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二人は里の裏手の小山に上った。
見晴らしのよい頂上まで来ると、稚武はずぶぬれの衣を脱ぎ、手近な枝にかけて干した。そうなると彼は何も身に着けておらず、年頃の娘が目にすれば思わず顔をそむけてしまうような格好である。だが本人は全く臆することもなく、心地よさそうに温かな春風に肌をさらしていた。
「あ~、風が気持ちいい」
草の上に直にあぐらをかいて言う稚武に、風羽矢も仰向けに寝転び、苦笑いをまじえて言った。
「そんなだから女の子にもてないんだよ、稚武は」
「女ァ?」
稚武は跳ね上げるように言い、ついでに眉を盛大に歪めた。
「女なんか、弱っちろくてなよなよしていて、俺は好きじゃないぜ」
少々本気で訝しんで、稚武は相棒の顔を覗き込んだ。
「何だよ、風羽矢。お前、まさか、嫁にしたい女でもできたんじゃないだろうな」
「いいや、そういうわけじゃないけど」
風羽矢はあっさりと否定した。そして、少し寂しげに笑った。
「でも、実際は僕より君の方が先に結婚すると思うな。多分ね」
「ああ? どうしてだよ」
呆れたように返し、稚武はごろんと寝転んだ。春の草は思ったより柔らかで、太陽のいい匂いがした。
「なんとなく。もし君が恋をしたら、相手の子はうんと答えるしかないだろうからさ」
まぶたを閉じて言った風羽矢に、稚武はちらりと厳しい視線を送った。だが、受け止めてくれる目がなかったので、ゆっくりと流れる白雲を見上げながら言った。
「俺は、俺のことを好きでもない奴を無理に嫁にしたりしないぞ」
「わかっているよ、そういう意味じゃなくて。君に好きだと言われて、心を動かされない子はいないだろうと言っているんだ。口さえ開かなければ、きっともてるのに」
「うるせーやい」
稚武は頬杖をつくように横になった。
「うざってぇ、女なんかとつるんで何が楽しいんだ。風羽矢、お前には分かるのか」
「さぁ」
風羽矢は素直に答えた。
「僕も、女の子と一緒にいたいと思ったことはまだないな。稚武や桐生兄たちといるほうが絶対面白いもの」
桐生というのは、稚武や風羽矢より四つ年上の、泊瀬の里長・稲彦の長男である。二人にとっては兄代わりで、今も昔もよく世話を焼いてもらっている。
泊瀬には育ち盛りの若衆が大勢おり、里の警護や力仕事をともにしていた。稚武と風羽矢も最近は彼らについて仕事をならい始め、とりわけ桐生たちと組むことが多かった。何しろ二人は里長の家の養い子であったから、家族といっても過言ではない。
「そうだろう。女はやかましいだけだ」
ふいに、稚武はにやっとした。
「そうだ、風羽矢。お前が女だったら良かったのになぁ。そしたら俺が嫁にしてやるのに」
ひひひと意地悪く笑う彼に、風羽矢は思わず半身を起こして顔を曇らせた。
「うぇ、気持ち悪いこと言わないでよ。女の僕なんて僕じゃないんだから」
「冗談に決まってるだろ」
稚武がさらりと返すと、風羽矢は毒気を抜かれたようにまた寝転んだ。そうして澄んだ瞳に青空を映しながら、静かに言った。
「……今はそんな事を言っていても、君もすぐに僕離れするよ。しなくちゃいけない。身分が違うんだから」
「馬鹿いうな」
稚武は思わず本気で叩き付けるように言った。
「俺とお前はおんなじだ。同じ拾われっ子だろ、身分もクソもあるかよ」
稚武と風羽矢は同じ乳を飲んで育ったが、決して血のつながった兄弟というわけではなかった。
二人とももとは孤児で、里長の家に拾ってもらったのだ。その頃、里長の妻、つまり桐生の実母である真鶴は、生まれて間もない赤子を亡くしたばかりで、母のない赤ん坊の稚武や風羽矢を哀れんで乳をくれたのだった。
それにも関わらず風羽矢が身分と口にするのは、稚武の生母、宮古が遺したという言葉を信じているからである。
宮古はもともと泊瀬の娘で、幼いうちに親を亡くして里長の家で育てられた。だが宮仕えのために都に出て、突然帰ってきたときにはすでに身ごもっていたという。村人がいくら問いただしても子の父親を明かさず、説得しても断固として堕ろすことを拒んだ。
そうして産後の肥立ちが悪く、稚武を生んで朦朧とした意識のまま息を引き取ったのだった。その最期に、息も絶え絶えにこう言った。
『この子は、皇の血をひく子。決して見捨てないで。けれども大王の元にはやらないで……! 泊瀬で育てて、泊瀬の子にしてあげて……』
今の里長夫婦にとって、宮古は妹も同然だった。たとえ何を言われなくても、稚武を引き取り育てたことには間違いない。だからこそ、最期になって明かされた「皇」という言葉が真実味を帯びた。それまで彼女が頑として父親の名を口しなかったことも頷けたのだ。
また、ちょうど稚武が生まれた頃、里長の家は大王の命令でもう一人の孤児を育てることになった。それが風羽矢だ。
赤ん坊の彼は、いまだこの大倭豊秋津国に服従しようとしない西の海の向こうの国・倶馬曾に連れ去られそうになったのを、秋津軍が奪還した子供だった。だが、戦乱の中で実の親は不明になり、めぐりめぐって泊瀬まで寄こされて来たという。稲彦には断る理由も権利もなく、こうして二人の孤児を育てることになったのだった。
結果、二人は双子のように成長した。血のつながりこそないものの、背格好が似たようなものなら、顔立ちも整っているという点が不思議と同じだった。さすがに本当に双子かと言われたことはなかったが、兄弟に間違われることは今もよくある。
本物の血のつながりがない分、稚武は自分たちが双子よりも同等だと思っている。なのに、どうも風羽矢は、稚武が皇の血をひいていると信じ込んでいるらしいのだ。周りの誰がそうと思っていてもかまわないが、風羽矢に言われるのには腹が立った。だから離れなきゃいけないと言われると、なおさら頭にきた。
怒る稚武に、風羽矢は困ったように笑った。
「だって僕、本当にそうならいいと思うんだもの。たとえば君が大王の子供だったりしたらさ。……きっとそうだろうって、僕は思っているんだよ」
彼があんまり静かに言うので、稚武は眉をひそめるだけだった。風羽矢は続けた。
「稚武は他の人とやっぱりどこか違う。――君が女の子にもてない理由を知ってるかい? 口が悪いからじゃないよ、本当は。身分違いだってみんな気づいているからさ。君を生んだお母さんの言葉を知っているからじゃなくて、君のつくり出す雰囲気っていうか……空気で感じているんだよ。知らないうちにね」
つい先日、風羽矢は里の娘から愛を告白されていた。それを彼は悩むこともせず断ったのだが、理由はまだ異性に興味がわかないからというだけではなかった。その娘が本当に胸をときめかせているのは、実は稚武であると知っていたからだ。それを彼女は、いつも稚武の隣にいる風羽矢に対するものだと勘違いしてこちらに来たらしい。
しかもこういうことは初めてではなかった。迷惑な話だが、仕方がない。風羽矢は知らんぷりをして「ごめんね」と言うしかないのだった。もし彼女の気持ちに訂正をいれて稚武に向かわせても、彼に容赦なく冷たい眼差しで砕かれるだけなのだ。
以前、美しく気立ての良い娘が稚武に気持ちをぶつけたことがあったのだが、彼は「邪魔」と一言で切って捨てて、彼女を泣かせてしまったのである。あの時はさすがの風羽矢も同情を禁じえなかった。
そういうこともあって、稚武は娘たちから少々嫌われていた。だが敬遠されているというのが実なのだ。本人は全く気にしていないようであるが。
「馬鹿馬鹿しい」
稚武は苦虫を噛み潰したような顔をして吐き捨てた。
「悪いけど俺は、生んだ母親の言ったことなんかこれっぽっちも信じてないぜ。関係ないね、血筋なんて。――風羽矢、お前だって知っているだろう、俺の夢」
不意に、稚武はにやりと相方に笑いかけた。風羽矢も「もちろん」と笑う。
「『倭国と、海の向こうの七つの国の帝王になる』」
「そのとーり!」
ぴんと人差し指を立てて彼は語った。
「倶馬曾なんて田舎に手こずってる今の大王家なんかじゃだめだ。海の向こうの大陸の国々はもっと進んでいるんだぜ。俺は大王家を潰して、この秋津国と倶馬曾と、ずっと東の国もひっくるめた倭国に新しい国を建てるんだ。そんで大陸にも手を伸ばして、見たこともないくらいでっかい国の大王になってやる」
稚武は頭の後ろに手を組み、木の幹に寄りかかった。その目には青空の雲が滑り、鍛冶屋の煙がいくつも上る泊瀬の里が映っている。春に色づく、彼のまほろばが。
稚武は目を細めた。
「……そしたら、俺の宮は泊瀬に作るんだ。ここが都になるんだぜ」
風羽矢は自然と微笑んでいた。
稚武の夢は途方もなくでかい。少年も十四になれば、もう身の程を知る頃合だ。だが稚武は全くその壮大な夢を諦めていなかった。そして風羽矢は、彼なら叶えてしまうかもしれないと思っているのだった。そう思わせる何かが、稚武には確かにある。稚武にしかないものなのだ。
「ねぇ、稚武。どうして君は大王家の血をひいていると自分で思わないの。国を盗るつもりなら、内側に入り込んでいった方がずっと手っ取り早いだろう。今の大王には子供も兄弟もいないんだよ。今のうちに名乗りを上げれば、もしかしたら日嗣皇子にだってなれるかもしれないのに」
「だから、俺は大王の血なんかひいてないって」
乾いてきた衣を枝から取り、稚武は呆れたように言った。
「母親がそう言ったのは、きっと、本当の父親がろくでもない奴だからさ。いいんだ、俺は別に血筋になんか興味ない。興味あるのは…そう。風羽矢、お前の言うとおりだ。大王家をつぶすなら、今が絶好の機会だ」
稚武は裾の短い袴をはいて結い紐を結んだ。
「何とかして、石上の宮に入り込んでみたいもんだぜ。大王といえど、隙はいくらでもあるはずだ。近づければ手の打ちようもあるのに…役人でも目指してみるかな」
現在の都である石上と、二人が暮らすこの泊瀬の里は、実はさして遠くはなかった。駿馬であれば一日で往復できる。だが泊瀬は山に囲まれた地であり、都から見れば田舎には違いない。『隠り処』と呼ばれるのもそれゆえである。
「簡単に言うね、稚武。そんなにうまくいくもんじゃないよ、大王を討つなんて無謀だ。僕たちは田舎者なんだから、どうせ物知らずなんだよ」
稚武が着た上着から、いつの間についていたのであろう、桜の花びらがひらひらと落ちた。泊瀬は桜が美しいことで有名で、稚武も風羽矢も自慢に思っていることの一つだった。
風羽矢は稚武の黒髪についていた花びらを払ってやった。
「でも、そんなに言うなら、いい情報がある。噂だけどね」
彼は含みのある目で稚武を見た。
「なんでも大王は、また倶馬曾に兵を送るつもりらしいよ。今度は今までの比じゃない、ものすごい大軍をさ。本気で倶馬曾をつぶしてしまうつもりなんだ」
「戦争になるのか」
風羽矢は頷いた。
「僕も小耳に挟んだだけだから、はっきりとしたことは分からないけれど……多分本当だよ。今年や来年のことじゃないにしろさ。理由もある。……神器って知っているかい」
他に誰がいるわけでもないのに、風羽矢は声をひそめた。だが表情はこの上なく楽しそうだ。
「皇位のしるしである、三種の宝物なんだけど」
「それくらい知ってるよ。確か、玉と鏡とー…」
「剣だよ」
二人は山を下って、住まいにしている里長の屋形に向かいながら話した。
風羽矢は悪戯の作戦を練るときのように生き生きとした顔をしていた。
「正しくは、八尺瓊勾玉と八咫鏡、それに天叢雲剣。三つが揃ってこそ、大王は大王と認められるんだ。……けど今、石上の宮には一つしかない」
「嘘だろ」
稚武は思わず大きな声を出して足を止めた。「しっ」と言いながら、風羽矢は歯を見せて笑った。
「もちろん、宮は秘密にしているさ。こんなことが知れたら大王に何の権威もなくなってしまうもの。だけどさ、そんな有りえないような噂が泊瀬にまで届くんだよ。――真実味、あるだろ?」
「それで」
稚武が真顔で急かすと、風羽矢はどことなく得意げに言った。
「実はね……失われた二つの神器は、倶馬曾にあるというんだよ」
「倶馬曾ォ?」
稚武が叫ぶと、近くの木々から鳥たちが飛び立った。そうだよ、と風羽矢は身を乗り出すように言った。
「大王はそれを取り返そうと躍起になっているのさ。神器が奪われたのは、実はもうずっと昔のことだというから、そろそろ隠し通せないと踏んだんだよ、きっと」
「……大きな戦争になれば、徴収する兵の数も並じゃない」
二人の声は弾んでいた。
「そこで大きな手柄を立てれば、大王のお近づきだって夢じゃないよ」
「将軍になれば私兵が持てる!」
「そしたら大王を追放して、新しい国の帝王になるのだって可能だ!」
少年たちははしゃぎながら一気に丘を駆け下りていった。もう西の山々が金色に輝きだす頃だった。
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