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第四章 燃ゆる日向
目覚めてすぐに、咲耶は戸を開いて空を見上げた。やっと日が東の山々から顔を出ようとしているところだが、もう薄青く明るい。
やった、と顔を輝かせる。
今日は快晴に間違いない。きっとすばらしい一日になる。なぜなら今日は、十七の咲耶にとって、今までの人生で一番華々しい門出の日であるからだ。女王・陽巫女の宮へ正式に上がる日なのである。
黄金の輝きを増す朝日に向かって、咲耶は手を合わせた。
「今日という日をありがとうございます! 天におわします陽の女神さま」
そのはつらつとした声でもって、すぐ隣で眠っていた呼々は目を覚まさせられた。咲耶よりいくつか年上の乳兄弟である娘だ。
呼々は目を白黒させながら言った。
「ああ、どうしたというのです、咲耶さま。いきなり大声で」
「今日は晴れよ、呼々。なんて素敵。――さあっ、早く着替えなきゃ」
すっかり浮き足立って咲耶は寝間着を脱ぎ捨てる。呼々は慌ててそれを端から拾い、急いで着替えの準備を整え始めた。
遠くで鶏が元気に鳴いている。
季節はもう秋の軋みを聞くころだ。倶馬曾国は一年を通して温暖とはいえ、やはりこの時期の朝は肌寒い。木々はだんだんと暖かな色を着込み始めている。
陽里は日向郡のはずれの山に囲まれた奥地であるから、やがて紅葉が落ちれば寂しくなるのは早い。
陽巫女の宮は、陽里からさらに山を登ったところにある。里の外郭を一歩出るとそこはもう神域で、ごく一部の女性しか立ち入りを許されていない。男などは入った瞬間に天罰を受けるという。
咲耶は今夜その道を上り、明日からは陽巫女の宮に籠もって修行することになっているのだ。次代の陽巫女候補に選ばれたのである。今日は昼から夕暮れまでは祭りが開かれ、夜には宮入りの儀式が行われることになっている。どちらも主役は咲耶だ。
「陽巫女さまはお元気かしら。まさか、今日のことをお忘れではいらっしゃらないわよね」
「もちろんですとも。今日は陽巫女さまにとって……いえ、この倶馬曾にとって本当に特別な日、新しい姫巫女の誕生の日なのですから」
陽里は巫女のための里だった。特に身寄りのない幼い女児が集められ、神に仕える巫覡になるために日々修行しながら暮らす里なのだ。周囲は何重もの柵と堀で囲まれており、内郭と中郭は普段男性の立ち入りが禁じられている。外郭の中は警護も女の役目だった。
よって、物心つくより以前からここで育った咲耶は、正月や祭りなどの特別な行事のときにしか男というものを目にすることがなかった。それもほとんど遠目のことだったので、男とは目元に刺青があり大柄で、声音が奇妙だというふうにしか認識していない。巫女はあまり男に近寄るものではないと教え込まれてきたこともあり、特に意識するべきものではなかった。
咲耶は朝焼けを思わせる橙の衣を着せてもらい、頬を上気させた。
「どう、似合う?」
「ええ、お美しいです。女神さまのようですよ」
「陽巫女さまにもそう言ってもらえるかしら」
花の文様の織り込められた帯は絹でできている。咲耶は上機嫌でその刺繍を手にとって眺め、ふと右の手の平を見つめた。そこにある、薄赤い痣を。
(また大きくなっている……)
咲耶の右手の平には、生まれつき花のような形の痣があった。幼い頃は気にしていなかったが、それがここ数日のうちに、少しずつ大きく、濃くなってきているような気がするのだ。最初は小石程度であったはずが、今朝見てみると鶏の卵ほどにまでなっている。
けれどもこの痣は、目立つからといって憎いものではなかった。咲耶の名をつけてくれたのは前代の陽巫女で、曰く、この痣が花のようだったから、花の女神である木花之咲耶姫にあやかったのだ、というのだった。これはとても光栄なことで、咲耶の誇りだった。
そんな事もあって、咲耶の陽巫女への憧れには並々ならぬものがあった。名付け親の前代はとうに亡くなってしまったが、当代の陽巫女はまだ三十歳ほど。優しく穏やかで、血こそつながっていないものの咲耶の姉であり親でもあった。
大好きな陽巫女のそばに早く上がりたい一心で、咲耶は巫女の修行に日々励んできたのである。
陽里の娘は、半月ごとに入れ替わって陽巫女の宮で修行する。その時に褒めてもらうため、咲耶は今まで色々と無茶をやってきた。意識を失うまで滝に打たれたり、一月かけて覚える祝詞を一晩で暗唱してみせたりと。だが、徹夜のために翌日の舞の稽古で居眠りして、結局は先輩巫女から叱られてしまうはめになってしまうのがいつものことなのだった。
「だけど、ちゃんと努力って報われるのね。わたし、陽巫女さまの御付きの巫女になれたらそれで充分だと思っていたのに。まさか姫巫女になれるなんて、夢みたい」
姫巫女というのは、陽巫女の後継者の呼び名である。巫女は処女を貫くのがさだめであるから、後継ぎに血のつながりは必要なかった。
咲耶の衣の帯をきっちりと結び、呼々は微笑んで言った。
「陽巫女さまの目は節穴ではありませんから。この陽里にあまたいる娘たちの中で、誰が最も倶馬曾の女王にふさわしいか、ちゃんと見極めておられたのですよ」
咲耶は頬を緩めっぱなしで言った。
「早く儀式を済ませたいわ。お祭りも楽しみだけれど……とにかく早く宮に上がりたいの。陽巫女さまにお会いしたいのよ。半月ぶりですもの」
「……ですが、少し寂しい気がしますね。明日からは咲耶さまとお呼びできなくなるのですから」
咲耶の長い髪を梳きながら、呼々は口元を微笑ませつつ眉を下げる。
陽巫女や姫巫女は、その名を得たときにそれまでの名前を捨てるのが慣わしであった。それが一国の女王の責任であるという。
「あら、何も寂しいことなんてないわよ、わたしは。ずっと陽巫女さまのおそばに居られるんですもの。それに、呼々だって一緒に宮に上がるんじゃない。あなたが一緒にいて、何を寂しがることがあるの」
呼々もまた、新しい姫巫女に仕える者として今夜宮に入ることになっていた。呼々には姉が四人おり、すでに陽巫女の側近く仕えている。咲耶も何度か会ったことがあるが、彼女たちは凄腕の剣術の使い手だった。陽巫女の身辺護衛を受け持っているのである。呼々も、ゆくゆくはそうなるのであろう。
呼々ははにかむように笑んだ。彼女は普段から男の格好をしており、男言葉を使い、腕とこめかみに青い刺青をいれている。青の刺青は陽里での一人前の武人の証なのだ。背はすらりと高く、きりりと引き締まった面立ちをしていて、そこいらの娘にはない凛とした美しさをもつ女性であった。
「そうですね……。わたくしは幸せ者です。こうして、あなたさまが姫巫女として宮に上がる日におそばにいられたのですから。いつか、どうぞ立派な女王になってくださいませ」
「任せておきなさい。わたしは陽巫女さまが好きだから修行を頑張ってきたけれど、ずっと頑張ってこられたのは呼々が居てくれたおかげよ。だからこれからも頑張れるわ」
自信満々に言う咲耶に、呼々は穏やかに目を細めた。そして静かに彼女を抱きしめる。
「呼々?」
「……咲耶さま」
ささやくように呼々は彼女の名を呼んだ。そして咲耶の額に頬を寄せ、細い肩に回した手で彼女の髪を撫でる。最近、ふとした時に呼々はこうして咲耶に甘えてくることがあった。
呼々は年上ということもあってか、身長も肩幅も、手のひらさえ咲耶より大きい。女だらけの陽里で、涼しい容姿の彼女は他の娘たちから人気がある。
そのような熱い視線をそそがれる女性は他にも何人もいるし、ここでは別段おかしなことではなかった。あだ名が立つのは腕のある警護兵に多く、男装の彼女たちは確かに青年の気配というものを持っているのだ。男と触れ合うのが叶わないこの里でも、少女たちは甘い恋を楽しんでいた。
そして、時には巫女の「恋人」を務める武官たちも、己が側近く仕えている巫女に主従を越えた感情を抱く傾向があった。幼い頃から徹底して「武官は命かけて己の巫女を守るもの」と教え込まれてきたことも影響しているだろう。
だから、咲耶に対する呼々の感情も、自然といえば自然なものだった。
熱のこもった声で呼々は言った。
「わたくしがあなたをお守りいたします……一生、何に変えても」
咲耶は手が握られたのを感じた。
「呼々?」
「必ず、わたくしが。咲耶さま――お慕いしております」
「やだ、ありがとう」
真剣に想いを告げたつもりの呼々に対し、咲耶は持ち前の明るい声でのん気に喜んだ。
「わたしも呼々が大好きよ。陽里の人はみんな好き。陽巫女さまも好き。それに、倶馬曾のみんながすごく好き。だから、今日からの宮での修行も精一杯頑張るわ。嫌いな舞もちゃんと踊れるようになる。いい女王になれるように」
目を輝かせて語る咲耶に、呼々はもう何も言えない。呼々ががっくりとしてため息をつくと、無邪気な咲耶は「ほらほらっ」と後ろを向いた。
「だから呼々、早く髪を結ってちょうだい。きっちり、姫巫女らしくね」
一月も前から準備されていた祭りは、それは盛大なものだった。大陸から渡ってきたという楽人たちが、軽やかな笛の音や太鼓の音を奏でている。踊り子は赤や青の鮮やかな色の仮面をかぶり、おどけた様子で里の衆の前で踊りまわっていた。
彼らが飛び跳ねたり回ったりするたびに、普段は明るい刺激に乏しい陽里の娘たちからどっと笑いが溢れる。今日だけは、警護の任を務める武官たちも祭りの見物を許されていた。
そのすばらしい歌舞を、咲耶はひらひらと落ち葉の散る銀杏の下のさじきで見ていた。特等席である。だがどうも居心地が悪いのは、新しい姫巫女に挨拶するため、倶馬曾の各郡の首長が挨拶にやってきていたからであった。
男と会話することに慣れていない咲耶は少々怖気づいていたが、助かったことに彼女が口をきく必要はなかった。答辞のほとんどを呼々が代わりに述べてくれたからだ。その堂々とした姿に、他の少女たちに混じって、咲耶も惚れ惚れとしてしまうのだった。
(これだから呼々は頼りになるわ。みんながかっこいいって言うのも本当ね)
女は男に心惹かれるものだという話を聞くが、どうも納得できない。別のさじきに並んでのん気に祭りを見物している首長たちと、鎧に身を包み凛々しく咲耶の隣に控えている呼々。どちらに胸がときめくかといえば、当然後者であるに決まっていた。
咲耶は酒でちょっぴりほろ酔い気分になりながら、呼々に耳打ちした。
「ねぇ、呼々」
「はい」
「気づいている? みんな、踊り子を見ているフリをして、ちらちらあなたを見ているわ」
「はっ……?」
呼々は目を丸くし、それから渋い顔をした。
「咲耶さま以外には興味ありません」
「ふぅん、つれないのね」
「いえ、つれない、というか……。そういう問題ではなく」
ごにょごにょ、と呼々は言葉をにごらせる。咲耶はからからと上機嫌に笑った。
「でも、ほら。わたしもあなたも、陽里は今日で最後でしょう? 今夜を終えたら、もう陽巫女さまの宮からは出られないのよ。この次にわたしが陽巫女になるときぐらいじゃない。だから、みんなあなたの姿を目に焼きつけておきたいんだわ。今のうちに、ありったけかっこつけておいてあげなさいよ」
「……ご冗談を、咲耶さま」
「冗談じゃないのに。呼々は融通が利かないわね」
「利かなくて結構です」
どうしてこううまく伝わらないのだろう、と呼々はまた重いため息をついた。
長い裳をはいた赤い仮面の踊り子が、広場をくるくると回る。すると衣がふわふわとそよ風のように舞って美しかった。
「わぁ、きれい」
咲耶は手を合わせてその舞に見入った。やれやれ、と呼々は腕を組みなおす。そのとき、日頃聞き慣れていない声音のためか、隣のさじきの首長たちの会話が耳についた。
「――……どうやら、秋津はまた戦を仕掛けてくるつもりのようですな」
「ええ、聞きましたよ。何でも、とうとう日嗣が立ったとか」
「東国を数日で攻め滅ぼした、屈強な男だというじゃないか」
「いや、わしはまだ子供だと聞きましたぞ」
「なんにせよ、戦は避けられんのでしょうなぁ……。気の重いことだ」
呼々は横目で彼らを見ていたが、ふと視線を咲耶に戻して驚いた。咲耶もまた、真剣な眼差しで首長たちの会話に耳を傾けていたのである。
「咲耶さま」
「……戦争になるのね、呼々」
咲耶は暗い顔をしてうつむいた。
「どうして秋津は倶馬曾を攻めてくるの……仲良くできないの? 向こうだって、人が死ぬのは哀しいことじゃないの」
「――秋津のような野蛮な民には、そのような人の心はないのでしょう。あやつらは野心に取り憑かれた、鬼のような者たちです。こちらも情けをかけてはなりません」
「みんなそう言うわね……陽巫女さまは何ておっしゃるかしら」
呼々は目を瞬かせた。
「咲耶さま? 何を言っているのです。陽巫女さまも同じようにおっしゃいますよ、もちろん。秋津は我々の敵なのですから」
「わかっているわ。けれど陽巫女さまは、決してこちらから戦争をしようとはおっしゃらないでしょう。……わたしがいつか女王になったときも、そうするべきなのかしら」
呼々は思わず口をつぐんだ。今朝、姫巫女になることさえ夢みたいだと言っていた咲耶であったが、もう女王になったときの対外政策のことまで考えているのか。
責任感の強い人だ、と呼々は感心し、少しの沈黙の後に言った。
「戦は民と土地を消耗します。争いをありがたく思う者はおりません。あなたが謙虚に倶馬曾の平和を願うなら、むやみに戦をけしかける必要はないと思いますが。……もちろん、これはわたくしの考えであって、咲耶さまに押しつけはしません」
咲耶は物足りないような顔で呼々を見た。呼々は静かに苦笑する。
「ですが、きっと陽巫女さまも同じように考えていらっしゃるのだと思います。戦はなにも生み出さない……そして何より、こちらから攻めたのでは、野蛮な秋津と同じになってしまいますから」
「そうね……それもそうだわ」
やっと咲耶は納得したようだった。
このとき、首長たちの話題は別の方に移っていた。それは秋津との戦のことよりもさらに聞き捨てならない話だった。
「――……うぅむ。やはり阿依良の連中は来ていないか……」
咲耶は目をぱちくりさせた。
阿依良というのは、倶馬曾の中でも南東に位置する大きな郡である。平野が広く、豊かな土壌を持つ海辺の都市。倶馬曾の首都・日向の次に栄えているところ、と咲耶は記憶しているが。
並んだ首長たちの顔を順に見ながら思い出しても、確か阿依良の首長だと名乗ったものはいなかった。
陽里は日向のはずれにあり、日向と阿依良はさほど遠くないはず。姫巫女の祭りとあらば、真っ先に手土産を持って駆けつけてきそうなものである。
(「やはり」って……どういうことなの)
咲耶の視線にも気づかず、上質の酒に酔った首長らは饒舌に語りあった。
「どうも胡散臭いんだよな、あそこの奴らは。ここ数年、妙によそよそしくて」
「聞けば、大きな市の真ん中にでかい宮殿を建てたらしいぞ」
「ああ、わしは一年ほど前に行ったがな、何か一生懸命造っていたぞ。たしかに宮のようなものを……」
「それより、兵を集めているという話じゃないか。どういうつもりだろう、まさか勝手に秋津と戦う気じゃなかろうな」
(なんですって……)
咲耶は顔をしかめた。思わず身を乗り出しそうになったのを、呼々に押さえられる。 呼々は若い姫巫女にひっそりと言った。
「咲耶さま、どうか落ち着いて。ご自分の立場をお考え下さい」
「でも、呼々」
顔を見ると、どうやら呼々も内心は咲耶と変わらないようだった。しかし今は姫巫女のための祭りの最中であり、相手は首長らであり、しかも酒に酔っている。うかつには動けなかった。巫女は軽々しく男と口をきくものではないのだ。
赤い顔の男たちはさらに続けた。
「陽巫女さまや我々を無視して、か……。ありえなくはない。今あそこを取り仕切っているのは、まだ若い奴というじゃないか。たしか、名は……穂尊とか聞いたな」
「そうだ。何でも腕っぷしだけは強いらしい。クマソタケルの再来といわれているとか」
「ほう、タケルですか。いい気なものですな、我々を蚊帳の外にして」
首長らはどんどん酒を飲み進め、やがて話題は大陸との貿易の話になった。しかし咲耶は、やけに耳に残るその響きを唇に乗せた。
「タケル……」
――クマソタケルの伝説は、巫女として勉学にも励んできた咲耶ももちろんよく知っている。たしか古の英雄であったが、秋津からやってきたヤマトタケルノミコトによって討たれたのだ。そして、ミコトにヤマトタケルの名を与えた者こそ、クマソタケルであったという。
タケルとは、英雄――比類なき強き者、という意味だ。
「聞き捨てなりませんね。そのような話、わたくしは噂でも聞いたことがありませんでしたが」
呼々が不機嫌な声音でつぶやく。
「わたしも……初めて聞いたわ。阿依良がそんなことになっていたなんて」
花の痣の手の平をぎゅっと握り締め、咲耶はうつむいた。右手の腕輪がシャランと鳴る。
「陽巫女さまはご存じかしら。知らないでいらっしゃるのなら、お伝えしなければ……。もしも阿依良が勝手に秋津と戦争を始めたら、ひどいことになるわ」
ええ、と呼々は頷いた。
「今夜、宮に上がったときにでもすぐにお伝えしましょう。きちんと阿依良に使いを出して調べさせなければ」
日が西の山に傾いていた。歌舞劇ももう終盤に差し掛かり、軽快な拍子に合わせて仮面の踊り子たちが飛び跳ねる。彼らは見物していた少女や首長たちの手を引き、なかば強引に一緒に踊らせ始めた。つられて周りの者も簡単な身振りで足拍子を踏み出し始める。人々はやがて熱気を得て、大声で歌いながら一体となって踊り回った。
これで咲耶が大人しく座っていられるわけがない。
「わぁ……っ」
重い衣にもかかわらず人々の興奮の中に混ざろうとした彼女の首元を、当然のように呼々が掴む。そして呆れきった表情で言った。
「なりません。はしたないですよ、姫巫女さまともあろうおかたが」
「まぁ、馬鹿なことを言うものじゃないわ。わたしのための祭りでわたしが楽しんで、何が悪いの」
「ですから、姫巫女としての自覚がですねェ……」
「お説教はいらないわ。呼々、あんまり融通が利かなすぎると人生楽しくないわよ」
目を躍らせて、咲耶は呼々の腕をぐいぐいと引いた。
「さァほら、呼々も踊るのよ」
「えっ……ちょっと、咲耶さま」
「あら」
咲耶はにやりと悪戯っぽく笑った。
「呼々、あなた、わたしの誘いを断るって言うのね? そうなのね? いいのね?」
「あ、いえ、まさかそういうわけでは」
「なら、早く踊りましょ」
結局は咲耶の言うなりになっている呼々だったが、一緒に踊っている咲耶の笑顔を見ているうちに、そんなことはもうどうでもよくなっていた。これが何よりの幸せのように思えたのだ。
こうして無邪気にはしゃぐ咲耶を見ることなど、陽巫女の宮に上がってしまえば二度と叶わないかもしれない。ならば、この陽里の陽が沈みきってしまうまで、咲耶が咲耶という名の娘である最後の瞬間まで、思い切り笑っていさせてあげたかった。なんの責務もさだめもないまま、ただの明るい少女でいられるうちに――
陽が西の山に差しかかったとき、咲耶は不意に足をとめて夕陽を見やった。
赤い夕焼け、沈みゆく日、染められていく空、紅の世界。
太陽は丸く大きく、そしていつもよりも濃いよどんだ緋色をしているように見えた。
「咲耶さま、どうしました」
いつのまにか咲耶以上に夢中になって踊っていた呼々が、浮かれた表情のまま訊ねる。だが咲耶は、落ちていく夕陽から目を離せずに答えた。
「呼々……見て、太陽が赤いわ……」
「ああ、本当ですね。きっと今夜は星が美しいでしょう。咲耶さまの宮入りにふさわしい夜になりそうで、よかったですね」
ううん、と咲耶はぼんやりとした様子で首を振った。
「違うの。……まるで、血の色みたい。何だか怖いわ」
「咲耶さま」
呼々は顔色を変えて咲耶を覗き込んだ。
「このような日に、忌詞を口にしてはなりません。不吉です」
咲耶は怯えるようにふるふると首を振る。目は紅の陽にとらわれたままだ。
「でも……でも、怖いのよ。陽が沈んでいく。落ちていくの。……誰にも止められないわ――」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。だが、恐ろしい。この夕焼けは、恐ろしい何かを連れてくる。
「痛ッ……」
突然、咲耶の右手が痛んだ。手の平の花形の痣だ。それが、波打つようにきりきりと痛む。
そのとき、目蓋の裏に奇妙な光景がかすめた。大雨のような轟音――軍馬の蹄の響きだ。何十、何百という騎馬が、夕焼けに染まった平野を駆けている。押し寄せてくる――
(なに……なん、なの?)
頭の中が振り回されたようにぐらついて、咲耶は痛む右手を握り締めてひざをついた。
「咲耶さまっ、どうなさったのです」
顔色を失って呼々がしゃがみこんだときだった。
突如として地鳴りが響き渡り、里の柵の方から大きく悲鳴が上がった。そして振り返った咲耶と呼々が見たのは、夕陽と同じ緋色だった。――火の手が上がっていた。
「な……燃えている、どうして―」
その正体はすぐに知れた。咲耶のすぐそばまで、おびただしい数の火が降ってきた。火矢が放たれているのだ。
ヒュン、と飛んできた炎が咲耶の目の前の里娘に突き刺さり、彼女は短く悲鳴を上げて倒れ伏した。そして背中を焼かれてもだえたが、少しの間もおかずに動かなくなった。
咲耶は声も出せず、黒く燃えていく娘を凝視していた。助けようにも体が動かない。目をそらすことすらできなかった。
「咲耶さま、お立ち下さい!」
呼々に思い切り腕を引かれて、やっとのことで咲耶は立ち上がった。そして手を引かれるままに力なく走る。
火矢は息をつく間もなく里にあふれた。それから怒涛のように広場までなだれ込んできたのは、騎馬軍だった。目元から頬にかけての黒い刺青――鈍く輝く武器を手にし、狂気を帯びた男たち。
「ひぃっ」
背後で悲鳴がしたかと思うと、咲耶は生温かいものを首筋に浴びた。――緋色の鮮血。足元にごろりと転がったのは、幼い少女の首だった。
「あ」
心臓が凍りついて足が止まる。
「咲耶さま」
呼々が振り返った瞬間に、咲耶の視界が陰った。兵を乗せた馬が二人のすぐ後ろまで迫っていた。
「お前が姫巫女か!」
男の手の狂剣が夕陽を浴びて赤く輝く。いや、べっとりとついた血が光ったのかもしれない。しかし、その緋の色が振り下ろされるより先に、呼々の剣がひらめいた。
わき腹を一突きされた男は、声もなく馬から崩れ落ちる。
「咲耶さま、はやく。……くッ」
呼々には長剣の血を拭う時間もなかった。主人を失った馬の向こうに、続々とこちらに向かってくる男たちの姿があったのだ。姫巫女である咲耶を目がけているのだろう。口惜しいことに、今日の咲耶の衣装はそれを宣伝しているようなものだった。
「ちくしょうッ」
呼々は茫然としている咲耶から上着をはぎとると、迫り来る騎馬兵たちに向かって投げつけた。
橙の衣は運良く一頭の馬の頭に引っかかり、突然目隠しされた馬が混乱して暴れだす。騎手は振り落とされ、周りの馬も驚いて暴走した。
「うわああっ」
「こら、落ち着け!」
男たちの情けない怒声が上がる。
この隙に呼々は力ずくで咲耶を立たせ、抱きかかえるようにして厩に駆けこんだ。そしてすぐに咲耶を乗せると、自身も手綱を取ってまたがった。
「姫巫女が逃げるぞ、追え、追え!」
「つぶせ、あそこだ」
「皆殺しにしろ!」
里中で悲鳴と怒号が飛び交う。まだ温かみの残る血が飛び散り、人であったものがあちこちに転がった。そして全てが火に巻かれていく。
「咲耶さま、しっかりつかまってください、歯を食いしばって」
言うが早いか、呼々は思いきり馬の腹を蹴って駆け出した。里の入り口側はもう兵に塞がれているので、陽巫女の宮に続く裏道から出るしかなかった。
(何が起きているの……)
無意識のうちに呼々にしがみついていた咲耶は、彼女の衣に半分顔を埋めたまま震えていた。
振り返ると、里はもう火の海になっていた。女たちの悲鳴が途切れることはない。だが、それも、烈火の渦に呑みこまれていくようにやがて小さくなっていった。
「里が……陽里が!」
信じられないままに咲耶は叫んだ。
燃えている。陽里が、赤く燃えている。
「呼々、呼々、止まって! 戻るのよ、陽里に。止まって。戻るの! みんなを助けなきゃ」
「なりません!」
呼々は胸が張り裂けんばかりに叫んだ。
「みすみす死にに行くようなものです……あの数に勝てるはずがありません!」
「戻るのよぉ……! 呼々、呼々とまって! 止まってよ、呼々ぉッ」
咲耶は乱暴に呼々を揺さぶり、声を上げて泣いた。呼々もめちゃくちゃに何かを叫んでいた。そうでもしていないと気が狂ってしまいそうだった。
(……なんなの……なんなの。どうして、こんな……。どうしてなの)
馬は道なりに山を駆け上って行った。陽里が木々に隠れてすっかり見えなくなってしまったころ、呼々は頬の涙を片手でぬぐった。宮のほうから駆け下りてくる馬を見つけたのだ。乗っている女の顔に見覚えがあった。
「姉上!」
「呼々、咲耶さま、よくぞご無事で」
血相を変えてやってきたのは、呼々の一番上の姉・呵々だった。出会った二頭の馬は高く鳴き、一度すれ違ってやっと足を緩めた。
「姉上、陽里が」
剣を腰にした呵々は厳しい面持ちで頷いた。
「なんてことだ……陽巫女さまの占も間に合わなかったなんて」
「陽巫女さまは」
咲耶が呼々の後ろから叫ぶ。しかし、呵々はきつい眼差しで首を振った。
「陽巫女さまはまだ宮にいらっしゃいます。わたくしは御方からのお言葉を伝えに参りました。――咲耶さま、このままお逃げ下さい。どうかすぐに山を下りて」
「なっ……、どうして」
「陽里が落ちればもう手立てはありません。どうか、あなただけでも」
「わたしに陽巫女さまを見捨てろと言うの」
呵々はじれったがるように眉根を寄せる。
「わかりませんか、陽巫女さまはもう覚悟していらっしゃるのです。あなたはまだ正式な姫巫女ではない。誰も、若いあなたを死なせたくないのです。ですから、どうか―」
「いいえ、わたしは陽巫女さまのところへ行くわ。姫巫女とか関係ない。わたしが陽巫女さまをお守りする、最後の最後まで」
「咲耶さま……」
その時、蹄のかけてくる音が背後から近づいてきた。
「追手が」
青くなる呼々に、呵々は姉としての顔を向けた。それは同時に、陽里の戦士の顔でもあった。
「行きなさい。とにかく、ここにいては殺される。呼々、お前は咲耶さまをお連れしろ。わたしが時間を稼ぐ」
ヒュン、と風を切って彼女は大きな矛を構えた。
「そんな――姉上」
「行け!」
呼々は幼子のように顔を歪めたか、すぐに思い切って馬を走らせた。だが涙をこらえることはできず、温かな雫が風にさらわれた。
「陽巫女さまの宮に向かいます……ッ」
「ええ、お願い。――諦めないわ。きっと何か手があるはず。陽巫女さまのところへ行けば、きっと……!」
咲耶は後ろからしっかりと呼々を抱きしめた。もう泣くまいと思ったが、やはり我慢できずに嗚咽をもらして泣いた。
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