第三章 熟田津の湯

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 久慈(くじ)を含め、十数人の負傷者が出た。重傷の者が大半だ。しかし奇跡的に死者はなかった。  熟田津(にきたつ)の医師の診断で、久慈の左腕はもう使い物にならないだろうということになり、朦朧とした意識の久慈は承知してすぐさま腕を切断した。そしてしばらくは絶対安静を言い渡された。  将軍なくしては戦を進められない。苦渋の決断であったが、秋津軍はしばらく熟田津に滞在して久慈の回復を待つことになった。  気前よく面倒を見るといってくれた熟田津の松山や伊予の諸(こおり)の長たちに、稚武は心から頭を下げた。よろしく頼みます、と。  朝もやの中、少年は一人で港にやってきた。腰には厚い布で包まれた神器の『(つるぎ)』。稚武であった。  波はひっそりとさざなみを揺らし、他に人影はなかった。一人で静かに小船を出す準備を始める彼の背中に、そっと声はかけられた。 「――行くのか」  稚武は驚いたが、慌てることなく振り向いた。声音だけでその正体は知れていた。兄・桐生である。  決まり悪そうに黙り込む稚武に、桐生はしかめ面で歩み寄った。 「無責任なんじゃないのか、一国の皇子として、一軍を率いる者として。軍をほっぽり出して、どこに行くっていうんだ」 「わからない……」  稚武は小さく言った。しかし瞳に宿る意志は強かった。 「でも、俺は行く、風羽矢を探しに。……師匠が動けるようになるころには、戻ってくるから」 「……あの崖から落ちたんだろう。生きているとは……」 「生きてる」  稚武は自分を励ますように言った。 「風羽矢は生きてる。死んでなんかいない。絶対に、生きている……。俺は神器の主で、あいつもそうだ。だから、わかる。神器の玉の主はまだ生きている。きっと、いつかは会えるはずだ。お互いの神器の力に引かれて。だから、俺は行くよ」 「会ってどうする。風羽矢は玉の主で、玉の主って言うのはすなわち、お前が殺さなきゃいけない奴なんだろう」  稚武は右肩に手を当てて地面を睨んだ。肩には包帯が巻いてあり、そこにあるのは風羽矢に射られたときの傷だ。深い傷ではなかったが、左手で強く握り締めるとひどく痛んだ。だがそれよりも痛むのは胸の奥だった。 「風羽矢は禍なんかじゃない。ちょっとでも疑ったりした俺が馬鹿だったんだ。――風羽矢は、俺を殺さなかった。あの時、弓を構えていて、あいつの腕なら俺の心臓を貫くぐらい絶対できたはずなのに、そうしなかった。あいつはまだ禍になんてなってないんだ。……今ならきっと、止められる」  それから、涙をこらえるように眉を下げた。 「……あいつは、泣いてた」  泣かせたのは自分であると稚武は承知していた。あの時、風羽矢は迷子のような、置いてきぼりをくらった幼子のような顔をしていた。稚武を見て。そうして、稚武の目の前で崖から身を投げた。 (あいつは、あんなに水を――海を、怖がっていたのに)  稚武は顔を上げた。 「このままなんて絶対に納得できない。俺は行く。風羽矢を迎えに行く」 「……稚武」 「何て言われようと、絶対に行く!」  キッと強い目で兄を見つめる稚武に、桐生は降参したように息をついた。 「わかったよ、止めない。止めたところで、お前が言うことを聞くような奴じゃないってことは分かっているからな」 「桐生兄」 「その代わり、俺も行くぞ」 「え……」  稚武は明るくしかけていた顔を暗くした。 「……よした方がいいと思う。師匠たちの怪我を見たろう。あれは多分、本当に風羽矢がやったんだ。神器の力が暴発したんだと思う……。ああいう危険があるのは確かだ。神器のことに桐生兄を巻き込めないよ」  桐生は微笑み、だが真面目な目で言った。 「俺は風羽矢の兄だぞ。放っておけるか」 「でも」 「それに、これは感情だけの問題じゃないんだ」  ふと桐生は視線を下げた。 「もしあいつが『禍』になっちまったら、泊瀬(はつせ)の里はただじゃすまないんだよ。その禍の子を育てちまったんだからな」  稚武ははっとして青ざめた。桐生は頷く。 「だから俺は、泊瀬の里長の長男としても、ついていく義務はあると思うぞ」  黙りこんでしまった稚武に、桐生はにやっと明るく笑って見せた。 「お前のことも心配だしな」  稚武は沈黙してうつむく。それから涙をこらえるような顔をして、ありがとうと小さく呟いた。  桐生には分かっていた。稚武と風羽矢、この二人がどれだけお互いを支えにして生きてきたか。  泊瀬の里の衆は、稚武が風羽矢をなかば強引に自分の遊びに巻き込んで連れ回しているのだと決め込んでいたが、それは少し違った。稚武は風羽矢がいないと遊び方が分からないのだ。風羽矢もそうだ、稚武がいないと何をどう楽しんでいいのか分からない。  二人は一緒にいないと全てが味をなくしてしまうのだった。そういうこの乳兄弟の危うさに、桐生は気づいていた。  だからこそ、今、稚武を一人にするのはあまりに危険だ。見失った片割れを求めてどんな無茶をしでかすか分からない。それに神器の力が上乗せされてしまったら恐怖だ。  桐生は静かに弟の頭に手を置いた。頼れる皇子と言われようと、秋津全軍を率いる男であろうと、稚武はまだ十七の少年だった。目の前で兄弟に崖から飛び降りられて平気でいられるわけがない。  桐生の知る稚武は、やんちゃで大胆、強がりで、同時にもろく弱い一面も持っていた。風羽矢をのぞけば、自分が一番真実に近い稚武を知っていると思う。  風羽矢を失った稚武はあまりにも頼りない――そのように二人を育ててしまったことを、桐生は反省していた。せめて、自分がついて行ってやらねば。  桐生は微笑んでぽんぽんと稚武を叩いた。 「さぁ、船出の準備をしよう。みんなが来ないうちに」 「――待って!」  唐突に、息を切らしてやってきた娘が叫んだ。腕に眠る宇受(うず)を抱く、紅科(くしな)であった。彼女は厳しい面持ちで二人に近づいてくる。  稚武はばつの悪い顔をした。 「紅科……」 「いいえ、引きとめようって言うんじゃないわ」  紅科は複雑に顔を歪め、強いて微笑もうとした。 「びっくりした。愛比売(えひめ)さまに起こされたの。二人が旅立つって。黙って行くなんて水臭いじゃない」 「……悪い」  ううん、と紅科は首を振った。 「あたしはついて行けないもの。愛比売さまは伊予を離れられないし、あたしは湯守りだから……。だから、あんたたちに行ってきてほしい。風羽矢を助けてほしいの」  はっとして稚武は彼女を覗き込んだ。 「まさか、愛比売さまは風羽矢の居場所を知っているのか」  紅科は深刻な目をして頷き、告げた。 「愛比売さまでも、伊予の外のことは詳しくは分からないの。でも目覚めた神器の玉のだいたいの在りかは分かるとおっしゃったわ。――倶馬曾(クマソ)よ」  男たちは無言で息を呑んだ。 「風羽矢は生きているわ。倶馬曾の都の、華やかな宮殿の奥で眠っている。そう、愛比売さまはおっしゃったのよ」  稚武は息をつき、どこか青い顔のまま微笑んだ。 「そうか、わかった。愛比売さまのお告げなら確実だもんな。風羽矢が生きているって、それがちゃんと分かっただけでも嬉しいや」 「稚武……」  稚武は気丈に笑った。 「倶馬曾なら海流に乗って行ってこられる。助かったよ。とにかく西にこげばたどり着くからな。正直、熟田津を出てどこに行こうかと思ってたところだったんだ。さ、行き先が決まったらさっさと出発、出発~」  明るく言って稚武は小船に乗り込んだ。桐生も苦い顔のまま続く。稚武が無理に元気にふるまっているのが痛々しかった。  紅科は肩に担いでいた麻袋を少年たちに手渡した。 「少ないけれど、これを持って行って。当分はやり過ごせると思うから」  稚武が中をのぞくと、入っていたのは木の実や干し肉でつくられた保存食だった。愛比売から彼らの旅立ちを聞いて、持ってこれるだけ持ってきてくれたのだろう。 「ありがとう。この上に迷惑をかけて悪いけど、俺たちがいない間、軍を頼む」 「ええ、分かってる。あんたたちがいなくなったことはあたしがうまく言っておくわ。愛比売さまのお告げと言っておけば、きっと大丈夫だから……。その代わり、ちゃんと帰って来て」 「もちろん。風羽矢を連れて帰ってくるよ」  稚武はふっと真面目な目をして視線を落とした。 「心配なのは、倶馬曾が伊予まで攻めてこないかというところだけれど……」  その時、紅科は雷にでも打たれたかのようにはっと目を見開いた。そして腕の中の幼い妹を見やる。稚武と桐生もつられたように覗き込むと、宇受は薄く目を開いていた。神が憑いたときの目だ。  紅科は緊張した声音で告げた。 「『心配ない、倶馬曾は攻めて来ない』……」  それは国つ神・愛比売の託宣だった。 「『かの国の中央で、大きな騒乱が起こっている。秋津にはかまっていられない。倶馬曾は滅びる』……」 「何だって」  紅科はあえぐように続けた。 「『呪われし玉の主はそこにいる』」  しんとした。宇受は静かに目を閉じた。紅科も黙る。 「……行かなきゃ」  稚武は船の上で息を吐くように呟き、紅科を見た。 「争いがあるというのなら、早く風羽矢を助け出さなきゃ……一刻も早く」  紅科は頷いた。 「どうか気をつけて。どうか……風羽矢をお願い」 「ああ、必ず連れ戻す。待っていろよ」  紅科に見送られて、稚武と桐生は出航した。二人を乗せた小船はゆっくりと波の上を揺れ、小島と小島の間に向かい、やがて白い靄の中に吸い込まれていった。彼らは一度も振り返ることなく旅立った。 「どうか……どうか無事で」  祈る紅科の耳奥で、深くも無感動な声がした。 『行ったか、剣の主は』  ぎくりとして宇受を見やると、宝玉のような瞳がうすく紅科を見上げていた。 「愛比売さま……」 『これで三種の神器が倶馬曾の地に揃うことになる。再び帝王の宝物が一つになるのだ。だがそのとき倭は、救いか滅びか、どちらかを受け取らねばならぬ』  不穏な言葉に紅科は眉をひそめた。 「どういうことですか……。それに、先ほどのお言葉は一体なんなのです。倶馬曾が滅びるなんて。愛比売さまは未来見(さきみ)などなさらないとおっしゃっていたのに」 『未来見ではない。倶馬曾はすでに滅び始めているのだ』  国つ神を宿す宇受の目は冴え冴えとしている。それは神の無慈悲さを表しているようだった。 『倶馬曾はあの「玉」の主の侵入を許した。ゆえに滅ぶ。「玉」の呪いによって』 「そんな」  紅科は青ざめる。 「なぜです。呪われた玉は、秋津にこそ……(すめらぎ)にこそ禍を呼ぶためのものではなかったのですか。倶馬曾ではなく」 『神器は倭の神器だ。倭とはすなわち、秋津も倶馬曾も含めたこの大八洲(おおやしお)の総称。上代(かみよ)、もともと倶馬曾と秋津は一つだったのだ。――そして今、この倭に禍の王が立つ。倶馬曾は必ず滅びる。そしてその滅びは、いずれ倭の全土を覆う』  だが、と愛比売は言った。 『禍の王のもとへ、あの剣の皇子が旅立った。そして鏡の主と呼び合い、いずれ三つの神器は出会うだろう。その時に何が起こるかなど、どこの神にも読めぬ。目覚めた神器の力は我らにもつかめんのだ。未来は見失われている』 「けれど、それは救いか滅びかのどちらかだとおっしゃるのですね」  宇受は無言で瞳を閉じた。紅科は慌てて揺さぶる。 「待ってください、愛比売さま! では、鏡は……鏡の主は何者なのです!」  だが宇受は目覚めず、すうすうと寝息を立て始める。紅科はきつく眉をよせてその寝顔を見つめ、それから少年たちが旅立った西の海を見やった。  倶馬曾へ続く波は、静かに寂しく白い霧を揺らしていた。                        <倶馬曾編につづく>
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