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「逢坂さん、逢坂さーん……?」
「…………」
「ねぇ! 逢坂さんってば!!」
「ひあっ!」
その低く自分の名を呼ぶ声に気づいた逢坂美咲は驚きながら、読みふけっていた買ったばかりの少女漫画から顔をあげて、後ろを振り返る。そこには、制服でもあるグリーンのエプロンをつけた、アルバイト先の後輩男性が立っていた。後輩……彼は少しイライラした様子で、話を続ける。
「あの、今度の木曜なんですけど……バイトのシフト、かわりに入ってもらっていいっすか?」
「……へ?」
「他の人も予定あるみたいで……こういう時にかわってくれるの、逢坂さんしかいないんですけど」
ミサキは休憩室に貼ってあるカレンダーを確認した。今度の木曜日は……クリスマスだ。それならば、仕方がないだろう。美咲には彼らと違って、何も用事はない。悲しい事に。
「い、いいですけど……」
そう返事をした美咲の肩は小さく沈んでいる。それに引き換え、後輩の顔といったらなんとも晴れやかな表情なんだろう。
「よっしゃ。じゃあよろしくお願いしまーす。あ、俺もう上がりなんで帰りますね」
「う、うん。お疲れ様です……」
バタバタとした様子で、後輩の彼はエプロンを適当にたたみ、荷物を整えて休憩室から出て行く。美咲も時計を見て……そろそろ休憩時間が終わることを確認した。
ショッピングセンターの一画にある全国チェーンの書店が、美咲のアルバイト先だった。高校生のときから始めて早四年、二十一歳になった美咲は、もう中堅と呼んでもいいくらいの働きをみせていた。が、その存在は店長以外には軽く扱われている。
少し……いや、だいぶおどおどとしていて、自分に自信がない様子。マニュアルに乗っていない言葉はその話し方すら覚束なくて、話しかけてもなかなか目が合わない。後輩アルバイトの言う事に逆らうこともない。
そして、色鮮やかな恋愛がメインの少女漫画や少女小説を読みふけるわりには……未だかつて、男性と付き合ったことはない。ついでに言うと、一度も告白されたこともない。
美咲は、年齢=彼氏いない暦の、立派な『モテない女』だった。
もちろん、色恋沙汰に興味がないわけではない。いつか自分も、ステキな誰かと恋に落ちてそのまま……と妄想したのは一度や二度ではなく、それこそ、毎日のように飽きることなくしている。
しかし、それは夢に見るだけのフィクションの世界の産物で、そんなキラキラした現実は中々美咲の元に落ちてこない。クリスマスを共に過ごすカップルのために、アルバイトのシフトを変わるのが関の山だ。
(しょうがないよね……)
美咲は、誰もいなくなった休憩室で大きなため息をつく。
読んでいる途中だった少女漫画をカバンにしまい、そのカバンも自分のロッカーに放り込む。少しだけ気を落とした様子の美咲は、重い足取りで書店に戻っていった。
「店長、レジ入ったほうがいいですか? それとも、本棚、整理の方が……」
閉店間際の本屋にいる客はまばらだ、そろそろ店じまいの準備を始めてもおかしくはない時間だった。美咲がレジに立つ店長にそう聞くと、店長はヘラリと笑う。
「ごめんな、美咲ちゃん。レジは大丈夫だから、ぼちぼち閉店の準備始めてもらっててもいいかい?」
「わかりました」
四十を越えた店長は、美咲がアルバイトを始めるよりもずっと前からこの書店で働いている。高校生のころからここでバイトをする美咲とは、随分長い付き合いになっている。このショッピングセンターで美咲がスラスラと話すことができる、数少ない人物の一人だ。長く連れ添った奥さんがいる彼は、最近では反抗期を迎えてしまった中学生の娘との付き合い方に悩んでいる。たまに美咲もその悩みに付き合うが、父親との関係があまりうまくいっていない美咲では、あまり参考にならなかったようだ。
もちろん、この二人が『店長とバイト』を超えるような関係になる気配もまったくない。
「そうだ、店長。あの、湯島さんが……」
「湯島くん?」
湯島、というのはさっき美咲にアルバイトのシフトを押し付けた後輩の彼のことだ。
「今度の木曜日、シフトかわってほしいって言われて……」
「かわったの? 木曜ってクリスマスじゃないか、美咲ちゃん、いいの?」
「はは……まあ、特に予定もないですし」
「お人好しって言うか、気が弱いって言うか……大丈夫かい? 人生損するよ、そんな生き方じゃ。自分の意見もたまには押し通していかなきゃ」
「あはは……」
美咲の口からは、乾いた笑いが漏れる。
「私なんて別に、クリスマスの夜景の一部になれるだけで十分なんで……」
「またそうやってすぐ卑屈になるんだから」
「それじゃぁ本棚の整理してきます……」
居たたまれなくなり、美咲は逃げるように売り場に逃げていく。多くの客が見ていって乱雑になってしまった本棚を整理し、抜けている部分には書籍の補充をしていく。少女漫画コーナーに来た時、美咲はまた少しため息をついた。
この世界にはこんなにも愛だの恋だの溢れかえっているのに、どうしてその端っこくらい自分のところに誰も分け与えてくれないのだろう? 私だって、男の人に言い寄られたり迫られたり、キスしたり……あわよくばそれ以上のこともシタい……そこまで妄想しかけて、美咲は我に返った。バイト先で不埒な妄想に浸るのはまずい、そういうのは家に帰ってからにしよう。美咲はこころを無にして、黙々と作業に移った。
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