第四章 燃ゆる日向

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 物々しく武装していた陽巫女(ヒミコ)の宮の門番は、やってきた咲耶(サヤ)たちに目を丸くした。構えていた矛を下ろし、困惑の表情を見せる。 「なぜ――なぜ来てしまったのです。呵々(カカ)にはお会いしなかったのですか」 「会ったわ。けれど来たの。中に入れてちょうだい、陽巫女さまに会わせて」  日はもうすっかり暮れてしまっていた。こうこうと焚かれた篝火の並ぶ階段を駆け上り、咲耶と呼々は陽巫女の祭殿の帳をくぐった。  驚いたことに、中には呼々の姉たち二人が矛を手にしている以外に兵がいなかった。そして、祭壇の前に陽巫女が一人、腰を下ろして祈っていた。多くの女たちで溢れているはずの宮の内が、この三人きりだったのである。 「陽巫女さま、ご無事で」 「咲耶……」  振り返った陽巫女は悲痛な表情でつぶやいた。 「来てしまったのだね、お前という子は」 「だって、来ずにはいられませんでした。――他のみんなはどうしたのです」 「……あの子達は逃がしたよ」  目蓋を伏せて静かに言った陽巫女に、咲耶は顔色を失って駆け寄った。 「逃げた――どういうことです。みんなみんな、陽巫女さまを置いて行ったというのですか」 「いいや、それは違う。無理をいってわたしが逃がしたのだ。皆をこのようなところで死なせるわけにはいかなかったから」  咲耶は息を呑んで陽巫女を見つめ、瞳を震わせた。 「お前もだよ、咲耶。早くお逃げ。倶馬曾(クマソ)が滅びるためには、わたし一人の命で事足りるのだからね」 「陽巫女、さま……」  陽巫女は本気で滅亡を覚悟しているのだ。咲耶にとってこれは思ってもみなかった事態だった。必ず、何かしらの突破口が見つかると思っていたのに。  しかし、陽巫女は頼りなく眉を下げるばかりだった。 「咲耶、どうして戻ってきてしまったのだ。どうして……やはり、わたしなどではさだめを覆すことはできなかったのだね。なんてちっぽけなのだろう……」  彼女は入墨に縁取られた目を潤ませ、真っすぐに咲耶を見つめて言った。 「よくお聞き。陽里は落ち、そしてこの宮ももういくらもしないうちに落ちるだろう。今夜、倶馬曾は滅びる。わたしとともに」 「そんなことを言わないで下さい」  咲耶は悲鳴のように叫んだ。だが、陽巫女は強い眼差しで首を振る。 「許しておくれ、咲耶。――これは分かっていたことなのだ。倶馬曾はわたしの代で滅びると、前代の陽巫女に告げられていたのだよ。けれどわたしはそのさだめに抗い、お前を後継に立てようとした。……やはり、叶いはしなかった」  灯火が揺れ、陽巫女を赤く照らしていた。 「わたしにはもはや何の力もない。初代陽巫女から受け継がれてきた予知の力は失われた……禍の王の目覚めによって、未来は見失われたのだ」 「禍の……王?」  陽巫女は頷き、赤い目元を厳しくした。 「倶馬曾に男王(おとこおう)が立つ……何百年という時を隔てて、このときに。――けれどそれは、滅びの王だ。その王によって、誇り高き倶馬曾は滅ぶ。そしていずれは、秋津も……。倭は混沌と化し、荒れ果てて闇の世界となるだろう。かの男王は滅亡を呼ぶ、呪われたさだめの主なのだ」  咲耶は震える喉で小さく言った。 「倶馬曾は……陽巫女はこのまま失われるというのですか。では、わたしは何なのです。今までわたしがやってきたことは、いったい」 「己を見失うな、咲耶」  陽巫女は毅然として言う。 「わたしがなぜお前を姫巫女と定めたか……前代陽巫女が、お前を高千穂(タカチホ)の峰から連れていらした時、おっしゃったのだ。咲耶はさだめを変える力を持っていると。だから、お前を立てることで倶馬曾の滅びの運命を変えようと試みたのだよ。――けれど間に合わなかった。わたしの力では、この大きな歪みの流れに抗うことなどできなかった……」  一度目を伏せ、陽巫女は澄んだ瞳で咲耶を見つめた。 「咲耶、今夜を最後に、倶馬曾は永久に失われるだろう。しかしそれは憂えるに足りぬこと。この地に生きるものは何も変わらないのだから。お前が守るべきは、倶馬曾よりももっと大いなるもの、倭に息づくすべての尊い命なのだよ。そのためにはここで死んではいけない。わたしにかまわず、お前は早く宮から逃げなさい」  咲耶は陽巫女にすがりついて首を振る。 「いいえ……いいえ! 咲耶は陽巫女さまを置き去りになんてできません」  涙を流す咲耶に、陽巫女は優しく微笑んだ。 「ありがとう。最後にまたお前に会えてよかった。けれど、わたしのことを想うならどうか行っておくれ。そして倭のために戦いなさい。――お前のさだめは、禍の王を討つことにある」 「討つ……わたしが」  咲耶は涙に濡れた目を丸くして息をつめる。けれどすぐに呑みこんで息巻いた。 「どうすれば――どうすれば討てるのです、その王は。どこにいるのです」  陽巫女は静かに語りだした。 「倭には、古より伝わる三種の神器というものがある。お前も知っているね。陽の女神の御姿を映した八咫鏡(やたのかがみ)、御魂のこもっているという八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして、 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)……」  じっと咲耶を見つめたまま、陽巫女は語った。 「禍の王はそのうちの一つ、『玉』をすでに手にしている。 ――お前もまた、神器の主となるべき者。倶馬曾に封じられたという『鏡』を見つけ出し、さらに『剣』を求め、それをもって禍を討ちなさい。神器はさだめを狂わせる。けれど、新しきさだめを生み出すことができるのもまた、神器なのだからね」  そのとき、部屋を照らしていた灯火がふいに大きく揺らめいた。  気配を感じたときにはもう遅かった。ハッとして祭殿の帳を見やった瞬間に、そこを守っていた呼々の姉の一人・季々(キキ)の胸を貫いて刃がきらめいた。 「あっ――」  ただ驚きの声を上げただけで、季々は目を見開いたまま倒れ伏した。 「姉上!」  呼々と、彼女のすぐ上の姉である玖々(クク)が悲鳴を上げる。 「他愛ないな」  血に染まった垂れ幕が大きく翻り、つまらなそうにして侵入者は姿を現した。神域を侵して入ってきたのは、男だった。  兜をかぶっていない彼は、季々を刺し抜いた剣を無造作に引き抜く。頬と目元に炎のような形の黒い刺青を施しているのが、灯火に照らされてよく見えた。隊長格なのだろう。剛剣に似合わず細身で、まだ若かった。 「逃げなさい」  陽巫女は抱きしめていた咲耶を離し、呼々と玖々に向けて押しやる。そして背筋を正して立ち上がると、季々を手にかけた男と真っすぐに対峙した。  生々しい血の滴る剣を持ち直し、男は冷たく笑った。 「悲鳴も上げないとは、たいした度胸だ。お前が陽巫女だな。――死んでもらおう。この国は男王を戴いて生まれ変わる。真の平和と幸福とに満たされる新しき倭国に、お前などは用無しだ」  陽巫女はキッと眼差しを鋭くした。 「せめて名を名乗れ、禍の王に魂を売った痴れ者め」 「――阿依良(アイラ)穂尊(ホタカ)」  言う彼の口元から笑みが消える。次の瞬間に陽巫女の目に映ったのは、自分の鮮血だった。穂尊の剣は一瞬にして彼女の胸を切り裂いていた。 「陽巫女さま!」  崩れ落ちた彼女に駆け寄ろうとする咲耶を、呼々と玖々が必死に取り押さえる。そして裏口に向かって力ずくで手を引いた。 「咲耶さま、どうかこらえて―!」 「離して呼々! 陽巫女さま、陽巫女さまァッ」  伏した陽巫女を冷たく見下ろしていた穂尊の目が、ゆっくりと咲耶をとらえる。 「ここまで逃れていたか、姫巫女。お前のことはなるべく傷つけずに連れ帰れとのご命令だ。大人しく来てもらおう」 「させない」  一歩踏み出した彼の足に、這うようにして取りすがったのは、まだかろうじて息をたもつ陽巫女だった。血だらけのその手がしがみつく穂尊の足のすそが、見る間に赤く汚れていく。 「呼々、玖々……ッ、咲耶を連れて逃げなさい、早く!」 「放せ、この死にぞこないが」  穂尊は不愉快そうに顔を歪め、剣で陽巫女の体を何度も刺した。何度も、何度も。それでも彼女は全身でしがみついて離れなかった。 「陽巫女さま」  咲耶はいつの間にか呼々に担がれていた。血まみれの陽巫女の姿が一気に遠くなっていく。  陽巫女は必死に叫んだ。 「逃げよ、咲耶。鏡と剣を探して。鏡は倶馬曾にあるはず――まずは鏡を探し出しなさい」 「追え、姫巫女を逃がすな」  穂尊の号令によって、続々と宮に駆けつけてきた男兵たちが飛びかってくる。彼らの暗い鎧の影から、黒い刺青がのぞいていた。阿依良の兵の証。  そのさんざめきに、陽巫女の叫びはあっという間にかき消された。それでも彼女は叫び続けた。 「禍の王を討てば倭は呪縛から解き放たれる。咲耶、神器をそろえなさい。玉を受け取り、鏡を差し出すのだ。それが新しい倭とお前との契り―」 「聞こえません!」  咲耶は泣きながら声を張り上げる。 「怨んではいけない、立ち向かいなさい。さだめは―」  咲耶を担いで走る呼々が垂れ幕をくぐる。その瞬間、咲耶は見た。穂尊の剣が冷たく振り下ろされ、足元にすがりついていた陽巫女の首を一瞬で断ったのを。 「いやああぁあッ!」  吹き出した血を全身に浴びた穂尊は、ほのかに笑って、転がった女の胴体を踏みつけた。そして我を失って悲鳴を上げている咲耶に向かい、にこりと微笑みかける。  ばさり、と黒い垂れ幕が下りて、絡み合った二人の視線を遮った。    宮の裏口を出ると、そこは真っ暗闇の山の急斜面だった。泣き喚く咲耶を担いだ呼々と玖々は、暗い森の中をすべるように駆け下りていった。  先頭を走る玖々が風を切って言った。 「真っすぐに行けば五瀬(イツセ)川がある。たしかこの先に、小船がとめてあったはず……咲耶さま、それに乗って山を下りましょう」  咲耶は何とか嗚咽を押しこらえようとしているところだったので、聞いているのかどうかも曖昧だった。代わりに呼々が頷く。 「他の巫女さまたちはどうしたでしょう。無事に逃げおおせたなら良いのだけれど」 「きっと残党狩りがあるな……呼々、用心しよう」 「はい、姉上」  せせらぎが聞こえてきたのは間もなくしてだった。濃い森の匂いに混じって、澄んだ水の香りがただよう。  咲耶もだんだんと落ち着きを取り戻してきて、やっと呼々の肩から顔を上げることができた。しかし、三人がホッとしたのはつかの間のことだった。  呼々と玖々はぎくりとして足を止めた。  船着場に、二、三の松明の灯りが見える。火を手に持って小船を検分しているのは、阿依良の男兵士たちだった。 「もうここまで追手が……」  木の陰に隠れ、玖々が舌打ちするように言う。呼々も咲耶を抱きかかえてかがみ、ひそやかに言った。 「どうします、姉上」 「――突破しよう。他に手はない。この男兵だらけの山を、徒歩で無事におりられるとは思えない」 「突破……、できるでしょうか」  武器らしい武器は玖々の剣くらいしかなかった。あとは呼々の胸の小さな懐剣だ。二人はそれぞれ唯一の武器を手に、息をつめて男たちの様子をうかがった。  じっくりと見定めた沈黙の後、玖々が言った。 「一斉に飛び出そう。向こうはまだ我らに気づいていない。隙を突けば何とかなるはず。……呼々、お前は咲耶さまを連れて、船を出すことだけを考えろ。あいつらの相手はわたしがする」  呼々はサッと青くなった。 「姉上、しかし、それでは」 「いいな。――行くぞ!」  玖々は妹の反論を許さずに飛び出していった。遅れるわけにはいかず、呼々も咲耶の手を引いて同時に躍り出る。そして船を覗き込んでいた兵士を切りつけると、疾風のごとく奪った船を川に下ろした。 「玖々!」  呼々と一緒に船に乗り込んだ咲耶は、暗闇の中で男兵と剣を打ち合っている彼女を呼んだ。兵士たちの持っていた松明は転がり、森の底を流れる暗闇をわずかにかき消している。見えるのは、夢中で男たちに立ち向かっている玖々の足もとだけだった。  船を杭につなげている縄に、呼々が懐剣の刃をあてる。 「姉上、早く。船を出します」 「行きなさい、わたしにかまうな」  カンカン、と刃が打ち合う音を響かせ、玖々は大声で言った。 「ここでお別れです、咲耶さま。どうかご無事で。――呼々、早くしろ!」 「姉上……ッ」  五瀬川は川幅が狭く、急流だった。ここではぐれては、もう二度と会うことは叶うまい。それはわかりきったことだった。  呼々はためらったが、剣を振り上げた男が飛びかかってくるのを見、とっさにもやい綱を断ち切った。  岸と船体とをつなぐ縄が切れた瞬間、小船は勢いよく飛び出した。あやういところで男兵の剣が空を切る。そして走る船の二人からは、彼らも玖々の姿もすぐに見えなくなった。 「玖々―――ッ」  咲耶は絶叫した。しかし小さな船は急流の上で激しく揺れ、へりにつかまる呼々が彼女を押さえ込んだ。 「咲耶さま……っ」  呼々も押しこらえるように泣いていた。彼女は何より咲耶の無事を優先させたのだ。姉よりも、誰よりも。咲耶にもそれが分かっていた。   「呼々……」  呼々は咲耶に覆いかぶさるように小船にしがみついていたので、咲耶には彼女の肩の隙間から空が見えた。  川の両岸から迫りくる森の影と、小さく星の輝く夜空。寂しい空。  そのとき、黒い天の縁がにわかに薄明るくなった。陽の出る方角ではない。咲耶が呼々の胸の下で身じろぎ、そちらを見やると、山の一角が明るく燃え立っていた。深く黒い山の中に、ぽつんと見える火――陽巫女の宮だった。 (倶馬曾が滅びる……)  女王・陽巫女の国が、滅ぶ。あの炎は鬼だ。咲耶を育ててくれたもの――陽里のみんな、玖々や季々たち、そして陽巫女。その全てを奪っていく。咲耶の未来にあふれているはずだった幸福を、一片残らず燃やし尽くしてしまう。踊り狂う、赤い鬼。 (陽巫女さま……)  咲耶の憧れと夢のすべてだった陽巫女の宮が、しだいに暗い木陰に隠れて遠ざかっていく。  咲耶は泣いた。熱い涙を流し、その赤い炎が見えなくなるまで、静かに見つめていた。暗い山に激しく火の粉を巻き上げ、燃え崩れるふるさとの姿を。  
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