一章

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「ねえ、憐くん、ねえねえ、れんくん!おーいれーんくーん!」 「……なぁに?」 常時愛想の良い笑みを添えた彼の甘く整った顔には珍しく何の感情も読み取れない無表情だけが浮かべられていた。淡い色の瞳は伏せられ、その視線はスマホに向けられている。密度の濃い長い睫毛が瞬くたびに見え隠れする瞳は、雨上がりの青空の様な煌めきを閉じ込めていた。 彼女の問いかけに珍しく鈍い反応を見せる色男はすらりと伸びる指の先まで手入れされた人差し指でスマホの画面をスライドさせた。 「朝からずっと熱心に一体何をみているの?…まさか堂々と浮気?」  自分の席に腰掛ける彼の隣をちゃっかりと陣取った彼女は、彼の腕に自分の腕を絡め更にその距離を縮めた。張りのある豊満な胸に彼の腕が沈む。ふわりと鼻を掠める甘い花の香りに一瞬、引き寄せられるようにして画面から視線を逸らすが、すぐにその視線は手元のスマホへと戻る。予想外の彼の反応に思惑が外れた彼女は眉を顰めた。いつものように子猫でも愛でるように甘やかし尽くしてくれると思ったのだが…彼の意識は彼女よりもスマホへと一心に向けられていた。 「どうしたら、健康に長生きできるのかなって、思って。」 「…何ソレ?憐くんは十分長生きできるよ。だって 、アルファだもの。」 良くも悪くも素直な性格の彼女は先程よりも数段冷めた声でそう呟いた。確かに彼女の言う通り彼は幼い頃から怪我や病とは無縁の健康男児であった。小学四年生頃からサッカーを初めてからは更に体力がつき流行病に犯されたこともない。 「うん、俺はね。でも…」 しかし彼の幼馴染である谷里見は昔から驚く程に心身共に脆い少年だった。 彼が案じているのは自らの身体ではなく、その幼馴染の身だ。少々面倒見のよすぎる節のある彼からすれば危なっかしい幼馴染の存在は昔から守るべき対象として部類されていた。少し目を離した隙に何処かで野垂れ死にでもしそうな、そんな不安を煽るような存在。 つい先日も、体調を崩し、一週間前には結膜炎で五日間も学校を休んでいた。心配になって何度か電話をかけてみたが、結局最初の日少し話をできただけでその後は不在着信が続いていた。高校生にもなって、母親でもあるまいにあまり構い過ぎるのはかえって良い迷惑だろうということは理解できるのだが、どうしても放っておくことができない。最近は避けられる頻度も増えてきたし、これは本格的にウザがられているととった方がいいのだろうか。 …ゔぅ、切ない。これが思春期を迎えた娘を持つ父の気持ちか…。この前独り言のように呟いたその台詞をたまたまその場に居合わせしっかりと耳にしていた橘はまるで変質者でも見るような視線を彼に向けていた。 特に役立つ情報を得ることが出来なかった彼は微かに溜息をつき、スマホを机の上に置く。 「帰りに本屋にでも寄っていこうかな…」 無駄に切羽詰まった表情を浮かべそう呟いた。 「あ、ならアヤも一緒に行くぅ」 結局彼はその日の放課後健康本を五冊も購入し後日幼馴染へと手渡したのだった。 「…え、えっと、、れ、れんくん…?こ、これっ、これは?」 何の前触れも詳しい説明もなく突如分厚い本を五冊も手渡されその重さにダメージを受けつつもしっかりと両手で抱え不思議そうに首を傾ける幼馴染へと、ニッコリと満面の笑みを向けた彼は一言、長生きしてね。という謎の台詞を口した。因みに彼もしっかりと同じ本を五冊購入している。 通常なら軽く引くほどの有り難迷惑なのだか、ある意味彼に対して盲目な幼馴染はぽかんと口を開き数秒間フリーズした後結局ぎこちない笑顔でこくりとひとつ頷いたのだった。
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