一章

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「さとくんっ…!!だ、大丈夫だった?!」 約一週間ぶりに制服を身に着け、鏡の前でネクタイを結んでいると、玄関の扉をノックする音がキッチリ三回耳に届いた。不格好な形のネクタイを首に巻いたまま玄関先へと向かう。鍵を開錠し、ドアノブを回すと隙間から華奢な手がにょきっと現れ扉をグッと押した。予想通り良く見知った顔の人物がそこには佇んでいた。 いつもクールな彼が珍しく取り乱している。色素の薄い髪には寝癖がついたままだ。身支度もそぞろに急いでやって来たのだろう。 「うん、大丈夫だよ。心配かけてごめんね、ゆうくん」 いつもは綺麗に結ばれているネクタイも今は適当に首に引っ掛けてあるだけで、シャツから覗く細い首には、“見覚えの有る”首輪がその項をガードしていた。これまであまり気にならなかったそれに必要以上、意識が引かれる。 「そう、、よかった…。」 「あ、ゆうくんもう朝ごはんは食べた?もしまだなら、一緒にどうかな?」 「いいの?」 「うん!もちろん」 「それじゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔します。」 実は昨日久方ぶりに意識を取り戻した僕は、それまでの約五日間の記憶が曖昧だった。断片的な記憶はあるもものイマイチはっきりとは思い出せない。どこか嗅ぎ覚えのある、独特の香りが部屋中に漂っている。ベッドの上から滑り落ちるように、フローリングへ体を移動させ、のろのろと立ち上がった。腰が妙に重く、力を入れた瞬間太ももが震えた。尻から、足の付け根を伝う透明な愛液が、カーペットに垂れないよう気を付けながら、慌てて浴室へと向かった。…それから、慣れない手つきで処理を済ませると、五日振りに正気を取り戻した。 ——それは生まれて初めて経験する、オメガのヒートであった。 「はい、どうぞ」 「ありがとう、うわぁめちゃくちゃ美味しそう!」 「ふふっ、どーぞ召し上がれ!」 昨日の事を思い出しながら、茶碗にお米を盛り、テーブルへと運んだ。僅かに目を輝かせ、目の前に並べられた料理を見つめるとゆうくんがそう呟く。思わず嬉しくなり元気よくそう声を上げた。昨日はベータ寮の部屋に残っていた荷物を全て移動してもらい、午後からは食料の買い出しにでていた。寮に戻ってきてからは、ひたすら家事と料理をこなした。ヒート中の五日間のことはあまり思い出したくはなかったし、深く考えたくもなかった。時々、お腹の底から沸々と這いあがってくる、アルファの精を欲する理性の欠片もない強い欲望が、怖かった。その欲望だけがこの五日間、頭の中を占領していた。 ——自分が、自分じゃなくなっていく、恐怖。 「…さとくん?大丈夫?」 「っ、あ、うんっごめんね、全然大丈夫!!」 「…そう、」 ゆうくんはなにか言いたげに口を開くが、結局何も言わずにおかずに箸を伸ばした。 おいしい、そう言いながらパクパク食べ進めていく。…ゆうくんも、ヒート期はあんな風になってしまうのだろうか。あんな、、え、えっちなっ、——カァッ、 「え、なんで、急に顔赤くしてんの?大丈夫?」 「だ、だいじょうぶっ、だいじょうぶだいじょうぶ」 首を横に傾げ不思議そうにこちらを見つめるゆうくんの視線から逃れ、まったく手の付けられていないご飯を口内に慌てて詰め込んだ。ゆうくんのあんな姿想像していたと知られればきっと、ごみでも見るような視線を向けられるに違いない。 「あ、鞄忘れた、」 朝食を食べ終え、さあぼちぼち学校に向かおうかと玄関先で靴へ履き替え顔を上げると、先に履き終えていたゆうくんが思い出したようにそういった。あ、確かにそういえばそうだ。この部屋へ来た時から彼は鞄を持っていなかった。 「ごめん、一度部屋に戻って、鞄を取ってくるから先に向かってて」 「わかった!それじゃあ後で」 「ん、ごはん美味しかったよ!ありがとー、じゃあまた後で」 小走りで去っていくゆうくんの背中を見送り、反対方向へ歩き出した。寮を出て少し歩いたところで、誰かに肩をポンッ、と叩かれた。 「あ、えっと、、」 予想外の人物が、そこには居た。煌めく金髪の髪が太陽に反射しキラキラと煌めいている。道行く学生たちが彼の美貌に釘付けだ。それもそのはず——彼もまた、選ばれしアルファの一人なのだから。 「おはよ」 「……お、おはよう、ったちばなくん。」 予想外の人物の登場に一際酷い吃音が発症する。無意識の内に、両手を強く握りしめていた。いつも以上に心臓が大きく波打ち、血が沸騰してしまいそうなほど体が熱を持つ。傍を通り過ぎていった、女子生徒の刺すような鋭い視線が余計に恐怖を煽った。人に注目されることが何よりも苦手な僕は、皆の視線から逃げるように視線をアスファルトへ移動させた。 「あーごめん、ビックリさせちまったか?ちょっと、聞きたいことがあって呼び止めただけなんだけど、俺みたいなデカブツに急に声かけられちゃ、そら驚くよな」 日に焼けた褐色の頬を指先で掻きながら、整った顔を引き攣らせ、不格好な作り笑顔を浮かべていた。普段、れんくんと行動を共にしている橘くんは、クールな印象が強く無邪気に笑っている姿など見たことがない。いつもニコニコ笑顔のれんくんとはまさに正反対。恐らく僕を怖がらせないための、作り笑顔なのだろう。 「あ、あの…だいじょうです、、ななにかようですか?」
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