第二話

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第二話

 折りたたまれた手紙が、広げられる音がする。  瞬間、隣にいるはずの谷崎くんが遠くへ行ってしまったように感じられた。  今、彼がいるのは一年前、それとももっと昔なのかもしれない。私は、一年前の自分はどこで何をしていただろうかと考えながら、風に追い立てられる雲を見上げていた。 「……誕生日の、祝いの言葉だった」  思ったよりも早く、谷崎くんは現在に戻ってきた。手紙に目を落としたまま小さな声で語り始める。 「俺の誕生日に、青子がプレゼントをくれたんだ。本当はメッセージを書いたけど恥ずかしいから、って見せてくれなかった。それが、この手紙だったんだな……」  言いながら谷崎くんは、手紙を私にも見えるように近くに寄せてくれた。 「私が読んでもいいの?」 「ああ」  谷崎くんが大きくうなずいてくれたので、私は安心して手紙を読み始める。  便せんいっぱいに躍っている文字は、青子ちゃんの名前と同じ青色のペンで書かれている。  一番最初に、お兄ちゃん誕生日おめでとう、と言う言葉が目に入った。それからプレゼントについて触れられている文面が続く。  青子ちゃんは谷崎くんの誕生日に、手造りのキーホルダーをプレゼントしたらしい。苦労して作ったキーホルダーが完成したときの喜びが素直につづられている。  これまでに何枚も青子ちゃんの写真を見せてもらったので、知らず知らずのうちに青子ちゃんが私の身近な存在になったような気がしていた。  キーホルダー作りをしている青子ちゃんの様子が目に浮かぶ。それはとても楽しそうな情景だった。 「手紙を書いてたなんて、知らなかった。もっと早くに気づいていればよかった」  青子が亡くなる前に。そう続けたかったのかもしれない。けれど谷崎くんはそこで言葉を途切らせ、何も言わずに手紙の文字に指を滑らせた。  もしかすると、谷崎くんは言わなかったのではなく、何も言えなかったのかもしれない。谷崎くんの横顔は、あふれてくる思いを必死で押しとどめているように見えた。  そんな谷崎くんに対して、私は何もできないかもしれない。でも……それでも。  私は靴を脱いで、両足をベンチの上に乗せた。 「原田?」  谷崎くんが驚いた声を出す。私はそれには答えずに、今まで並んでいた谷崎くんに背を向けるようにして、横向きに座りなおした。  ベンチの上で立てた膝を抱え、そのまま谷崎くんの肩にもたれかかる。 「あの、見当違いだったらごめん。今の谷崎くんね、無理に気持ちを折りたたんじゃってるような気がするから、だから……」  言い訳のように私は話した。自分のしたいことが上手く説明できない。  前に屋上で、谷崎くんと背中合わせに座ったことを思い出す。あのときは谷崎くんが私に元気をくれた。今度は私が、谷崎くんの気持ちを軽くしてあげたい。たとえ、ほんのちょっぴりでも。 「気持ちを折りたたんじゃうと、辛いから。谷崎くんが感じたそのままの気持ちでいられるように、手伝えたらいいなって思って……」  動かない谷崎くんの背中に向かって話しているうちに、自分が本当に見当違いをしていて、ピントはずれなことを言っているような気がしてきた。すごく恥ずかしい。  さらに言い訳を探していると、突然背中がずしりと重くなった。谷崎くんの肩の重みだ。  背中越しに、谷崎くんの肩の震えが伝わってくる。息を詰まらせたような小さな震える声も、伝わってきた。  谷崎くんの心が動きだしたんだ。どんな小さな震えも逃さず、すべて受け止めたくて、私は動かずにじっとしていた。けれど、私の肩も震えてしまっていたかもしれない。  話そうとすると泣き声ばかりが出てきそうで、今は声が出せなかった。だから私は心の中で谷崎くんに話しかけていた。  どうか、どうかそのままの気持ちでいて、無理をしないで。私は、いつも谷崎くんのそばにいるから。  谷崎くんの肩の震えはおさまっていた。だいぶ気持ちが落ち着いてきたのかな。 「今日は、雲の流れが早いな」  背中からぽつりと、谷崎くんの声が聞こえた。もう、いつも通りの声だ。私は少し安心して、ゆったりとした動きで顔を上げた。 「うん、早いね」  私たちが眺めている間にも、雲はどんどん形を変えていた。ひとかたまりになっていた雲はあっという間に広がっていって、中央にぽっかりと青空が見えてきた。  その雲のすき間を見て、私は想像するしかできない谷崎くんの気持ちに思いを馳せた。  大切な人を失った痛みは、たとえ時が過ぎて形を変えることがあっても、消えることはないのだろう。  どれほど時間が経っても、きっと胸に空いた空間は消えない。その空間に他のものをはめ込むことはできるかもしれないけれど、パズルのようにぴったり合ったピースは、見つからないのだと思う。  けして同じ形にはならない。すき間があるままなんだと思う。  だけど……だから私たちは一生懸命に、無くしたピースの代わりになるものを探すのだろう。  たとえばそれは、誰かがくれる優しい気持ちや、胸にしみるきれいな景色。今、じわりと伝わっている背中の温かさもそうだと信じたい。  谷崎くんの心の空間に、優しいものがたくさん増えていきますように。そして私も、優しい気持ちを増やすお手伝いができますように。  祈るように少しだけ目を閉じたあと、もう一度空を見る。雲の中央にはまだ、ぽっかりと穴が空いて青空をのぞかせている。  けれど少しずつ、作り始めの綿菓子のような雲が、青い空間をなぐさめるように走りこんできた。薄い雲のマフラーを身に付けた青空は、なんだか暖かそうに見える。  風の強さにもマフラーは乱れることがなく、空と雲は仲が良さそうに一緒に流れて行った。 「原田も、しんどいときは言えよ」 「えっ?」  突然、話題が自分のことになって驚いた私は、もたれていた背中を起こし、谷崎くんの顔が見えるように姿勢を変える。 「こないだ、久々にひどい貧血起こしただろ。原田は弱音を吐かないけど、俺は少しでも原田の辛さを理解したいと思ってるから」  谷崎くんの声は控えめだったけれど、私に向かってまっすぐ届いた。 「あ、うん、ありがとう。でも、慣れてるし……」  そのとき谷崎くんにお世話になったことを思い出すと、私は申し訳ない気持ちになって、自然とぼそぼそとした話しかたになってしまう。 「そういう辛さは、慣れるようなものじゃないだろ」 「……」  胸が痛い。どうして谷崎くんは、自分が辛いときにも私のことを考えてくれるんだろう。胸がぎゅっと痛くなったあと、泣きたい気持ちになる。  それでも一番最後には、やっぱり嬉しい気持ちで心がいっぱいになるんだ。 「う、うん。やっぱり今度はいつ、しんどくなっちゃうのかなあ、嫌だなあ、なんて思ったりもする……かな」  私は谷崎くんに応えるために、正直な気持ちをきちんと話そうと決めた。「何かね、私が愚痴を言うことで、相手の人を嫌な気持ちにさせちゃうかも知れないって思うと、怖くて。それに後ろ向きなこと言うと、気持ちまでマイナスに引きずられそうな気がして」 「ああ、何となくわかるな。辛いって言ってたらもっと辛くなるような気がする」 「そう、それ」 「まあ、あんまり愚痴が続くようだったら、うざいって言ってやるよ」  谷崎くんはそれまでの真面目な表情をがらりと変え、にやりとからかうような顔になった。頭を横に向け、私の顔を下からのぞき込む。 「ええー、やだよー。へこんじゃうよ」  私は勢いよく反対した。谷崎くん、私が落ち込みやすいの知ってるから、わざと言ってるんだ。いじわるモードのスイッチが入っている。 「前もって予告しておいたら平気だろ」 「平気じゃないよー」  なぜかだんだん楽しくなって、私も笑った顔になる。言い合いがひと段落ついたと同時に、私たちは吹き出した。 「まあ今のは冗談だけど。本当にしんどいときは無理しないで言えよ」  谷崎くんは軽く私の背中を叩いて、混じりけのない笑顔を見せてくれた。その声も仕草も遠慮がちだったけれど、私をとても安心させてくれるものだった。 「うん! ありがとう」  いつも、見ていてくれる人がいる。それだけで、冷たい風が吹く公園も、優しい景色に変わってしまうんだ。私は浮き立つ気持ちをそのままに、話し始めた。 「私、普段から谷崎くんに助けてもらってるんだよ。寝込んでるときでも、谷崎くんがくれた写真を見てたら、すうっと気分が楽になる気がするもの」 「ちょっと大げさじゃないか、それ」 「大げさじゃないよ、本当だもん。何か谷崎くんにも、安心できるようなものをあげられればいいんだけど。谷崎くんに谷崎くんの写真貸してあげても、意味がないしなあ」  私が他に安心できるものと言えば、昔から一緒に寝ている猫のぬいぐるみだけど……それはもっと必要ないだろうし。 「……別にそういうのは、なくても大丈夫だ。ただ……」 「ただ?」 「朝学校で会ったとき、帰るときにも、あいさつしてくれたらいい」 「え! 谷崎くん、そんなことでいいの? いつもしてることなのに」 「ああ。……今も名前、呼んでくれてるだろ。俺は、それでいい」  谷崎くんが本当にそのことを大事にしているのだと、声の調子で分かった。  気のせいかな。谷崎くんの気持ちが、ちょっぴりわかったような気がしたんだ。もしかしたら私の思い込みかもしれないけれど。  谷崎くんの手にある青子ちゃんの手紙を見つめる。『当たり前』が消えてしまうことの悲しさを、谷崎くんは知っているから。だから当たり前のあいさつを大事に思っているんだって、そんな風に思ったんだ。  私は谷崎くんの目をしっかりと見て、名前を呼んだ。 「……谷崎くん」 「ああ」  優しい声が返ってきたのが嬉しくて、私は少し身を乗り出し、もう一度呼ぶ。 「谷崎くん」 「……俺が呼べって言っといて何だけど、変だな、これ」  谷崎くんはわざとらしく咳払いをした。眉をしかめ、視線をあちこちに動かしている。恥ずかしいのをごまかしているのかな。 「え、そ、そう……かな」  確かに、ただ名前を呼んで返事をしているだけの二人って、おかしい……かもしれない。 「やっぱり、そうかも。ちょっと恥ずかしいね」 「じゃあ、恥ずかしいついでだ」  ぴたりと動きを止め、谷崎くんは私の目を見た。ちょっぴり怖いくらいの真面目な表情のまま、ゆっくりと口を開く。 「真純」 「…………」 「あれ、食いつかないな」 「え! あ、の、ええと……」  今のは、私の、名前?  私が驚いた顔のまま止まっていると、谷崎くんは気まずそうに頬を手のひらでこすった。 「やっぱ、名前で呼んだら変か」 「ううん、う、嬉しいよ。ホントだよ。ただ、びっくりしちゃって」  変、なんてこと、全然ない。私は懸命に自分の気持ちの説明を始めた。 「自分の名前、そんなだっけって思って」 「……は?」  しまった。私のほうが変なことを言ってしまったみたいだ。それも、かなり。谷崎くんは口を半開きにしたまま止まってしまっている。 「ああっ、谷崎くん今、すっごい呆れてるー!」 「わかってるなら話は早いな」 「もうっ」  恥ずかしい気持ちをげんこつに込めて、谷崎くんの背中を叩いてみる。  けれど私のパンチにはまったく威力がないみたいだ。谷崎くんは「効かないな」なんていいながら笑い続けている。  だって、なぜだかわからないけれど、名前を生まれて初めて呼ばれたような、そんな気持ちになったんだよ。  今まで普通だと思っていた自分の名前が、とても大事なものになったような、そんな気がしたんだよ。 「もう、谷崎くん笑いすぎだよ……私、本当に嬉しかったのに」 「わかった、わかったよ。じゃあこれからは、そう呼ぶ」  谷崎くんは仕方がないなあ、という風に肩をすくめた。人を笑い飛ばしておいて、反省の色がまったく見られない。  私をからかっているときの谷崎くんは、ものすごく生き生きしてるような気がしてなんだかくやしい。  本当はくやしい気持ちより、名前を呼んでくれた嬉しさが大きかったりもするのだけど。  まだ笑っている谷崎くんに時々文句をいいながら、私は自分の頬に手のひらを当てた。まだ顔が熱い。  今からこんな状態で、明日からの私、どうなっちゃうんだろう。名前を呼ばれるたびにこんな気持ちになってたら、とても心臓がもたないよ。それともすぐに慣れてしまうものなのかな?  そう言えば、私が谷崎くんを下の名前で呼んだら、どんな感じになるんだろう。  少し想像しただけで、頬のほてりがひどくなってしまった。呼ばれるのが比にならないくらい恥ずかしい。実行に移すにはかなりの鍛錬が必要みたいだ。  とりあえず私は、心の中で予行演習をすることにした。予告なくいきなり下の名前で呼んで、谷崎くんをびっくりさせちゃうんだから。  蒼くん、今日はありがとう。  ……やっぱり恥ずかしい。名前を呼ぶことがこんなに遠くけわしい道だとは知らなかった。おかしな汗が出てきちゃったよ。 「……何一人でにやけてんだ」 「に、にやけてなんてないよー。これが普通の顔だもん」 「ほら噛んでる。真純、また妙なこと考えてたろ」 「考えてないってば」  あまり意味のないことを話しながら、二人で川沿いを歩き始める。意味がないといっても、私にとっては楽しいひとときだ。谷崎くんにとっても、そうだといいな。  歩きながら、谷崎くんは手紙を愛おしそうに見つめてから、そっと上着のポケットに入れた。  大切な青子ちゃんの手紙。  私もこの日常を、大切に思う。
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