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里長の屋形の座敷に腰を下ろしたのは、家主の稲彦、真鶴、桐生に、少年二人、そして久慈だけだった。仕えの者たちを皆下がらせると、部屋は水を打ったように静かだった。
真鶴の顔は青く、稲彦は疲れきっていて、冷静になった桐生は逆に緊張しているようだった。稚武は思いつめた顔をして床を睨み、隣の風羽矢はそんな彼を心配するばかりだ。
おもむろに、久慈が口を開いた、穏やかだが芯の強い声音だった。
「稚武殿。お初にお目にかかります、わたしの名は久慈と申します。――不躾ですが、今からお話しすることは皆、しかるべき時が来るまでご内密にして頂けますこと、お約束してくださいますよう…」
稚武は顔を上げて眉をひそめた。彼も少しずつ調子を取り戻し始めていた。
「あんたのことを誰にも言うなというんなら、言いません。……言いませんから、そのむず痒い口調はよしてもらえませんか。慣れていないんです」
「お気になさらず、これはもう生まれつきですので」
久慈はにこりと笑んだ。
「では、さっそく本題に入らせて頂きます。長殿や桐生殿にはもうお話したのですが。……今朝方、都の大巫女様が夢占をなされました。それは、一人の男子が神々しい白銀の鹿に乗っているというものです。場所は『隠り処』――ここ、泊瀬です」
「それが俺だというんですか」
「そうです。あなたは今しがた、ご自分でそうおっしゃったでしょう」
稚武はぶすっとして返した。
「それで、その夢が一体なんだって言うんです。俺に何をしろって言うんだ」
「都にお越しいただきます」
さらりと久慈は言った。まっすぐに稚武を視線で捕らえて、告げた。
「大巫女様は、その男子は大王家の血をひいているとおっしゃいました。稚武殿、あなたは父無し子だそうですね。占のとおりだとすれば、大王家の御子かもしれないということです」
表情を失くして息を止めた稚武に、久慈は微笑んだ。
「わたしがこの口調を改められないのには、そういうわけもありますね」
「……都に行って、どうしろというんだ」
稚武は平静を装ったつもりだったが、声が震えてしまうのは隠せなかった。
「大巫女の夢だけで、大王は俺のことを認めてくれるのか。夢なんて、そんなものだけで…なんの証拠もないのに」
「証拠ならありますよ」
意外な言葉に、稚武はハッとして久慈を見た。
「いえ、正しくは、あなた自身に証明していただくのです。そのために都まで来ていただく。わたしはあなたをお連れするという命を受けてここにいますが、これはあくまでも密命なのです。実のところは、宮で確かめるまでわかりませんからね」
「確かめるって……どうやって。俺は何も持っていないし、証明の仕方なんて知らないぞ」
「ええ、そうでしょう。ご心配なさらずとも、宮にお越しいただければわかります。今ここでその方法を口にすることはできませんので。…あなたが真に御子であるならば、持っているはずなのです。偽りがたい、皇の血を」
久慈がそこまで言うと、座敷は再び沈黙に包まれた。次に口を開いたのは、稲彦だった。
「……行きなさい、稚武」
「親父様」
稚武は弾かれたように父の顔を見た。稲彦は澄み切った目をしていた。
「いつかこういう日が来るんじゃないかと、昔から覚悟していたよ。お前がわたしたちの元を巣立って、己のさだめをつかみに行く日がね。今、その時が訪れたというだけのことだ。後ろを振り返らずに巣立つといい。……泊瀬がお前の故郷であることは、いつまでも変わりはしないのだから」
稲彦の隣に腰を下ろしている真鶴は、微笑みながら涙をぬぐった。
「そうよ、いつでも帰って来ていいのよ。稚武、母様は、いつもあなたのことを想っていますからね。他の子と同じくらい、母様の胸にはあなたがいますからね…」
「わたしと一緒に来て頂けますね、稚武殿」
久慈の念押しに、稚武は難しい顔をして黙りこくった。隣の風羽矢が小さく囁きかけた。
「……行っておいでよ、稚武。君が何者でも、稚武が稚武であることには変わりないんだから。君の存在が後から意味づけられたからって、泊瀬で育った時間が消えてしまうことはないんだよ」
「風羽矢」
稚武は風羽矢の顔を見、そして久慈を真っ向から見据えた。
「俺が都に行って、もしも……もしも大王家の子だと認められたとして、その後どうなるんですか。俺はすぐに泊瀬に帰ってこられますか」
「……それは、ちと無理でしょうね」
久慈はなだめるように言った。
「あなたが皇子であるにしろないにしろ、身の振り方は大王がお決めになることです。わたしには何とも申し上げられません」
「行きたくないと言ったら、どうしますか」
「稚武」
風羽矢が思わず大きく呼ぶ。久慈は驚き入ったように言った。
「稚武殿、あなたはご自分の本来の場所へ帰りたいとは思われないのですか。日嗣の皇子がない今の豊秋津国にとって、あなたという存在がどれだけ大きいか……あなたはこの国の希望になる」
「それがわからないほど馬鹿ではないつもりです」
稚武ははっきりと言った。
「行きます。……行くしかないんだろう。これが俺のさだめというやつなのなら、気に喰わないが、立ち向かうしかないみたいだ」
「ありがたい」
久慈はほっとして表情を緩めた。だが稚武は真剣な顔つきで続けた。
「そのかわり、風羽矢も一緒に連れて行きます」
「稚武」
突然の言葉に、一番驚いたのは風羽矢本人だった。
「何を言っているんだ。馬鹿だぞ、僕なんかがついて行ってどうするというんだ」
「約束しただろう。お前は、這いずってでも俺について来ると言ったじゃないか。それとも嘘だったのかよ」
「それは……、だけど」
「見届けてくれるんだろう、俺のことを。だったら風羽矢も隣にいなきゃだめだ」
強く言い切られて、風羽矢は言葉に詰まった。そして弱腰で、小さく言った。
「だけど、邪魔になる」
「ならない。――もしも俺が大王家の子でないと証明された時、お前は、俺を独りにするつもりなのか」
風羽矢はハッとした。今の言葉が何よりの本音であると、彼にはわかった。稚武が真実を突きつけられることをどれだけ恐れているか、風羽矢は知っているはずだったのだ。
稲彦が穏やかに久慈に言った。
「……どうでしょうか、久慈さま。無理を承知でお願いします。風羽矢を都に連れて行ってやってはくれませんでしょうか」
「はぁ……」
久慈はそう言われて、初めて風羽矢という少年をまじまじと見た。
「風羽矢殿と申されるそちらの男子は、ご子息ですか」
久慈は稲彦に訊ねたのだろうが、答えたのは風羽矢だった。
「孤児です。稚武と一緒に育ててもらったんです」
「ほう」
興味を惹かれたらしく、久慈はさらに見つめた。
「そういえば先ほど、あなたも銀の鹿を見たと言っていましたね。一緒にいたのですか」
「そうです……でも背に乗ったのは稚武だけです、すぐに逃げられてしまいましたから」
敬語を使われたことに違和感を覚えつつ、勘違いされたら困るので風羽矢ははっきりと答えた。
見守っていた桐生が、打ち明けるように言った。
「風羽矢と稚武はいつも一緒にいて、それが当たり前のように大きくなったんです。自分の一部分をお互いに預けあっているような、不思議なつながりのある子達です。そう、まるで、二人で一人のような」
さらに稲彦が言った。
「風羽矢は賢く、利発な子です。実はわたくしども夫婦は、いつかこの子を都に出して、学問でも身に着けさせてやりたいと思っておりました。今、稚武と一緒に旅立つというなら、これはまたとない機会のように思えるのです」
「親父様……」
口を挟めずにいた風羽矢は、それだけを呟いた。
「都に連れて行くだけなら、それはもちろんかまいませんが」
久慈は首を傾げるようにして風羽矢を覗き込んだ。
「ただ、稚武殿が皇子と認められた後までも二人を一緒にいさせられるかはわかりません。……そうですね、都の学者ならわたしも良いお人を知っていますから、拠り所がなくなった時にはそのかたの下につけるようにお願いしてみましょう」
「ありがとうございます、久慈さま……! 何とお礼を申し上げたらよいやら」
里長夫婦は深く頭を下げた。それから稲彦は顔を上げて、風羽矢に言った。慈しみのある父の目をして。
「風羽矢、稚武を独りにするのは色々な意味で不安なのだ、わしたちも。お前がそばにいるとなれば少しは安心できる……ついて行ってやれ。なに、ちょっと観光をしてくるつもりで行ってくればいい。都は見てくるだけで勉強になるぞ」
「親父様……。僕、行って、いいの?」
稲彦は頷いた。
「稚武と同じように、お前もまた、泊瀬におさまりきる男ではなかったのだろうよ。自分を磨いて、そしていつか無事に戻って来い。この父と母のもとへ」
「はい!」
答えると、風羽矢は誰にでもなく、決意したように言った。
「僕も、自分に何ができるか、どこまでやれるか試してみたい。許されるなら、稚武の近くで。泊瀬の外の世界を見てきて、そしてここに帰ってきたい」
「よっしゃ、一緒に行こうぜ、風羽矢」
稚武はすっかりいつもの調子を取り戻し、風羽矢と手を打った。
「では、すぐにお支度を。いえいえ、大きな荷物などはいりません。日が沈む頃には宮に着くはずです。ただ、置いていけないものをお忘れにならないよう」
稲彦は送別の宴さえ開けないことを残念だと言ったが、久慈がなだめた。
「一刻も早く、宮にて確かめなければならないのです。万が一違えば、宴などは無駄になりましょう。そして、真実、稚武殿が皇子であったそのときは、国を挙げての大宴会を催しますよ」
部屋に戻って大慌てで麻袋に荷物を詰めながら、風羽矢は決意を新たにしていた。
(僕がそばにいることで稚武を支えられるなら……それこそ僕が望んでいることなのかもしれない。稚武の荷物にならないように、僕が強くなればいいんだ。それで稚武の力になれるなら、こんな良いことはない)
兄弟離れできないのかと笑われようと、風羽矢が稚武についていきたいのは事実であるのだから。もう迷うだけ無駄だ。こうなったらどこまでも彼についていこう――そう、風羽矢は決心したのだった。
たいして持っていくべきものなどを待たない二人は、すぐに用意を済ませた。荷を肩にかけて屋形の表に出ると、そこには久慈が三人分の馬を用意して待っていた。
「お早いですね。里長殿たちには充分にお別れをお告げになりましたか。どうぞ心残りのないようになさって下さい」
「もう済みました」
稚武は憮然と答えて、馬に荷を乗せた。実際は「行ってきます」と告げただけだったが、それ以上は言葉が見つからなかった。「ありがとう」は的外れな気がして気分が悪かったし、「さようなら」は必要ないと思っていた。それは風羽矢も同じだったが、彼の方は「頑張って来ます」とだけ付け足した。
戸口に見送りに出た真鶴は涙して二人を抱きしめてくれた。稚武たちももちろん名残惜しい気持ちはつきないが、母の涙を見ていると居た堪れなくなってしまってどうしようもないので、早く泊瀬を出たいとさえ思い始めていた。
少年たちが馬に乗っても、真鶴は涙声で繰り返した。
「元気で、元気でね……体に気をつけて。もしも大王の御子でなかったなら、いい? 真っすぐ帰ってくるんですよ。待っていますからね、母は。稚武も風羽矢も、わたしの子ですからね……」
屋形の外には人だかりが出来ていた。久慈のかしこまった格好が、田舎の泊瀬では珍しかったからだろう。その都人が出てきて、人々は遠慮なくじろじろと視線を向けたが、後についた稚武と風羽矢の二人を目にすると騒然となった。
「や、里長んとこの悪ガキども、どこに行くんだ」
「稚坊に風坊、二人でお出かけかい」
「まさか、そこの都人さまについていくつもりじゃなかろうね」
「また何か悪さでもしたんか」
気心の知れた里人たちは、からかい混じりで馬に乗った二人をはやし立てた。
まさか本当に都に行くとも言えないで、風羽矢は曖昧に微笑んだまま黙ってしまった。逆に稚武は明るく言った。
「なぁに、ちょっと親父様のおつかいさ。心配すんな」
高い櫓の横を抜け、三人はゆっくりと馬を歩かせて泊瀬の里を出た。そこで久慈はわずかに笑って口を開いた。
「稚武殿、良ろしかったのですか、里の方々にあのようなごまかしを……きちんとお別れを言った方が良かったのではないですか」
「かまいません。どうせすぐに帰ってくるんだ、明日にでも」
「稚武殿は、ご自分が皇子ではないと思っていらっしゃる?」
久慈は眉を下げて苦笑した。当然だ、と稚武は言った。
「だから久慈さん、俺に敬語を使う必要はないよ」
「いえいえ、どうやらわたしは、誰に対してもこのような口調になってしまうようなのです。どうぞお気にせず」
久慈は苦笑して、目を細めたまま言った。
「そう言いながら、あなたは本当は、ご自分が皇子であると確信しているのでしょう。ええ、無意識なのかもしれませんが。そして、その宿命の元に生まれたからこそ、抗おうとしておられる。わたしにはそのように見えます」
「あんた、妄想癖があるって言われないか」
呆れたように稚武は言った。彼の横に馬を並べている風羽矢は、この都人は鋭い、と胸のうちで感心していた。
「おやおや、手厳しいお言葉ですね」
久慈は言って微笑む。
「何にせよ、早く宮へ確かめに参りましょう。わたしもまた、あなたが皇子であると確信しているのですから。……あなたの面立ちは、お若き頃の大王によく似ておられますよ」
稚武は驚き、それから久慈を睨んだ。久慈は笑って応え、導くように先頭を走った。
「急ぎますゆえ、遅れませんよう」
その広い背中に向けて眉を歪め、稚武は黙ってついていこうとしたが、ふいに風羽矢に呼ばれて馬の足を緩めた。
「稚武、あれっ……」
「どうした」
小さくなっていく里を振り返っていた風羽矢の視線をたどり、稚武は目を凝らした。そのとき、桜色の山の端から白い光が空に駆け昇った。――遠すぎてその正体が見えるはずもなかったが、二人にはわかった。
「あの白い鹿…」
呟いた稚武に、風羽矢が頷いた。
「うん。あの、銀色の牝鹿だった。天に帰ったのかな、やっぱり神の遣いだったんだろうか」
わからない、と口の中で答え、稚武は泊瀬の里を遥かに望んだ。生まれ、育った故郷を。美しく、優しい里。豊かな自然と、温かな人々の溢れる隠り処。
(まほろば…)
真秀ろ場。その言葉はこの地にこそふさわしいと、稚武は思った。
「帰ってこられるよね、稚武……一緒に」
ああ、と稚武は頷いた。二人は同じ気持ちを深く共有していた。
「帰ってくるさ。俺たちの家はここなんだからな」
答えながら、稚武は泊瀬の里から目を離すことができなかった。
(風羽矢が言っていたとおり、あの白い鹿は何かを運んできたんだろうか。俺たちはその「何か」を受け取ったんだろうか…)
あの鹿に出会ったことは、果たして吉兆だったのか凶兆だったのか。分からないまま、二人は黙って故郷を目に焼きつけていた。
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