5.檜屋敷
全5/13エピソード・完結
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5.檜屋敷

大きな屋敷の前庭に引き出された。 後ろ手に縛られていたので、俺は突き出されたとき前に転んで、地面にあごを打った。 サエは片ひざを立ててとどまった。 彼女の心配気な目を見ないように起き上がった。 白い顔をした侍が近づいた。 さっき馬に乗っていた侍だ。 「名を申せ。どこから来た」 サエのあごを乱暴につかんで上に向けた。 「触んな」 俺は叫んで、侍に体でぶつかっていった。 侍はひらりと避け、俺は再びあごをぶつけた。 目の前に火花が散った。 「ステ、控えろ」 侍にあごをつかまれたまま、サエが叫んだ。 俺は役人にずるずる引きずられてもとの場所に戻された。 喉に槍の柄が押しつけられ、腹を一発蹴られた。 侍はサエのはだけた胸元に目をとめた。 「女か」 俺は前のめりになって歯噛みした。 柄が喉に喰いこむ。 「これはなんのお咎めか」 サエの真っ直ぐな声に、侍は手を離した。 「それを聞くまでは、ここで名をあげることはできません」 侍は片ひざをついて、目線をサエと同じ高さにした。 「なぜじゃ。後ろ暗いか」 サエはみじんも侍から目をそらさなかった。 「違う。オレはお咎めを受けるようなことをしてないのに、あんた方はこんな仕打ちをなせえます。濡れ衣で故郷に迷惑をかけるようなことはできねえ」 侍は目を細めて、サエの体の輪郭をなぞるようにながめた。 「この娘はなかなかの道理を言うな」 俺の背中を悪寒が貫いた。 槍の柄が押しつけられて、息はほとんど詰まり、体は動かせない。 侍はサエに言った。 「お前の連れて行こうとしたお人は、檜屋敷のおひわ様じゃ」 サエは呆けたように口を開けた。 侍は少し笑った。 役者のように整った顔立ちをしている。 「知らぬのか。将軍様の次に偉い方の、北の方だぞ」 「知っておる」 サエが気を取り戻したように大声を張った。 まわりの役人たちも笑う。 侍はまた、サエのあごをつかんだ。 「勇ましいのお。どうじゃ、名無し姫、身共につとめぬか」 サエの髪が怒りに逆立つ。 激しく首を振り、侍の手を払った。 「故あって名乗らぬが、我は御家人の娘ぞ。父の名代で将軍様にご奉公に参上したところだ。これが辱め剣にて晴らさん、縄を解いて我と一騎打ちせい」 侍はひざを引き立ち上がった。 役人たちは薄笑いを浮かべながらも、サエの勢いに押され互いに顔を見合わせた。 サエがなおも叫ぶ。 「オレが怖えのか。おめえらそれでも侍か」 白い顔の侍があごをしゃくった。 「面白い。縄を解き、この娘に太刀をやれ」 脇の役人がとりなしたが、侍は腰にはいた太刀に手をかけた。 「身共が姫のお相手しようぞ」 サエは片手で太刀を掲げた。 額の位置で、地面と前後平行に構えた。 日を反射して刃が光る。 「面白い流儀じゃな」 侍の顔から微笑が消えた。 目の色が曇る。 彼は静かに片手を前に構えた。 俺は相変わらず槍の虫かごの中だ。 二人を目で追うことしかできない。 後ろ手の荒縄は動くほど肉に喰いこむ。 二人はそれぞれの構えで見つめ合い、動かなかった。 サエの瞳の奥にはらんらんと炎があった。 きっかけがあればすぐにはじけるカチ栗のように、全身が張りつめている。 侍は対照的だった。 しんとして、生気が見る間に失せていく。 その顔は春の夕方のように穏やかだ。 俺の背筋に冷たい汗が一筋落ちた。 先に動いたのは侍だった。 足を一歩外した。 「やめじゃ」 サエは構えたまま微動だにしない。 侍は太刀を下ろし、鞘におさめた。 「おひわ様もいらっしゃるのじゃ、庭を血で汚すこともあるまい。娘、刀を納めよ」 サエはまだ緊張した表情のまま構えている。 「御家人の名代というのはまことのようだ。どうじゃ、身共の腕前、ぬしはなんと見る」 侍は自分の太刀を脇の役人に預けた。 サエはくっと強い視線で侍を見上げた。 「殿のお考えは正しゅうございます。どちらかが血を流さないでは、勝負がつかないでしょう」 サエは太刀を鮮やかに一振りして、鞘に納めた。 まわりの誰もがふうと息をついた。 小さな笑い声が響いた。 振り向くと屋敷の奥に数人の女と子どもが座っている。 その真ん中にいる女が扇で顔を隠しながら笑っていた。 侍は女たちに向かってひざまずいて頭を下げた。 「おひわ様、お加減もうよろしうございますか」 「四郎、その方に失礼なりませぬ」 女は細いがしっかりした声で侍をたしなめた。 「その方は身の恩人ぞ」 扇の骨の間から見覚えのある女の顔がのぞく。 隣にはあの少女が二人の男の子と並び座っている。 力が抜けて、俺は尻餅をついた。 「ほら、あれが子分の赤鬼」 少女が俺を指さし、女たちがさざなみのように笑った。 「許してくれますね」 おひわ様は扇の隙間からサエを見下ろした。 板の間に上がったサエはひざまずき、じっと頭を下げている。 「あの後伏せってな。外の様子がようわからなんだ。犬子がなんとかとりなそうとしたのじゃが、子どものいうことを聞く者もおらなんだ」 犬子、とはあの少女の名のようだ。 娘なのだろうか。 おひわ様の横にくつろいで座っていて、男の子たちと遊んでいる。 時おりこちらを大きな黒い目で見つめる。 俺が見返すと、ひゅっと他の女房の陰に隠れたりして落ち着きがない。 おひわ様は傍らに座っている侍に扇の先を向けた。 「このあわて者は身の甥じゃ、これ四郎」 「小平四郎久重と申します」 v侍は軽く一礼したが、笑いを押し殺しているようにも見える。 サエは自分の名と出身を名乗った。 「ほう、してどなたのご奉公で参った」 四郎が聞いた。 「立川藤納様のお召しで参りました」 サエがかまきりの名を告げた。 「立川籐納とな」 おひわ様は首を傾げる。 四郎がひざで近づき、 「立川籐春の子でございます。その…」 扇の陰に耳打ちをした。 おひわ様は微笑んだ。 「立川が直に御家人を召すほど、偉いとは知らなんだ。それはそうと四郎、さきほど、ひとつも太刀を交えず引いたのはどういうわけじゃ」 四郎は澄ました顔で答えた。 「私、けがをしたくなかったからでございます」 女房たちがさわさわ笑った。 犬子が口を挟んだ。 「サエは強いよ。男を二人いっしょにやっつけたんだから」 「ほんに。四郎は賢かったえ」 おひわ様がそう言うと、女たちはまたしとやかに笑った。 おひわ様はにこやかに扇から顔を見せて、サエに向いた。 「のう、サエ殿。身に仕えてはいただけまいか」 サエは顔を上げ、まばたきをした。 「女子にもこんなに勇ましい方がいるなんて、身はとてもうれしいのです。それに、サエ殿の武者姿はきっと可憐であろう。無粋な武者がそばにいるよりずっといいではありませんか」 「おば上、男は全部無粋ですか」 四郎がとぼけた口調で言い、女たちがまた笑う。 「どうであろう。サエ殿。もちろん、立川殿にうかがわなくてはね。すぐに使いを出しましょう」 サエは頭を下げて答えなかった。 「嫌なのか、サエ」 犬子が聞いた。 「とんでもないことでございます。ただ…」 サエは思い切ったように顔を上げた。 「ひとつだけ、お願いがございます」 「控えよ」 四郎が鋭く叫んだ。 庭先で這いつくばっていた俺は侍をにらんだ。 おひわ様がのんびりとりなす。 「どんな願いか」 サエは姿勢を低くしたまま、俺を振り返った。 「そこにあるは私の…中間、日我村の捨三でございます」 急に振られて、俺は頭を地面にこすりつけた。 女たちがこそこそとささやきあうのが聞こえる。 サエは歯を喰いしばってしぼり出すように言った。 「捨三も、ともにお召しください」 扇で口を押さえたおひわ様はこっちを見た。 「そんなこと心配しておったのか。赤鬼殿も身の恩人じゃ。もちろん仕えてもらいたい。しかしながら」 扇の後で目を細める。 「その恰好は無粋じゃのう。なにか上に着せてやりなさい」 裸の上半身を隠せるはずもないのに、俺は身をすくめた。 かまきりは明らかにおどおどしていた。 「では、立川殿にご異存ないと。この者どもを檜屋敷に奉公させてもよろしいのですね」 四郎が言うと、かまきりは口を結び、小さくうなずいた。 「しかし今度は女武者とは、立川殿も物好きですな。あちこちの村から娘をお召しになっていると聞きましたよ」 四郎はにやりと笑いかけ、かまきりもお義理で笑った。 「もうひとつ、妙な噂を耳にいたしました」 四郎は扇で自分の肩をぽんぽんと叩き、いかにも今思い出したように言い出した。 「立川殿のお屋敷に、今年から人足が続々と通っているとか」 かまきりは目をそむけた。 「なにやら、大掛かりなご普請があるのですか。一度、拝見したいものですな」 「そんな、お目にかけるほどのことでは…」 かまきりが口を挟もうとしたが、四郎は構わない。 「まあそれはともかく、侍所にお届けもないまま村々から女や人足をお召しになるというのは、いかがなものでしょうか。入道様のお耳に入ると少々やっかいですな。伯父上は短気だ。このところ都や鎮西に、不穏なほこりが立つようです。早合点でもされたらつまりませんぞ」 かまきりの首が汗でてらてら光っている。 サエと俺はその後ろ姿をじっと見つめる。 「小さな普請で、人足は近々帰す予定でございます」 「ほう、いつ」 四郎はすかさず聞いた。 「来月には…必ず」 サエはぱっと顔を上げた。 四郎は笑いながら続けた。 「そうそう、どこぞのお屋敷の郎党が、村々で狼藉を働いているという噂もございました。皆、噂となると根も葉もないことを流すものです。お互い、よくよく注意いたしましょうぞ」 かまきりは卑屈に笑いながら口の中でごそごそ言って、早々に退散した。 かすかに、押し殺したつぶやきが聞こえた。 「檜の威を借る狐が」 四郎は、冷たい目でかまきりを見送った。 サエは顔を上げ、四郎をまじまじと見つめた。 「そんな顔で身共を見るのか」 四郎はさっきとはまるで違うほどけた表情をサエに向けた。 サエは地べたに額をすりつけた。 「ありがとうございます。ありがとうございます」 彼女は歯を喰いしばり、涙をこらえた。 「これで皆、村に帰れます。どんだけ喜ぶことか」 四郎は庭に下りてひざをつき、サエの肩に手をかけた。 俺の全身の毛が逆立つ。 「礼を言うのは身共の方だ」 四郎はおだやかに笑った。 手はかけたままだ。 「立川の所業は確かに噂にはなっていたが、誰も見ぬ振りじゃった。ぬしが教えてくれなんだら、面と向かって言ってやるわけにもいかなかった。侍として恥ずかしいことじゃ」 サエが顔を上げて四郎を見上げた。 二人はそのまま見つめ合った。 彼女の目の色はただならない。 俺は歯を喰いしばり、息を漏らした。 四郎は俺に気がつき、視線をはずした。 取ってつけたように言う。 「もともと気に喰わない奴なのじゃ、身共も胸がすっとしたぞ。幼いときに、あやつによくいじめられたからな」 俺はずっとにらんでいた。 ようやく四郎はサエの肩から手を外した。 「ぬしに触れると、鬼に喰われるぞ、怖い怖い」 笑いながら庭から出て行った。 風が舞うたびに、藤の花びらがちらり、ちらりと散る。 「ステ、口閉じろ、みっともねえ」 サエが正面を向いたままささやいた。 俺は舞台の白拍子から目を離さないで、空咳をひとつしてごまかした。 烏帽子の脇に藤の花をつけた白拍子は、舞を終えると衣擦れの音もさせず舞台を下りた。 舞い落ちる花びらを見るようで、生きている人間とは思われなかった。 この女にも肉体はあるのだろうか。 サエが黙って、俺のすねを蹴った。 我に返って姿勢を直した。 サエは表情を変えずに、ひざまずいたまま庭を見つめている。 おひわ様自慢の庭は緑に満ち満ちている。 曲がりくねった小川には涼しげな木漏れ日が落ち、さわさわと木の葉が鳴る。 五月の光がなにもかもを鮮やかにくっきりと映しだしていた。 ここでおひわ様は大勢を招き、歌会を催した。 五人の男女が華やかな装束をまとい、列を作り入ってきた。 知った顔は四郎だけだ。 後の四人はわからない。 古風な狩衣に身を包んだ四郎は、真っ直ぐに首を上げて席に着いた。 「小平様、なんとお美しい」 後ろの生垣がざわめく。 俺はわざと腰を上げて背筋を伸ばした。 「赤鬼のあほ、小平様が見えへんやないか」 生垣の後ろでのぞいていた下女たちが悪態をついた。 隣にいた四郎の中間、新平が俺の肩をつついた。 「手前のお姫様は、立川藤納様の妹君だぞ」 「嘘だろ」 かまきりとは似ても似つかぬ姿に目を凝らした。 豪華な装束に負けない生き生きとした横顔に、思わずため息がもれる。 「美しいではないか」 「だろ。腹違いだがな。むめ(梅)姫と呼ばれていらっしゃる。ここにいても、梅の香が漂ってくるようではないか」 新平はすう、と鼻で息を吸った。 「しかも兄者の三倍、賢いそうだ」 俺はふきだした。 サエが怒りのため息をついたので、俺たちは口を閉じた。 なにやら長々と儀式が続く。 初夏の日に照らされ、まぶたが重い。 五人の歌人が立ち上がった。 小川のほとりに設けられたそれぞれの席に着いた。 「なにが始まるのでしょう」 俺がサエにそっと聞いた。 サエはあきれたように俺を見た。 「曲水の宴って聞かなかったのか、ステ」 「俺がそんなしゃれたもの知るわけないじゃないですか」 棒を持った童が二人走り出てきた。 一人は男の子の装束をつけてはいるが犬子だ。 もう一人は、いつも犬子といっしょにいる兄弟の兄の太郎。 俺が顔を上げると、二人はこちらを見た。 幼い太郎はにこにこと手を振り、犬子に指でつつかれてたしなめられた。 見物の列から笑い声が漏れる。 童は杯に酒を注いでもらい、注意深い足取りで小川へ向かった。 「杯を置いた小さな船を小川に流す。その杯が来る前に歌を詠み、酒を飲むという趣向だ」 サエが指さして説明した。 俺は首を傾げた。 「それ、面白いんですか」 サエはまたため息をついた。 「オレも知らねえよ。でも、見ててきれいじゃねえか。ちょっと黙ってろ」 サエは庭を向いた。 四郎の方を見るようで気にかかる。 俺は生垣を振り向いた。 「ステ」 サエがたしなめたが、すぐに同じ気配を感じたようだ。 さっきまで騒いでいた下女たちがいない。 音をさせないように静かに身をすべらせ、その場を離れた。 気づいたのか相手の足音が早まる。 垣を飛び越えて追いかけた。 男の背が二つ見えた。 迷路のような生垣に戸惑っているのがわかる。 俺は走りながら石をつかみ下手で投げた。 後ろの一人の足に命中し、もんどりうって倒れた。 転んだ背中に馬乗りになって、後ろ手にねじり上げた。 サエが俺を追い越して走る。 生垣の角を曲がって見えなくなった。 曲がった先は袋小路のはずだ。 息を短く吐く音がして、金属音が響いた。 駆けつけた新平に男を渡し、生垣の角を曲がり走った。 無法者らしい大男がサエと太刀を合わせていた。 俺は腰刀を引き抜く。 気がついた男が一瞬、こちらを見た。 「たっ」 サエが鞠のように跳ね上がり、太刀を振り下ろした。 男は頭を抱えて地面にのた打ち回った。 俺と他の中間とで男を押さえた。 サエは太刀をくるりと回し鞘に収めた。 刃ではなく棟で打ったのだが、男は泡を吹いている。 当然だ。 鉄の棒で殴られたのと同じことだ。 「けちな無頼の輩だろう」 新平は、二人が引っ立てられるのを見送った。 「でも、こういう宴や祭りのときに場を乱して、ご威信に傷をつけようという企てが、ちょいちょいあるのだ」 俺たちは顔を上気させて庭に戻った。 異変に気づく者もなく、宴は優雅に進められていた。 黒が走る、走る。 砂を蹴立てて走る。 ひづめの音は砂浜に吸いこまれ、鈍い響きとなって全身を包む。 弾む鞠のように尻が浮き沈みするなか、犬子が胸に懸命にしがみついている。 「いい様、目を開けてご覧なさい」 俺は声を張り上げた。 犬子はいっそう腕に力を入れ、目を開けた。 「わあ」 彼方に目をやって、歓声を上げた。 海が夏の日をいっぱいに照り返している。 雲ひとつない空と水平線を切り分けるように黒は走っている。 「天馬じゃ、天馬じゃ」 すっかり怖さも忘れて、犬子は身を乗り出そうとした。 俺はゆっくりと速度を緩め、大きく円を描くようにもと来た方へ黒の鼻を向けた。 「もっと、遠くへ行こう。もっと駆けさせてよお」 犬子は袖を引っぱり、不満げな声を上げた。 「ここまでです。このあたりは人が多くなりますから、ゆっくり参りましょう」 犬子は俺の胸にもたれ、海に目をやった。 磯の匂いのする風が黒髪を巻き上げた。 砂浜のあちこちにびくを抱えた漁師や、波に器をゆすぐ女たちがうろうろしている。 俺は日光に目を細め、ぎくりと一点を見すえた。 波打ち際にひょこひょこと動く姿が見える。 犬子が俺の視線を追った。 「物乞いではないか。足が悪いのだな」 犬子を馬の首に取りつかせ、俺は馬を下りた。 黒の鼻を叩く。 ― 行っておいで。 珍しく黒がやさしく答えた。 「いい様、一分だけここで待っていてください」 犬子に言った。 「なんて、言ったの」 きょとんとしている犬子を馬上に残し、物乞いに近づいた。 物乞いは長い白髪を風になぶらせ、今にもつまづきそうな足取りで海へ入っていく。 彼は俺を認めると、恐ろしそうに身を縮めた。 やせこけた老人だった。 海で下帯をゆすいでいたらしい。 銅貨を彼のぬれた手に押しこめ、俺はすぐにその場を離れた。 「なにを話していたの」 黒の鼻を叩き、犬子の後ろによじ登った。 「いえ、憐れに思って銭をやっただけでございます」 黒はゆっくりと砂浜を歩き出した。 「ステザ、なんだか、がっかりした顔をしている」 犬子は俺を見上げた。 「もともと、こういう顔なのでございます」 犬子はあははと笑って、俺の頬をつねった。 「お日様はいいなあ」 犬子は腕をかざして空を仰いだ。 「わたし、姉上たちのように屋敷の中にいるのは好きではない。暗いし、抹香くさいもの。本当は百姓の子なのかも知れぬ」 俺はくすりと笑った。 この少女は子犬のようだ。 人なつっこく快活で、思ったことをすぐに口にする。 彼女は誰にでも愛され、館じゅうを自由に探検して回る。 馬小屋に住む俺の所にまで顔を出すが、おひわ様も檜の入道も彼女を止めようとはしなかった。 他の三人の姫君、太郎次郎兄弟とは明らかに扱いが違う。 不思議になんでも許された。 今日も彼女が馬に乗りたいとせがんだのを、おひわ様は二つ返事で承諾し、俺に託したのだった。 俺は真面目に言った。 「いいえ。いい様は正真正銘の姫君でございます」 犬子はふくれた素振りを見せた。 「ううん、わたしはもらい子なの。太郎と次郎はちびの癖に、ほんとの子で、おまけに男の子だから、どこへでも連れてってもらえる。わたしなんぞ、お願いしても、馬にすらなかなか乗せてもらえない。サエのように弓や剣をやってみたいなあ」 急に気が変わったようで、俺を見上げた。 「ステザは、捨て子なの」 「そうでございます。今の領主になって、日我村館の前に捨てられた三番目の捨て子です」 と、サエから聞いていた。 「それなら、本当の親はわからないのね。もしかすると、帝の子どもなのかも知れないぞ。うん、そう考えるとおかしくない話じゃ」 犬子は独り決めして喜んだ。 「ステザには田舎人とは思えぬ気品がある。言葉もきれいだ」 「最初、お会いした日に、いい様は私のことを赤鬼とお呼びになりました。おかげで皆は私をそう呼びます」 わざとふてくされて見せた。 「あの時は、ひどい恰好だったからじゃ」 犬子は一人で興奮して、目をうるませた。 「悪い公卿がすりかえて、むごくも鷲の背中にくくりつけて、飛ばしてしもうたのじゃ。なにか形見の品は残ってないの。小槌とか、錦の片袖とか。そのうち清らかな姫が見初め、出生の秘密が露見するの。そうだとよいのお」 苦労して真剣な顔を作った。 「私は、サエ様の中間で満足でございます」 「つまらん。どうして、大人は思うことをしないのかな。考えるだけで楽しいではないか。ねえ、ステザ、想い人ってなあに」 彼女の質問はくるくるとはじけ回る独楽のようだ。 どこに飛ぶのか予想がつかない。 「どこで、そんな言葉をお聞きになったのです」 「女房たちがひそひそ言うてた。でも、わたしが聞いても教えてくれぬ。なあステザ、教えて」 天を仰いでうなるまねをした。 「私もよくわかりません」 犬子はずるそうに目を細めた。 「想い人はな、夜更けに松の姉上の部屋にしのんでやってくるんだって。朝になるとそっと出てゆくのじゃ。なにをしておるのだろう。姉上に聞いたらな」 「じかにお聞きになったのですか」 思わず少女を見返した。 「そう、聞いたのじゃ。そしたら姉上は真っ赤になって、うつむいてしまわれた」 俺は声を出して笑い、すぐに引っこめた。 「それは…朝まで双六勝負をしているのでしょう」 「双六。双六ならわたしもやるぞ。太郎や次郎相手に」 「賭け事にしておいでなのでございます。賭け事は時を忘れさせます。でも、良家の姫君にはよろしくない趣味でございますから、おひわ様やまわりの方には内緒にしておいた方がよろしいでしょう。姉上が叱られたらお可哀想です」 犬子は首をすくめ考える素振りになった。 「ではステザも毎夜、サエの部屋で双六をしているの」 ぬれた砂の上をぽこぽこ進んでいた黒が、急に前足を上げていなないた。 俺はあわてて手綱を引いた。 犬子は笑いながら俺にしがみついた。 「あれ、ステザも赤くなったぞ」 「馬が暴れましたもので」 小さな声になる。 「案ずるな、誰にも話さぬ。でもこれからもこうやって、ちょくちょく黒に乗せておくれね」 彼女がとぼけているのか、無邪気なのか見当がつかない。 「双六勝負か」 サエは俺の胸の上にうつぶせに乗っていた。 彼女の体の重みと温かさが心地よくて、うつらうつらとした。 「じゃあ、勝ったり、負けたりするんだな」 サエは笑いながら、冷たい指先で俺の胸から腹をなぞっていく。 「いい様まで知ってるなんて、きっと屋敷中が知っている」 半分、寝言のようにつぶやいた。 「別にかまわねえ。おめえはかまうのか」 彼女の指が下へと降りた。 俺はびくんと身を震わせた。 「他の男がここに通ってきたら、ステはやきもち焼くか」 俺は目を開いた。 「サエは、他の男にもこんなことするのか。いやだ」 サエは空いている方の手で、俺の鼻をつまんだ。 「ばーか、屋敷中が知っているのに、オレんとこに来る間抜けなんているわけねえべ。誰も赤鬼ステザに斬られたくねえだよ。なんてえ顔してるだ、ステ、ほれ、たまには勝ってみろ」 指の動きが規則的になってくる。 「もう明るくなる。戻らないと」 歯を喰いしばった。 「すぐに片がつくだ」 サエは頭を下げ、へそに唇をつけた。 すぐに、指ではない湿った温かいものが俺を包んだ。 目を閉じて降参した。 俺はサエに勝ったためしがない。 猿が騒いでいる。 誰か来たのだ。 でも体がいうことをきかない。 黒に顔をべろりとなめられた。 姿勢を崩して、わらの上に手をついた。 「居眠りしていたな」 顔を上げると、馬小屋の中に白い着物の四郎が立っていた。 沓を履き、腰には鹿の毛皮をつけ、笠をかぶっている。 すっかり狩の装束だった。 腰につけた雪白の矢羽が、扇のように背中に広がっている。 ひざまずいて座りなおし、俺は黙って頭を下げた。 「サエ殿には断ってきた。黒馬を出してくれ」 俺は顔を上げなかった。 「聞こえなかったのか」 四郎は声を少し強めた。 「黒は、知らない方を乗せません」 俺は答えた。 ― そうでもないぞ。面白い。 黒が後ろで鼻を鳴らしたが、無視した。 「それはやってみないとわからぬ。身共も少しは馬に乗れるのだ。ぬしが口取ってくれ」 「主人の留守でございますので」 頭を下げたまま、口を引き結んだ。 サエはおひわ様の花摘みについているはずだ。 いつもはどこへでもついていくのだが、今回は女人だけの宴だと外された。 「身共はぬしの主人でないから、言うことが聞けぬ、というわけか」 四郎は笑うように息を吐いた。 それでも黙っていた。 四郎は振り向いて、遠くへ叫んだ。 「サエ殿の言うとおりだ。黒馬の前にステザが強情だ。助けてくれ」 サエは長い袴に単の着物を羽織った姿で、小屋の入口に現れた。 戸口の猿が見慣れない景色に興奮して、きいきい暴れている。 「いいんだ、ステ。小平様と行ってきてくれ」 彼女はぞろりとした絹の着物を両手で持ち上げ、地面につかないようにしていた。 赤い顔で息を切らせている。 宴の席から急いで抜け出してきたに違いない。 「承知」 俺は顔をそむけて返事をした。 サエはにっこりと四郎に笑いかけた。 「ステは、これで今日一日、小平様の仰せのままに動きます。けれど、黒の方は小平様の腕次第でございます。大変誇り高い馬でございます。お忘れなきよう」 四郎は声を出して笑った。 「うん、せいぜいけがせぬよう試してみる。世話をかけたなサエ殿、もう行くがよい」 サエは一礼した。 着物のすそを抱えなおし、小走りで帰っていった。 ― なぜ、私でないのだ。この田舎者なのだ。なぜ。 奥で小平四郎の栗毛が後ろ足を蹴って騒いだ。 くつわや鞍をつけられている間、黒はずっとさげすんだ視線を栗毛に向けていた。 栗毛は首を振り、小屋の壁や床を蹴って怒った。 黒は威張りかえって小屋を出た。 俺はくつわを持ち、馬場の中央へ引き出した。 厩の前の止まり木にいる猿がはしゃいで騒いだ。 「頼むぞ」 小平四郎は黒の首をやさしく叩いた。 「ステザ、下がれ」 言うが早いか、ひらりとまたがった。 驚いた黒は頭を高く後ろへそらし、勢いをつけて前へつんのめった。 後足が二本とも高く上がった。 四郎は身を低くして、たてがみにぴったりと体をつけた。 今度は後足で大きく二本立ちになった。 岩場を行く鹿のように、縦に斜めに高く跳ねたが、四郎はしっかり馬の首に取りついて離れなかった。 やがて、黒は馬場をぐるぐると駆けだした。 馬場の真ん中にいた俺も、ゆっくり黒を見ながら回転した。 だんだんと黒の動きが落ち着いて、一定の拍子を刻み始めた。 四郎は体を真っ直ぐに起こし、手綱を長くした。すっかり乗りこなしていた。 腹に力が入らなくなって、俺はその場にしゃがみこんだ。 地面に木切れで意味のない模様を書いて時間つぶしをした。 黒は首を振って興奮しながらも、四郎のいうままに駆けるのをやめ、並足で戻ってきた。 俺はわざとのろのろ立ち上がって、裏切り者のくつわをつかんだ。 ― ステザ、なぜ、そんな目でおれを見る。おめえはどうあれ、おれはこいつになんの恨みもねえ。こいつは脇を強く蹴ることもしねえし指示も早い。てえした乗り手だ。おめえも見習うといいだ。 黒は傲然と言い放つと、鼻を振るわせた。 「よい馬だ。見こみどおりだ」 四郎は乗ったまま、腕を伸ばして黒に塩をやった。 俺はくつわを取ったまま、ふくらはぎをもう片方の足でぽりぽりとかいた。 「どちらに参ればよろしいのでしょう」 四郎は白い歯を見せた。 「うん、山道を行くぞ。ぬしも馬も草鞋を履くがよい」 俺は四郎を見上げた。 「あの…小平様お一人なのでしょうか」 「身共と二人きりは嫌か」 彼は鞍の山形に手をついて身を乗り出した。 「いえ」 首を横に振り、準備のために馬小屋へ走っていった。 猿がまだはしゃいでいるので、思いっきり止まり木を蹴りとばしてやった。 黙りこくって歩く。 木戸を抜け切通しを抜け山に入っていくのは久しぶりだ。 「あれはなかなかよかったな」 思い出すように四郎がつぶやく。 俺はちらりと振り返ったが、すぐに前を向いた。 「ステザもそう思ったろう」 「なんのことでございますか」 名前を呼ばれれば、返事をせざるを得ない。 「サエ殿の着物姿じゃ。いつも男の恰好をしているサエ殿が、たまにああいうふうな女子の着物をつけると、普通の女子よりぐっとくる。もっとも、いつものあの短い袴姿も好きだ。足が見えるからな」 手綱を持つ手がこわばった。 彼は前のめりに鞍をつかみ、ささやいた。 「ステザ、ときに相談なのだが、ぬしのご主人を一晩、身共に貸してくれぬか」 俺はうつむいて立ち止まった。 「震えておるのか」 四郎がにやにや笑って見下しているのを首筋に感じる。 つばを飲みこんで言いかけた。 「俺は…」 四郎がさえぎった。 「ぬしに聞くまでもないか。この黒馬といっしょじゃ。肝心なのはサエが乗せてくれるかどうかだ。身共とサエはきっと合う。あの日、剣を構えたときわかった。なにか同じものを感じたのだ。女子相手にこんな気がしたのは初めてじゃ」 俺の体の中を黒い塊のようなものが通り抜けていくのを感じた。 汗ばんだ手を手綱から一度外し、丁寧に握りなおした。 自分の呼吸だけに意識を集中しようと再び歩き出した。 奴は俺が怒り狂って、腰刀を抜いて切りかかるのを待っているのだ。 そのとおりにしてやる気はなかった。 サエが受け入れるはずがない。 彼女を信じるしかない。 俺は一夜も欠かさず彼女の部屋に通っているのだ、誰も通すことはない。 そう自分に言い聞かせた。 けれど彼女の言葉のはしばしや、四郎に向けた笑顔が引っかかる。 四郎の身分の高さや、上品な物腰や、整った目鼻が女の目にどんなに好ましく映るのか。 村にとっても、檜の一族に縁付くというのは、下人を婿に迎えることよりもはるかに幸運なことだろう。 自分にはなにもない。 サエの本当の幸せを考えたら…いや、そんなきれいな気持ちではない。 俺は彼女を信じられないのだ。 何回抱いても、俺のものだという実感がなかった。 血が沸くような怒りは去り、冴え冴えとした空洞だけが残った。 サエに去られたら一体なにが残るのだろう。 ここでなにをしたらいいのか。 道中、俺は何度も石につまづいて転び、そのたびに黒に鼻面でつつかれた。 幾山か越えたところに、平らな広場がぽっかりと開けた。 小屋があり、その前に数頭の馬と幾人かの侍が待っていた。 「遅いぞ、四郎」 「置いていくところだった」 狩装束で、四郎と同じ年頃の若侍たちが三人、それぞれ馬と中間を伴っていた。 口々に小平四郎に親しげな声をかけた。 そのうちの一人はかまきりだった。 「なんだ、女武者を連れておらぬではないか」 薄紺色の装束の、年長らしい一人が不満げに言った。 四郎は馬から下りて、その侍の肩をつかみ、他の者に背中を向けてささやいた。 「浜左衛門、なぜ立川藤納がいる」 浜左衛門と呼ばれた薄紺色も声をひそめる。 「仕方ないではないか。大輔殿が代わりによこしたのだ」 「では、足利は」 「大輔殿は来られぬ。我々のようなものとはくつわを並べるのも汚らわしいとでもいうようなご様子であった」 四郎は鼻で笑った。 「なにを痴れたことを。相変わらず、ご自分の立場がわかってらっしゃらぬようだの」 四郎は浜左衛門の肩を突き放して、かまきりと茶色の服の若侍に向き直った。 「待たせたな。新しい馬に乗ってきたのでな」 「馬はいいが、女武者は。身共はそれが楽しみで参ったのだぞ」 茶色の若侍が言った。 「あけすけな奴じゃ、栗三郎。女武者はおひわ様の花遊びに狩り出されている」 「四郎が花遊びに出て、女武者をこちらに来させればよかったのに。それならば、わしらも、女房どもも双方大喜びじゃ」 栗三郎の真面目な口ぶりに、皆はげらげら笑った。 「おおかた、乗りこなせず逃げられたのではないか」 かまきりが変に口の端をつり上げた。 他の二人が顔を見合わせた。 四郎は頭をそらせた。 「おや、立川殿は、立派に乗りこなせたのでしたかな」 「横取りされねばな」 かまきりは四郎に向き、二人はまともににらみ合った。 浜左衛門が間に入って、高い声を出した。 「あー、ときにときに、今日は馬も違うが、お供も違うのだな。四郎の新平はまた腹痛か」 「いや、供も馬も借りてきた。その女にな」 栗三郎と浜左衛門は、俺に目を移した。 じろじろとなめるように見る。 「お前の主人は女か」 俺は黙って頭を下げていた。 四郎が鼻で笑った。 「大した忠義者よ」 「ますます気になるのう。その女は剣も弓も使うというではないか」 栗三郎が黒の鼻面を叩くと、黒は鼻をぶるっと大きく震わせ、栗三郎は軽くよろけた。 四郎は黒の首に手を置いて押さえた。 「うん、うぬらもうかうかしていると、首を取られる腕前じゃ。しかし、勇ましいいうても女子、ただの狩ならば連れても来られるが…」 「いつまでここにいるのだ。日が暮れるぞ」 先に馬に乗りこんだかまきりがいらいらと叫んだ。 四郎は中間の一人に聞いた。 「獲物は」 大柄な中間は一礼すると、他の二人といっしょに小屋に入り、それぞれ縄に縛られた三人の男を引きずり出てきた。 ざんばらに切られた髪が顔を覆った二人は若く、一人は白髪の老人で、どれもひどく汚れた橙色の着物を引っかけていた。 「なにをしたのだ」 四郎の問いに中間が答えた。 「この小僧は貴人の牛車を奪いました。爺いは盗みです。そしてこいつはお屋敷の女房をかどあかしたのです」 「さっさと放たぬか」 かまきりの馬の首が上がったり、下がったりしている。 他の侍たちもうなずいたので、中間は罪人の縄を切った。 縄を切られた三人はぽかんとした顔で自由になった腕や、まわりを見渡した。 「さあ、逃げるがよい」 四郎が目を細めた。 「神仏のご加護があれば、逃げ切ることもできるかも知れぬ。できるだけ、遠くに逃げるのだ」 三人の汚れた顔がさっと青ざめた。 あきらめたように一人が立ち上がって駆け出し、森の奥に消えた。 後の二人も立ち上がった。 老人が動きを早め、山道を下っていった。 残りの一人は少年といってもいい年頃だったが右足の指がない。 片足で飛びはねるように歩く。 老人と同じ道をたどって山を下りていった。 「ステザ、狩は初めてか」 四郎は馬に乗りこみながら聞いた。 俺は四郎を振りあおいだ。 「いえ、日我村で何度かサエ様と山に入りました。キジやイノシシを」 「シシよりはよほど楽だ。動きが遅いでな」 俺は突っ立ったままだ。 「以前は犬だったのじゃ。でも伯父上が犬好きで、哀れじゃというて禁止された」 向こうで浜左衛門が声を張り上げた。 「獲物は三つじゃ、取れなんだ者はいかにする」 「一献もってもらおうぞ」 「またか、どうせわしじゃ」 浜左衛門がおどけて言い、侍たちは皆笑った。 俺はかさかさした声で、四郎に聞いた。 「人を…狩るのですか」 彼は目を細めた。 「戦で犬やシシを討ったとて功とはならんぞ。罪人なのだ。わずらうことはない」 四郎は腰から矢を一本引き抜き、弓につがえて様子を見た。 先の丸い鏑矢ではない。 実戦に使用する鋭い征矢だ。 「供を」 かまきりが叫んだ。 それぞれの中間たちが持ち場へ走り出した。 「ステザはこの道を下れ、獲物が見つかったら追い立てんでもよい。声で知らせろ」 四郎は、つがえた矢を俺に向けた。 その目がいつかのように静かに曇っているのを見た。 俺は二、三歩後ずさりし、きびすを返し走り出した。 山の道をどんどん駆け下った。 曲がり道で立ち止まり、耳を済ませた。 鳥のさえずりが若葉の木々にこだまする。 自分の呼吸音が一番うるさい。 背後で草ずれがした。 顔を上げると、鹿が正面を向いていた。 耳がぴくりと動く。 次の瞬間には飛びはねながら、白い尻毛は木陰に消えていた。 鹿を追うように道から外れて、笹の生い茂る藪の中へ入った。 腰の高さの笹が腕や足を切り、とげのように刺す。 かまわず水をこぐように進んでいった。 俺は何の目的で進むのだろう。 逃げているようだ。 背中に走るのは汗ばかりではなかった。 つまづき倒れ、そのまますっぽり笹藪の中にもぐった。 ざっ、と派手な音が鳴った。 真っ直ぐ前を見ると、その先に無表情な顔があった。 目が見開かれ、こちらを見ている。 少年はやまねのように体を丸く小さくして、ひたすら息をひそめていた。 「おい」 俺はささやいた。 少年は初めてまばたきをした。 「道案内をする。ついて来い」 少年は動かない。 「お前を逃がす」 腕を伸ばし少年の着物をつかんだ。 彼はでく人形のように動かない。 「来い」 少年を引っぱって立たせた。 足がぐらぐらしてちゃんと立たない。 その胸の下にもぐって背負った。 「主人のところへ連れて行くのか」 背負われた少年が初めて口を聞いた。 俺は歯を喰いしばり足元を探った。 「どうとでも、とれ」 馬が通る道からは離れた方がいいが、足元が悪すぎる。 ぬかるむ土に何度もすべってひざをついた。 少年の両足は細く白かった。 よく見れば左足も指が欠けている。 彼は俺の視線にすぐに気がついた。 「小さいとき、牛に踏まれて腐って落ちた」 俺は目をそらし、彼をゆすり上げた。 「逃げても無駄だぜ、おじさん」 少年は笑っている。 「しゃべるな」 笹の高さはあごほどになっていた。 藪の横手から顔を突き出し、まわりをきょろきょろ見渡した。 この先に集落へ続く細い道があるはずだ。 行きに通った道だ。 侍といえど人家にいきなり矢を撃ちこむことはあるまい。 ひづめの響きがすぐ背後に聞こえた。 頭を藪に引っこめたとたん、矢が、俺の烏帽子をかすった。 「ステザ、出て来い」 四郎の叫び声がした。 立て続けに矢が藪をついて、足元に刺さった。 馬から下りた。 ざくざくと藪を踏んで近づいてくる。 「今、出てくれば助けよう。丸見えだがな」 真上で声がした。 俺は恐る恐る上半身を起こした。 二歩と離れていないところに四郎が矢をつがえ立っていた。 矢の先は真っ直ぐ俺の眉間を狙っている。 ぎり、と弦が鳴る。 腰の短刀が引き抜かれた。 少年がはじけるように飛び出し俺の前に立ち、鞘を払った。 四郎は弓矢を捨て、太刀を引き抜いた。 血しぶきが視野を奪った。 四郎は太刀を一振りして血を払った。 少年は胴を袈裟切りにされていた。 刃は背中まで貫いた。 四郎は弓を拾い、黒のところまで戻った。 「首を持って参れ」 n大声で告げると、黒にまたがり走り去った。 俺は這ったまま少年の体に近づいた。 彼の手には俺の短刀が握られていた。 刀を引き抜こうと触れれば、まだやわらかく温かい。 その指はぴくぴくとひきつるように動いた。 俺は刀を取り落とした。 少年の目は見開かれている。 震える手でまぶたを下ろそうとしたが、うまくいかない。 身動きすれば、体のすべてがばらばら崩れてしまう気がした。 日がかげった。 短刀と鞘を手探りで拾って立ち上がると、ひづめの響きを感じた。 木陰に人馬の影が透ける。 俺は動きを止めて眉をしかめた。 風を切る音がした。 どん、と体が突っ張り、横倒しにされた。 肩から背中にかけ矢が突き通った。 黒い矢羽が頬に当たり変にくすぐったかったが、すぐに目の前が暗くなった。
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