第一章 隠り処の泊瀬

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第一章 隠り処の泊瀬

空は青を通り越して群青、紺にさえ見えた。春の青葉がささめく彼方で、高く鳥が鳴いている。山は若い緑と、そして満開の桜の薄紅に染まっていた。 「おい、見ろよ、風羽矢(かざはや)」  少年の声はひそやかであったが、息遣いに興奮を隠せなかった。 「うん……きれいな鹿だね」  応えた声にも感嘆がにじんでいる。  茂みにひそむ二人の視線の先には、白い牝鹿がいた。いや、白ではなく銀かもしれない。つややかな毛並みは光の雫をうけ、きらきらと輝いている。その堂々たる立ち姿には荘厳な神聖さがあった。そして、若く健康な好奇心の塊である少年たちを釘付けにするに充分過ぎた。 「捕れると思うか」  今にも飛び出しそうな相棒に、風羽矢は少し顔をしかめた。 「この山の守神(もりがみ)さまかもしれないよ?」  言われた方の少年は、さらに目を輝かせてニッと笑う。すると、つられたように風羽矢も笑った。結局、この二人はよく似ているのだった。風羽矢も充分鉄砲玉の気質を持っており、相方を諌めたのは一応の建前のためだけだ。 「よっしゃ、お前、あっちに回れよ」 「わかった。絶対に捕まえてよ、稚武(わかたけ)」 「任せろい」  稚武はうずうずとしてじいっと白鹿を見つめていた。風羽矢も高鳴る胸を抱え、茂みの中をそろそろと進んで、白鹿を挟んで稚武のいる位置と真逆にまで回り込んだ。挟みうちだ。 「――ばぁっ」  大きく息を吸い込んで、風羽矢が茂みから飛び出す。虚を突かれた牝鹿は高く鳴き、驚いて駆け出した。もくろみどおり、稚武のひそむ茂みに向かって。 「うおりゃっ」  待ってましたと言わんばかりに、稚武が飛びつく。そして、牝鹿のしなやかな首に手をかけ、背に飛び乗った。 「へっへっへー…って、うおっ?」  鹿はくるりと踵を返し、しがみつく稚武にかまわず突進した。その方角に何があるか、稚武もよく知っている――谷川だ。 「ちょ、ちょっと待て」  焦って叫ぶころには、もう崖は目の前だった。そこで牝鹿は唐突に足を止め、ぶんっと頭を振って稚武を谷底へ振り落とした。 「う、うわあああぁ――~~」 「稚武ぇっ」  慌てて追いかけてきた風羽矢が崖下を覗き込むと、バシャン、とちょうどしぶきが上がったところだった。 「稚武、大丈夫ーっ?」  風羽矢は叫びながら滑るように崖を下りていく。その上方で、白鹿はすまし顔でフンと鼻を鳴らし、森の奥に去っていった。  幸い、川の流れは春の気候に似て穏やかで、普段から泳ぎを得意とする稚武は容易に岸にたどり着くことができた。ぜぇ、と息を切らして岩に手をかけると、すぐ上から風羽矢の声があった。 「稚武、大丈夫かい。怪我しなかった? 寒くない?」 「平気だよ、このくらい。冬じゃあるまいし」  稚武は真実なんともないという調子で岩に上がった。 「こうなったのがお前じゃなくて良かったよ。カナヅチじゃ溺れてたかもな」 「うん……」  風羽矢は苦い顔をした。生まれついて、風羽矢はどうも水が苦手だった。水浴び程度ならまだしも、いざ泳ごうとすると体が固まってしまうのだ。  稚武は崖の上を仰ぐと、拗ねたように眉を歪めた。 「ちぇ、逃げられちまったか」 「また会えるといいね。まぁ、今度手を出したら、本気で怒られるかもしれないけれど」  悪戯に失敗した子供のように、風羽矢は肩を竦めた。 「白い鹿なんて、やっぱり神様か何かだったんだよ。すごくきれいだったもの。僕たち、運がいいかもしれない」 「俺はひどい目にあったぞ」  稚武はむくれて濡れた髪をしぼった。 「でも、君は背中に乗ったじゃないか。うらやましい」  風羽矢が指摘すると、げんきんな稚武はぱっと顔を明るくした。 「そうだ。あれを乗りこなせたら、絶対に楽しいぜ」 「次は僕も乗ってみたい」 「もう一頭いるといいよな。探してみるか」  二人はもう十四だった。体つきも日ごとにたくましくなり、丈夫さと俊敏さにかけてはこの泊瀬(はつせ)の里でも抜きん出ている。  だが、その中身はというと、おせじにも大人と呼べたものではなかった。やることなすこと無茶ばかりで、里に二人の名を知らない者などいないほどだ。しかも、つるむ二人というのはどちらかが向こう見ずな性格なら、もう片方はそれを諌める側につきそうなものだが、稚武と風羽矢の二人は違った。二人とも無鉄砲な気性の持ち主なのだ。デコボコどころかボコボコで、里の大人たちの手を焼かすのは決まってこの二人なのだった。  今回もまた、彼らは全く懲りていなかった。 「さぁて、上に上がろうぜ。服を乾かさにゃ」 「うん。母様に叱られちゃうもんね」  風羽矢は楽しそうに笑った。  稚武は気づいたように難しい顔をし、軽くため息をついた。……悪戯を思いつくのは二人、実行するのも二人一緒なのに、母親に叱られるのはなぜかいつも稚武の役目で、風羽矢は器用に大人たちの雷をかわしているのだ。二人に違う役割があるとすれば、唯一それかもしれなかった。
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