がった。 「姫様」 ずいぶん遠くから、男は布を振り回し叫んだ。 サエは男のもとへ駆けた。 キタがじりと、後ずさりして荷車から降りた。 いつの間にか小さな包みを背中にくくりつけている。 「キタ様」 俺は彼のもとに寄った。 キタは笑っているように、唇の端を上げていた。 「ここでお別れだ、ステ。村には、キタは旅の途中で死んだと伝えてくれ」 キタの腕をつかんだ。 「なに言ってるんです」 キタは杖で俺を振り払い、低い声で言った。 「村の人間にとって、俺はまだカミサだ。この家に入るわけにはいかねえ」 腕を再び取れなかった。 キタは杖にすがって、足を踏ん張った。 「ステ、ここまでありがとよ。おめえなら、きっとサエを守ってくれるだろう。ここで、俺はてめえの運を試してみる。うまくいけばまた会えんべ」 彼はつんのめって歩き出した。 ぴょこん、ぴょこんと、ゆっくり歩くその姿は、やがて人混みにまぎれ見えなくなった。 サエは、キタが行ったことを知っていた。 「オレは、兄者を殺してしまうのかもな」 ぽつりと言った。 荷をほどき、蒸し風呂を施され、人足たちの歓迎を受けているうちに夜になった。 土間にむしろを敷いただけの広間で、心づくしの熱い青菜の粥を食べた。 サエは家族から託された村の土産を広げ、人足たちに手渡した。 「おめえらが、早く帰れるように、どうにかしてえが」 サエは済まなそうに言った。 人足たちは揃ってもったいない、もったいない、と首を振った。 静かに泣き出す者もいた。 夜更け、俺は雑魚寝の床から抜け出して外へ出た。 小屋のすぐ裏の土手の上に、人影がしゃがみこんでいる。 サエはひざを抱えて星をながめていた。 隣に座ると、彼女は頭を俺の肩にもたせかけた。 彼女は泣いていた。 俺は昼間の自分を恥じた。 彼女は望んでここに来たわけではなかった。 その晩は、幾度抱いてもおさまらなかった。 自分をすべて折りたたんで彼女の中にねじこんでしまいたい。 一つになったままでいたかった。 とうとうサエは一言も発しなくなり、俺はぐったりとした体を離した。 着物を着せてやり、その上に自分の衣をかけた。 俺は袴一枚で、息を整えながら座った。 踏みしだいた草の匂いが強い。 裸の腕や腹から湯気が立っている。 体のつくりや五感の感じ方が以前とはまったく変わってしまった。 俺はここでステザになったのだ。 迷いはなかった。 星は輝いていたが遠くにカラスの鳴き声が聞こえ、夜明けの近いことを知らせていた。 顔を上げた。 かすかな叫びが空気の中に震えた。 サエも目を開いた。 今度は女の声が確かに聞こえた。 サエは跳ね起きると、着物をはだけさせたまま駆け出した。 後を追う。 走りながら手を腰に伸ばし、腰の刀を確認した。 土手の向こう側は川原だ。 ざんばら髪の男たちがばらばら立っていた。 どいつもこいつも絵に描いたような強盗面だ。 とっさに勘定した。 ― 六人。 男たちの向いた先には白っぽい着物と笠が二つずつあった。 一人は笠から薄い布を垂らし中が見えない。 二人の女はお互いを絞るように、震え抱き合っている。 「やあ、助太刀いたす」 サエが叫んで、女たちの前に踊りこんだ。 男どもは全員一歩後ずさった。 腰刀を抜いたサエに、男二人が同時に飛びかかった。 たちまち、一人は顔を切られて横に飛び、もう一人は腹を深く刺された。 サエは足で蹴って、男の腹から腰刀を抜いた。 俺も鞘を払って走った。 男たちがサエから一歩退く。 その背中を二つ斬った。 返り血に目を拭い、体を起こした時には後の二人の姿はなかった。 自分の血まみれの両手をぼんやりと見た。 知らない間に体が動いていたのだ。 けがをした男らは逃げ出そうともがいていた。 俺が近づくと、はじかれたように立ち上がり駆け去った。 俺は女たちを向いた。 笠の女たちは、サエの背中に隠れようとあわてた。 「これはオレの家来だ。心配ねえ」 サエが女たちにささやき、俺に向かっては、 「ステ、なんか着ろ。そうやってると、おめえ赤鬼みたいに見えるぞ」 言って笑った。 俺は落ちた烏帽子を拾い、近くの草をむしって、顔と胸に飛び散った血を拭った。 女の笠がふわりとひとつ落ちた。 サエがあわてて支えた。 失神したようだった。 あたりの闇は薄れ、薄青い空気に包まれた。 失神した女を俺が背中に担ぎ、もう一人の手をサエが取ってその場を離れた。 俺が背中を振り向くと、烏帽子に女の笠があたって阿弥陀にずれた。 垂衣の間に中年の女の顔がのぞいた。 乱れた長い髪と絹の衣全体に香がたきしめられていた。 よほど身分のある人に見えた。 サエが笠をなおし、顔を隠した。 サエが手を引いているのはまだ十二、三歳の少女だった。 肩にかかるくらいの髪が、笠にあたってさわさわと鳴る。 ちらりと見えるあごは紙のように白い。 小さな赤い唇はきっぱりと結ばれていた。 サエは少女に言った。 「女子だけで夜道を歩くのはいくらなんでも危ねえ。送るべ」 少女はサエの陰から、怖々と俺を見た。 「私たち道に迷うたの。童が車を盗んで逃げたの」 サエが聞いた。 「お屋敷はどちら」 「わかんない」 少女のあごが震えだした。 「じゃあ、どちらへお出かけだったんですか」 「わかんない、わかんない」 少女は激しくかぶりを振り、声を上げて泣き出した。 俺とサエは顔を見合わせた。 明るくなると往来に人通りが戻ってきた。 俺たちの姿を皆がじろじろ見ていく。 サエはわざと人の多いところを選んで歩いていた。 「サエ、一度戻ろう」 俺は貴婦人を背中からゆすり上げた。 着物のせいなのかけっこう重いのだ。 サエは考えこんだように歩いている。 「いや、あいつらに迷惑がかかる」 俺とサエは同時に前を向く。 行く手に土煙が上がった。 煙の中から栗毛の馬に乗った侍が躍り出て、真正面に止まった。 見事な馬だ。 ぱちぱちと舞い上がった砂が顔や胸に当たった。 いつの間にかたくさんの役人に囲まれていた。 腰刀を抜こうと探った手をサエが止めた。 その頬を槍がかする。 喉にも槍が突きつけられた。 背中の女が奪い取られ、少女が連れて行かれた。 俺はサエを抱いて目を閉じた。 無数の槍が全身を囲んで交錯したのを風で感じた。 目を開けると、まわりはまるで虫かごだった。 俺はサエと引きはがされ、縄をかけられた。
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