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馬車の向かう先
時は数時間前に遡る。
朝食を終える頃には雨が止んで、幸先が良いと宿を出たマリエット・レインジルの乗っていた馬車は、アンブラに入ろうという手前で突然がくんと揺れた。なるべく人目を忍んでの外出のため、普段乗っているものよりいくらか狭い馬車の中、付き添いのメイド――ニーナは馬車の小窓に掛かった薄いカーテンを捲る。
止まった勢いで腰が浮き、危うく自分の仕える令嬢と額をぶつけそうになった彼女は内心冷や汗をかきつつも、よく状況を確かめようと黒目がちな瞳を動かした。首都へ向かう道中なので、必然的に街道の人通りも多い。急に止まった馬車に怪訝そうに目をやる者、邪魔そうに避けて行く者、よく見れば馬車の周りに日差しを反射してきらきらと光る石が散らばっていた。
そこにしゃがんだ色合いの深いコートに長い黒髪を編んで垂らした背中が見えて、もしやと思った矢先、くるりとその背中が向きを変えてニーナと彼の目が合う。思わずカーテンを閉じた。
「どうしたの?」
マリエットがニーナを気遣いながら声を掛けた。
「ええと、その、お嬢様、」
目が合った青年の顔が険しいのを認めたため、これはまずいとニーナは焦る。おそらく彼とぶつかったか、ぶつかりそうになったのだ。そして散らばった石。あれは宝石なのかもしれない。
そうこう考えるうちに、馬車の扉に近付いた彼がノックの音を立てた。至って紳士的に、怒りを露わにしない落ち着いた様子の音で。それが逆に恐ろしい。
ごくりと唾を呑込んで、しかしニーナも意を決して馬車の扉を開けた。
「突然申し訳ありません。少々お時間はよろしいでしょうか」
整った顔立ちに、有無を言わさぬ笑顔が張り付いていた。お嬢様をお守りしなければとニーナが口を開くより先に、訪問者に対して笑みを向けたのはマリエットだった。
「どうかなさいましたでしょうか?」
朝露を帯びた若葉の色をした髪を目に留めたか、青年がほんのわずか表情を驚きに変える。
「ええ……こちらも考え事をしてぼんやりしていたので申し訳ないのですが、あなた様の乗っておられる馬車とぶつかりそうになってしまいまして」
「まあ! それは申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
「その点はお気遣いなく。そちらの御者も上手く避けてくださいましたから、このとおりピンピンしております」
彼は両手を広げて見せる。そのまま「ただ、」と続けて、
「手荷物が散らばってしまいまして。少しばかり厄介な代物ですので、拾う時間を与えてはいただけませんか? どちらの方か存じ上げませんが、足を止めてしまう無礼をお許しいただければと」
前半は本当だろうが、後半は嘘だとニーナは思った。マリエットを見た瞬間のあの顔は、彼女を知っている者の反応だった。
「もちろんです。こちらの不注意もありますもの。馬車はこのまま止めたままが良いのよね?」
「はい、車輪の傍にも転がっていますから」
「とても細かいものだったのかしら。本当にごめんなさい。お手伝いは――」
「いいえ、それには及びません。あまり一般的なものではありませんから、慣れない方に怪我をさせてしまっていけないので」
素人は触るなと言外に言う。
「貴重なものなのね」
「ええ、とても」
「それでは今度、お詫びの品を家の者に持たせますわ。何がいいかしら」
「そんな大それたことをしてくださらなくとも……」
「こちらの気が済まないのよ。どこへ向かわせたらいい?」
「本当に、そこまでしてくださらなくて結構ですので。ものさえ拾わせていただければ」
「そう……ところであなた、カウダ・エレジャスよね」
ぽかん、と青年の顔が呆けたようになった。二人の会話を聞いていたニーナはさすがお嬢様、と静かに心の拍手を送る。お互い名乗らず済まそうとするつもりだったのだろう彼を、ここでみすみす逃がしてはならなかった。
「……どこかでお会いしましたでしょうか?」
笑みを取り戻したカウダが聞き返す。
「会うのは初めてだけれど、そうね。どうして手紙の返事をいただけないのでしょうか?」
マリエットは涼しい顔だ。
「数日前、わたくしはジェイスにあなた宛ての手紙を託したのですけれど。もしかして読んでいらっしゃらないのかしら?」
「……読みましたよ。しかし、」
「セレスタイン氏を紹介して欲しいんです」
「ええしかし、依頼される内容までは書かれてはいませんでした」
なので紹介はできかねます、マリエット・レインジル様――と。やはり知っていたんじゃないかとニーナはカウダをひっそり睨んだ。そしてようやく会話に入り込む。
「それにしてもお嬢様に対して失礼ではありませんか? 返事の一つも寄越さないだなんて。たとえそちらが大きな商会といえども、断るなら断るで一言手紙を宛てるくらいのことはできただろうと思うのですが」
「それについてはこちらにも事情がありまして」
「どういったご事情を抱えていらっしゃるのでしょうか。それとも女からの手紙では依頼などと思わなかったのやもしれませんね」
「それはありません。わたくしどもはどんな方からの依頼でも真摯に受け止めます」
これには声に力が籠っていた。ならばとますます疑念がわく。
「ではなぜ?」
駄目押しに、マリエットがしっかりカウダの視線を捕らえて訊ねた。
カウダはいったん口を閉じ、数舜マリエットと見つめ合ったのち、
「……うちの、セレスタインが。ご存知かもしれませんが、まあ彼はちょっと変わった人間で」
偏屈だとかがめついとかいう噂が彼女等の脳裏をかすめる。
「それで、なんといいますか……」
「はっきりおっしゃっていただけますか?」
煮え切らない態度にニーナが言う。マリエットがちらりと彼女に視線をやった。
「……彼が、貴族には関わりたくないと申しまして」
「そうは言っても、わたくしたちのような人間はあなた方にとって上客でしょう?」
「包み隠さず申し上げればそうですね。しかし彼は手紙を受け取る直前に、アルベール・ロイゾ・レインジル様と会っておりまして」
「アルベールに?」
決まり悪そうな顔で、カウダは。
「貴族の揉め事には関わりたくないと。それでなかなか返事が送れずにおりました」
それでそうだったのですかと思うわけがない。ニーナは呆れていたし、マリエットは既にアルベールとセレスタインが合っていたことに驚きつつも、納得をしていた。やはり、という気持ちはニーナも共有している。
ひとまずいつまでも馬車が動けないのは困るので、彼が落としてしまったという加工前の魔法石を拾ってもらうことにして。
「カウダ、よろしいかしら」
自分に様付けはいらないと言ったので、マリエットは素直に呼び捨てにする。石を拾う手を止めて、なんでしょうと返事があって。
「このあとどこかに行く予定はあるのかしら?」
「いいえ、このまま帰り――」
あ、っと気づいたときには遅かった。
「では送って行きましょう」
「お気遣いは……」
「気遣いだと思っていらっしゃるの?」
こうなるとマリエットは強かった。なおも言い募ろうとするカウダは敢え無く頷く。怒るだろうなと彼は独り言つ。
ニーナはもっとお嬢様を支えられるよう頑に張ろうと心に固く誓った。
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