Phantom pain

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Phantom pain

一度捕らわれた心臓が幾ら必死にもがこうとも、己の意思で逃げ出す事は到底叶わない。永遠に続く暗く深い沼に溺れ、いつまでもいつまでも唯沈んでいくだけで、まるで己の心情なんざ知ったこっちゃ無い。其れが依存という事だ。自ら触れた毒華に侵されるのと同じ様に。然して其れは己の事を指す。せめて御前は俺と同じ過ちを繰り返さない様、身近の草木には十分注意して貰いたい。毒に飲み込まれ、自我を喪わないように。 "ファントムペイン" 「お願いだ、エリック。…今夜はもう少しだけ酔忘せて」 発した言葉はたちまち空気に溶け消え、二人の間に一時の静けさが舞い降りる。窓から差し込む月明かりは両者の火照った肌を甘美に照らしあげ、思わず喉が鳴ってしまいそうな程。声の持ち主であるマイクは、エリックと呼んだ相手に縋るように身体をぴったりとくっつければ欲情し大きく膨らんだ其れを彼に押し当て自ら己の心情を煽りたてる。 当の求められた相手はと云うと、急かす様に身体を密着させる彼を横目に興味が無いと云った様に煙草の煙を吐き出している。口付けを強請られても顔を背けて、甘美に煙を纏いつつ、欲情した男を焦らす。 まるで一方通行な二人だが、其れでも良かった。マイクにとって其れ以上は有り得無かったのだから。其の儘マイクが再度欲に塗れた唇で彼の名を囁いた時、時が満ちた様に唐突に距離が縮まっていく。マイクは仄かに煙草の苦味を感じた。然し其れも刹那、甘く柔らかな感触は途絶え鋭い痛みが頬にぶつかった。息が乱れ思わず汚らしい喘ぎを漏らす。一時も経たない内に左右逆方向から新たな衝撃を食らった。一度、二度。三度。其れ以上。 「俺の名を呼ぶな」 脳が揺れ動き意識が朦朧としていく中、自身の拳に鮮血が散った事を悟ればあからさまに顔を顰め、エリックは罵る様な視線を向けて声を吐き出す。 「えり、っく」 すかさず鈍い激痛が身体中を走り巡る。 「聴こえなかったのか、御前みたいな人間如きが俺の名を呼ぶなと言ったんだ」 「…えり」 「また骨でも折られたいのか?」 無色で重低音のあるエリックの声がマイクの脳天を貫く。決して其の男が冗談を言わない事をマイクは知っていた。つまり発した言の葉に嘘は無い。エリックは本気だ。唯、其れでも構わなかった。 幾ら殴られ身体が傷つけられようと手足の骨が折られようと、其の時間彼が俺だけを観てくれるならば良かった。たった其れだけでエリックの心が買えるならば易いとさえ思えたのだ。だから、彼が俺の身体を求めるならば例え死んでも悔いは無い。 然し、エリックこそマイクの思考等総て判り切っていた。自分が求めれば彼は迷い無く総てをさらけ出すと。だからこそ、想像通りに頷いてみせた目の前の男が気に食わなかった。唾を吐いて痺れを切らした様にマイクの存在を貶しても、彼奴はずっと笑っていた。俺は鬱陶しく思った。 彼に愛される日が来れば良いのにと、一度は思った事がある。然し今となっては叶わない幻想だと思い知っていた。 以前一度だけ、彼が愛用している性奴隷の都合でエリックに抱かれた事がある。本やTVで身につけた知識の様に甘く甘美な詞すら無かったが其の日は何時もに増して求められているかのように思え幸せだった。身体を重ねさえいれば幾ら名を呼んでも怒声を浴びせられる事は無いし、口付けを強請っても冷たい視線を向けられる事も無い。普段拳から与えられる痛みとは比べ物に成らないくらい、得られた快感というのは在り来りな詞では表せられない程、計り知れないものだった。唯、其の快楽は俺に向けられたものでは無かったけれど。 幾ら俺が「エリック」と名を呼び続けても、彼が呼ぶのは俺では無い聞き覚えの有る名を囁く。 己の親友であるクリストファーは、彼に心から愛されていた。 其れが羨ましくて堪らなかった。俺がどんなに愛をぶつけても彼が其の愛に答える事は有り得ない。共に寝た時でさえ、俺が呼ぶ声に対してエリックは「クリス」と親友の愛称を返していた。俺は一度だって、名を呼ばれた事が無いのに。 其れでも彼を愛して仕舞うのは、心臓を奪われているからだろう。俺はきっと之からも、彼に縛られ続けていく。其の身体が朽ちる迄、エリックという名の底無し沼に溺れ続けるのだ。 「エリック、あいしてる」 「嗚呼。俺も愛しているよ…"クリス"」 「…なぁ。彼奴の何処がそんなに良いんだ?」 偶然にも彼と同じ絵柄の煙草をふかす俺の父親は、久しく家に帰って来て早々に我が子に問の答えを求めた。母親が新しい家族にと迎えた再婚相手のヒューという男は、今日と同じ様に気になった事柄に対して直ぐに返答を求める。必然か、この男が投げかける問は彼に対するものが多く感じていた。 「多分俺にしか解らないと思うよ、叔父さん」 「御前にしか理解出来ない魅力があの男にあるって?冗談も大概にしてくれ、彼奴は御前を弄びたいだけだろう」 「彼の事を悪く言うなら俺が許さないけれど」 「御前はあんな男の為に自分の父親すらも敵に回すのか」 「家族なんか唯血が繋がっているだけだろ、ましてや御前は血筋すらも無い赤の他人じゃないか。彼の方が大切に決まってる」 そう言い切れば面白くなさそうに舌打ちを返される。本音をぶつけた迄だからこの男の事なんて関係無いしどうでもよかった。普段は同居人としか思っていない癖に、こんな時だけ家族ヅラする男なんて大嫌いだ。其れにどうせ今だって表向きなだけで、俺を家族だなんて感じていないに決まっている。 「久しく顔を合わせたというのに随分と反抗的だな。二度とそんな口がきけないように確りと躾けたつもりで居たが、未だ仕置きが足りなかったか」 「やめろ気色悪い。躾なんかされた覚えねぇし、今後されるつもりも無い」 躾なんて名前だけだ、この男は俺の身体で欲求を満たし快楽を得たいだけに過ぎない。同居人同然の母親が誰と再婚しようが関係の無い話だが、この男と一緒に暮らし始めてからというもの男の視線がねちっこく思えて仕方無く、全身を舐め回すような視線と詞に幾らか吐き気を覚える事が多々有る。どうして母親が、この世界に溢れんばかり居る男の中から此奴を選んだか解らなかった。 にやにやとした悪笑を浮かべた男は、抵抗する俺を力任せに組み敷けば爪が皮膚に食い込む事などお構いなしに慣れた手つきで布を剥ぎ取っていく。眩い程純白な素肌が明かりのもとで露出し、彼の視界へ晒された。 「俺は御前にイイコで居て貰いたいんだ、だが御前は少し眼を離しただけで誤った道筋を辿っちまう。御前が悪で染まらないようにするには如何したらイイか、父さんが直接其の身体に教えてやるよ」 無な感情とは裏腹に零れ落ちたひとしずくの泪が火に油を注いで、無常にも男の心情を煽りたてる。まるで蜘蛛の巣に絡め取られたかのように、俺の身体は蝕まれ食い散らされていった。
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