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scene3.小坂圭
scene3.小坂圭
朝、ベッドの中で目が覚めると、隣に寝ている筈の彼女の姿は既になかった。今までそこに居たかのようにベッドのシーツにヘコみがある。ぼーっとした頭でもう一度目を瞑り、枕元にある携帯で時間を確認した。今は6時少し過ぎ。まだ仕事の時間には十分に間に合う。彼女はこんな朝早くからどこへ行ったのだろうか?
そんな事を思いながらのそのそとベッドを這い出る。そして台所へと行き、何か飲もうと冷蔵庫に手を伸ばした瞬間にダイニングテーブルの上に手紙が置かれている事に気が付いた。それは彼女の瀬野川奏からのものだった。
『圭くん。おはよう。調子はどうですか?今日は昨日も言っていたように大切な授業があるので、早めに帰ります。ご飯は机の上にあるので適当に食べて下さい 奏』
メモに書かれた綺麗な文字を見て、「ああ、そっか……」と彼女の言葉を思い出した。
奏は高校の時のクラスメイトだ。その頃から知ってはいたけれど、付き合うとかそういった男女の関係ではなかった。仲の良い友達の一人。そう、男女を含めて数人のグループの中に居た女の子だ。その頃から既に教師になるのが彼女の夢で、今年念願の高校の教師として母校の北川高等学校で現代国語を教えている。1年1組の副担任にもなったと興奮気味に言っていた事が記憶に新しい。
彼女の夢は小学校の先生だったらしいのだが、それは難しかったらしい。いくら教職員免許を持っていたとしても、採用されなければ意味がない。今は臨時の教師や、講師をする人が多い中、新卒で高校の教師に正式に採用されたというのは凄い事だと思う。と、いっても俺個人の感想で、詳しい事は良く知らない……というのが現実なのだけれど。
そう、そんな奏にとって今日は大切な授業があるとの事なのだ。何日も前から準備をしていたのは覚えている。本当は昨日は自分の家に帰る予定だったのだが、俺が少し身体の調子を崩してしまい、奏が泊まって行ってくれる事になったのだ。それに関しては本当に迷惑を掛けたなと思う。
(ちゃんと、授業の準備は出来たのかな……)
そんな事を思いながら冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを一気飲みすし、奏が作ってくれていた朝ご飯を見る。俺が食べやすいようにと大きめのおにぎり。卵焼き、そしてコンロの鍋の中には味噌汁。コンロに火を点けながらぼーっと思う。本当に彼女は良く出来た女の子だ。
そして、奏には感謝している。
実は高校生の頃に部活の事で少し荒れていた時期があった。彼女はバレー部のマネージャーという事もあり、何かと気に掛けてくれた。その時には彼女の優しさには本当に気付く事が出来なかった。
自分の事、部活の事、大切な家族の事、全てが俺の中でキャパオーバーしてしまい、本当に苦しくて仕方が無かった。こんな日々がいつまで続くのだろうか……、そんな事を何度も何百回も思った。暗い闇の中をひたすら走っている、そしてその暗闇の出口が見えない。息切れをして足を止めようものならそれが最後。もう動けない、そんな気がしていた。
部活をどんなに頑張っても成果は現れなかった。そして同じチームには「天才」というヤツが居た。それも一学年下にだ。中学の時にはエースと言われていた俺だけれど、強豪北川高校に入ってからは多くの部員の中で烏の一員として飛び立てる日を夢見ながら頑張った。でも、小さな巨人と呼ばれた彼が入部して来てからは更にその夢は遠のいた。自分でもどうする事も出来ない焦燥感と絶望感。けれど、諦めてしまうと、そこで全て終わりだ。自分で自分の限界を決めるなんてまだ早すぎる。
でも、辛くて仕方がなかった。誰かにもう無理だと言いたかった。
けれど、家に帰って絶対に悔しいだとか苦しい顔なんて見せられない。普通に笑って、部活はどんなだったと面白おかしく話し、中学の頃と同じ自分を演じた。
でも、今になって思うと、母は少しだけ気付いていたのかもしれない。弁当を少し残してしまった日、ほとんど食べれなかった日。その次の日には必ず食べやすい物や俺の好物が弁当の中に入っていたからだ。その母の心遣いに救われていた事は確かだ。
そして、弟の涼と隣の仁菜子の事が凄く可愛くて、俺の事を北川のエースと信じ込んでいる彼らにはどうしても今の自分の事を知られるのが嫌だった。希望の無い未来なんて見せたくもなかった。何故なら二人はまだ小学生でこれから先に沢山夢を見て、自分の将来を考える事が出来る。俺もまだ高校生だからこれからだって事くらいわかっている、
けれど、強豪と呼ばれる学校でレギュラーになれる人間と、その他大勢の補欠とでは大学からの推薦の数が違う。
もう、その時点でバレーを続けて行くには夢を見れる年齢なんかじゃなかったのだ。
そんな毎日の中、奏はいつも俺の傍で笑っていて、「今は小坂くんのいい所が発揮されていないだけだよ。大丈夫。このままでも大丈夫」ずっとそう言ってくれていた。「私は小坂くんのプレーが大好きだよ」……と。
その当時、マネージャーとしても頑張っていた奏。部員の数が半端なく多かった為、全ての選手や性格、好みを把握する事なんて難しかったと思うけれども、それでもほとんどの部員の事を把握していた。それで学校の成績もいつも学年10位以内に入っているなんてどんな頭しているんだろうか?なんて思ってもいた。
今の俺が居るのは、きっと家族と仁菜子と……奏のおかげだ。
「ああー。今、何時だ?もう、こんな時間じゃん。急ごう!」
俺は奏の作ってくれていた味噌汁を器に注ぎ、おにぎりと卵焼きを頬張った。
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