第一章 隠り処の泊瀬

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    翌朝、稚武(わかたけ)風羽矢(かざはや)は度を越えた空腹のせいでやけに早く目を覚ました。いたく気分の悪い目覚めだ。我慢できずに二人して調理場に押しかけ、下女に頼み込んでたらふく食うと、そこでやっといつもの朝のすがすがしさを取り戻した。  そうして二人は朝一番に屋形を飛び出していった。昨日サボった分もあって、誰より早く建築現場で仕事を始めるためだ。二人は遊び好きだが、決して怠け者ではなく、自分に与えられた仕事は積極的にこなすことを好んだ。熱心なその姿を、真面目な働き者と褒める大人もいるくらいである。  正午近くまで杭打ちを続けた稚武は、一休みして木陰に入った。少し遅れて、風羽矢も汗をぬぐいながらやってきた。 「よう、お疲れ」 「ああ、暑いね。稚武、川に水を飲みに行こうよ」 「おっ、いいな、そうしよう。俺も喉が渇いた」  二人は近場の大人衆にその旨を伝えて、茂る森に入った。日陰が多いせいか、森の中のほうがぐんと涼しかった。白波のような桜は、そろそろ散り始めている。  薄紅の花びらが降る中を、二人は連れ立って歩いた。 「募兵はいつくらいになるんだろうな。やっぱり泊瀬(はつせ)からも何人か出て行くよな」 「どうだろう。何年も後かもしれないし……大王(おおきみ)には皇子がいらっしゃらないからね、自分が出ていって長く都を留守にするわけにはいかないもの。かと言って、本気で倶馬曾(クマソ)をつぶすつもりなら、それなりに頼りになる人物を送らないと埒が明かない。……今の秋津国(あきつくに)は人材不足なんだよね。大王に御子がお生まれにならないのもそうだけど」  風羽矢は小首を傾げた。 「何年もかかるような長期戦になるかもしれない。――倶馬曾はずっと南の国で、泊瀬よりすごく暖かいんだって。めったに雪が降らないって言うよ」 「へぇ、面白いな」 「だから、冬の間も戦を続けられるんだ」  小川にたどり着き、二人は頭を突っ込むようにしてがぶがぶと水を飲んだ。そして遠慮なく雫を飛ばして顔を上げると、風羽矢は濡れた前髪を絞りながら言った。 「知っているかい、稚武。倶馬曾は何百年も前から、巫女である女王によって支配されているんだ」 「女王? 女が大王なのか、そんなことってあるのか」  稚武は初耳だった。秋津国でも巫女は大事にされているし、皇后や皇女を敬うことはしているが、それでも支配者が女というのは衝撃だった。 「もちろん、実際の(まつりごと)をこなしているのは他の男たちなんだろうけど。でも、その女王は国中の尊敬を集めてるって話だよ。中でも初代の女王はすごい霊感の持ち主で、『陽巫女(ヒミコ)』と崇められていたんだ。それから、その人が亡くなった後に男の王が就いたんだけど、よく治められなかったんだって。仕方なく壱与(イヨ)という少女巫女を女王にしたら、国が一つになったらしい。それから代々、倶馬曾には陽巫女とか姫巫女とか呼ばれる女王がいるんだよ」  稚武は思わずぽかんとしてしまった。話の内容にも驚いたが、それを暗唱しているようにすらすらと言ってのけた風羽矢に目を見張った。 「お前……なんで知っているんだよ、そんなこと」 「え? 集会で大人たちが話しているのを聞いたり、祭りのときに来る旅の楽人たちに話してもらったんだよ。稚武だって一緒にいたじゃないか。君は聞いていなかったのかもしれないけど」 「……そうか」  二人が一緒に集会に顔を出したり、珍しい楽人たちが里にやってきたときに群がってみたりするのは、たしかによくあることだった。  心行くまで喉を潤した二人は、真っすぐに仕事場に向かった。道なりには、本当に雪のように桜が降っていた。花曇りの空は薄い水色で、淡い桜の紅色とよく溶け合っている。  ちら、と稚武は隣を歩く風羽矢を横目で見た。  身びいきを抜きにして、風羽矢には春の泊瀬の美しい景色がよく似合っていると、稚武は思う。  風羽矢と稚武が容姿のいい若者であることは、皆一様に認めるところだった。だが、だからと言って同じ顔をしているわけではない。分かりやすくいえば、たとえば二人が女装したとすると、人々は稚武を見て苦い顔をするだろう。そうでなければ爆笑するかのどちらかだ。だが、風羽矢に対しては、きっと見とれてしまうに違いなかった。二人の面立ちにはそういう違いがあった。  稚武はまじまじと相棒の顔を見ていた。――風羽矢は物知りだ。いつも一緒にいて同じものを見聞きしているはずなのに、なぜこうも知識に差が出るのか、稚武はずっと不思議に思っていた。 (風羽矢はいつも周りをよく見ている……そして見逃さずにいる)  彼のような人物のことを頭がいいというのだろう。稚武よりも視界が広いのかもしれない。だが、それは、風羽矢が常に周りのことを気にしているということなのだと、思わずにはいられなかった。養われ子であるがゆえの、気を遣わずにはいられない性分の表れなのかもしれない、と。そして、誰にも気を許していないということなのかも… (考えすぎか)  稚武は視線を前に戻した。しかし、稚武は知っているのだった。自分が寝た後、風羽矢が一人でじっと何かを考えていること。そして、そういう時には、決まって彼の手が御祝玉(みほぎだま)に添えられていることを。  ――夜の孤独な時間に、風羽矢は一体何を考えているのだろう。やはり、本当の両親のことに思いをはせたりしているのだろうか。 「――か」  風羽矢、と声を話しかけようとしたときだった。唐突に、風羽矢の方から話を振ってきた。 「今日はいないね、白い鹿」 「お? ……おう、そうだなぁ」  不意をつかれて、稚武はぎこちなく返した。風羽矢は気づかなかったようだった。 「こっちの方にはいないのかな。……ねぇ、また今度、探しに行ってみようよ。次こそ捕まえて、僕も乗る」 「いいぜ。次に見つけたら、あいつと友達になろう」  実際、稚武や風羽矢には「友達」である猿や狸たちがたくさんいた。二人は不思議と動物たちから好かれる体質の持ち主らしかった。  風羽矢は楽しそうに言った。 「僕たちがあの鹿に出会ったのは、もしかしたら何かの瑞兆かもね。いいことがあるかな」 「どうだかなぁ」  稚武は心底疑わしいというように肩を竦めた。 「あいつのせいで夕飯にありつけなかったんだぜ。きっと良くない(しるし)だったんだ。それとも、驚かしたから怒ったんかな」 「うん、そうかも。桐生兄も瑞獣だと言っていたもの、悪さをしなければ幸運をもたらしてくれたんだよ、きっと。惜しいことをしたね」  そうして森を抜けるとき、風羽矢は淡く笑って呟いた。 「それとも……あの鹿は、もっと違う何かを運んできたんだろうか。僕と、君に」 「何かって、何だよ」  稚武は頭の後ろに腕を組んで訊ねた。 「わからない。……だけど、何かが動き出そうとしているのかもしれないよ。あの鹿はそれを告げに来たように、僕は今になって思うんだ……」  桜の降りしきる中、風羽矢の笑みはどこか儚かった。それは散りゆく桜に本当に映えて、稚武は思わず息を止めていた。 「稚武、君が大王(おおきみ)になる星のもとに生まれたのなら、いよいよその宿命(さだめ)が動き出したのかもしれないね」  そして、僕が君から離れるべき時が来たのかもしれない――口にはしなかったが、風羽矢はそう思っていた。 「おおげさだな」  稚武は驚きを隠せずに言った。 「さだめだ何だって、お前はいつから巫女のようなことを言うようになったんだ。まるで占い好きの女みたいだぞ。変なものでも食ったんじゃないか」 「違うよ。なんとなく、そう思っただけだよ。本気にしないで」  風羽矢は苦笑して答えた。稚武はまだ胸がすっきりしていなかったが、仕事の合間の休みに長く無駄話をしているわけにもいかないので、今はこれきりにしておこうと口をつぐんだ。  そうして森を出て受け持ちの現場に戻り、二人が木製の槌を手にしたときだった。 「稚武! 稚武はいるか」  突然大声で呼ばれ、稚武は怯んだ。慌てたようなその声は、桐生(きりゅう)のものだった。 「稚武!」  風羽矢と並ぶ稚武の姿を見つけた桐生は、まっすぐこちらに駆け寄ってくる。その表情は尋常でないように見えた。  二人はぎくりとした。 「おい、やばいぞ、風羽矢。もしかして、ゆうべ勝手に魚を食ったのがバレたんじゃないか」 「ありえる。どうしよう、素直に謝る?」 「それしかないよな」  覚悟を決め、稚武と風羽矢は逃げずに桐生を待った。そしてやってきた桐生は、顔を真っ赤にして稚武の肩を両手で掴んだ――明るく目を輝かせて。 「稚武、すごいぞ、すごいことだ! お前って奴は…――ああ、早く屋形に来い、早く」  興奮してまくし立てるように言いながら、桐生は稚武の腕を掴んで引いた。怒鳴られるとばかり思っていた稚武は、びっくりして反射的に抵抗する。 「桐生兄、桐生兄――どうしたんだよ、痛いって。お屋形の方で何かあったのか? とにかく落ち着いてくれよ」 「これが落ち着いていられるか、だってお前―」  隣でぽかんとしていた風羽矢は、桐生の後ろから悠然とやってきた人物に気づいて、丸くしていた目をさらに大きく見開いた。つやつやとした毛並みの黒馬に乗った男が、真面目な顔でこちらに向かってきていたのだ。身に着けている衣は濃い橙色の、風羽矢が見たこともないくらいに豪奢なものだった。 (都の―…)  周りで仕事をしていた村人たちは騒然として、身分の高いらしいその男の馬を遠巻きにした。男は、それが当然であるかのような態度で、無表情を崩さなかった。周りなどかけらも気にかけていないのかもしれない。  彼は、稚武にうるさくしゃべりかけている桐生に向かって言った。 「……その男子(おのこ)ですか、桐生殿」  男は馬から下りた。後ろには里長の稲彦(いねひこ)真鶴(まづ)が付き従うように控えていた。わずかに顔を青くした、稚武の父と母が。 「久慈(くじ)さま」   桐生は興奮冷めやらぬ様子で男を振り返った。そして稚武から一歩離れて、彼を久慈に紹介した。 「ええ、そうです。名は稚武です」  当の稚武は、眉を曇らせて久慈を凝視していた。突然現われた、都の男を。ただ事ではないと全身で察しているようだった。そして、それは風羽矢も同じだった。 (来たんだ)  来た。都から、来た。  ――風羽矢が予感していることを、稚武も感じずにはいられなかった。いつもはつらつとして明るい顔が、見る間に色を失くしていく。  稚武と対照的に、桐生はいきいきとして言った。 「おい、稚武。それに風羽矢。お前たち、昨日、裏の山に出かけたと言っていたろう。そこで何を見たか、このおかたに申し上げてみろ」  稚武は身を竦めて口を引き結んだ。かばうように、風羽矢が答えた。 「白い牝鹿を見つけました。(しろがね)のように輝く鹿です」  桐生は笑って頷き、今度は真っすぐ稚武に訊ねた。 「さぁ、稚武。答えるんだ。――お前はその白い鹿の背に乗ったか」  稚武は後ずさった。急に独りになってしまった気がした。これ以上後ろに退けない絶壁の上に、独りきりで立たされた気分だ。助けはない。彼を容赦なく追い詰めるのは、自分を捕らえて放さない久慈の鋭いまなざしだった。  体格もよく、不思議な威圧感のある久慈は、わずかに目を細めた。 「銀の鹿の背に乗られましたか、稚武殿」 「俺は……俺は……」  眉根をきつく寄せるだけで何も答えられない稚武の耳に、囁くような声が届いた。 「稚武」  風羽矢の声だった。心配と励ましが交じり合ったその一言に、ふっと稚武の胸が軽くなった。独りでないことを思い出したのだ。 「……乗りました。ほんの一瞬ですけど」 「そうですか」  稚武と風羽矢が驚いたことに、久慈は笑った。今までの硬かった表情が嘘のように。それは、まるで孫を甘やかす爺のような人のいい笑みであった。 「いやはや、突然このように押しかけてしまって申し訳ありません。わたしはせっかちな性分のようで……」 「あんたは誰ですか。俺に、何か用があるんですか」  照れたように笑う久慈にも、稚武は警戒を解かなかった。風羽矢はすぐに稚武の隣に寄り添って、そして相棒と同じ目で都人を睨んだ。  久慈は困ったように笑って頬をかいた。 「そんなに怖い顔をしないで下さい。気分を害してしまわれたなら謝ります」 「都人に謝られる覚えなんかない」 「こら」  だんだんと冷静さを取り戻し始めていた桐生が、それでも鼻息を荒くして稚武にきつく言った。 「失礼な口をきくんじゃない。お前って奴は、年長者に敬語を使うこともできないのか」 「久慈さま……詳しいお話は、我が家に戻って」  後ろで大人しく見守っていた稲彦が、諦めたように言った。隣の真鶴は目に涙を潤ませていた。 「そうですね。事は急を要するが、ここで公にできることではない。今は、まだ」  久慈は下りたまま黒馬の手綱を引いた。後に続くようにと、桐生が少年二人を促す。 「風羽矢……」  稚武は動かず、泣き出しそうな子供のような顔を伏せて、小さく呼んだ。その手は強く風羽矢の腕を握り、そして震えていた。 「……行こう、稚武」  風羽矢が精一杯に励ますと、彼はこくんと頷いた。
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