一章

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「れ、れんくん、」 僕が風邪を引いた時いつでも真っ先にその異変に気がつくのは彼だった。両親でさえ気が付かない僅かな異変に彼は目敏く勘づく。彼に会うためだけに毎日休まず学校に登校していた当時の僕は、あまい声で発される、おはよう。の後に続く『さとちゃん、お熱あるねえ。俺と一緒に保健室行こ』このお決まりのセリフが心底苦手だった。だから敢えて元気に振る舞ってみたり、顔があまり見えないよう帽子を被ってみたり、風邪を拗らせるたび試行錯誤を繰り返し今回こそは大丈夫だろうと意気揚々と登校するのだが、毎回顔を合わせてものの数秒で見破られてしまう。 嫌だ嫌だと首を振り駄々を捏ねる僕の手をそっと引き保健室へと連れて行く彼は、困った様に微笑み僕の耳元に顔を近付けると一等甘い声でこう言った。『大丈夫だよ、きちんとお休みして早く治しておいで?さとちゃんが辛いと俺も同じだけ辛くなっちゃう。だから早く元気になってまた一緒にあそぼ?』ボロボロ溢れ出る熱い涙を、指先で優しく拭うと、ね?と首を傾ける。そこでやっと、僕が渋々頷くと今度は、えらいねぇと言って頭を撫でてくれた。 当時の僕は今より何倍も我儘で傲慢であった。彼は自分の為だけに存在していると本気で思い込めるぐらいには。…何と無知で幼稚な子供。そんな事万に一つもあり得ないのに。 電話越しに聞こえてる彼の声がまるで子守唄のように眠気を誘う。処方された薬は既に病院で服用した。副作用で強い眠気に襲われる場合もあると先生が言っていたがまさかこんなにも早くやってくるとは。 「さとちゃん?本当に大丈夫?なんなら、おれ今からそっちに行こうか?」 「っだ、ダメッ!それは、だめ…!」 本当は今すぐにでも会いたいと心の底から声がした。あの頃の小さな僕が必死に彼を自らの元へ引き留めようとしている。 「ふふっ、さとちゃんにそんなに拒絶されると何だかちょっと寂しいね」 親離れを迎えた娘を見守る父親の気分?とか何とか僅かに苦い笑みを含ませた声で彼がそう呟いた。僕に向けてではなく、まるで独り言のように。 久しぶりのれんくんとの電話。絶対に意地でも眠りたくないのに異常な睡魔が襲う。スマホを握った手から少しずつ力が抜けてゆく。耳元で聴こえる呼吸音さえ愛おしくて心臓がギュウとなった。…だからだろうか。眠気と変に早まる鼓動でつい可笑しな事を口走ってしまいそうになる。 「…っ、れんくん…」 「なあに、さとちゃん」 「れんくんっ」 「ふふっ、はぁい?」 「…れん、くん、」 「なんですか?谷里見くん」 「…」 僕の傍から離れて行かないで。僕を置いて行かないで。ずっと傍に居て欲しい。会いたいよ。今すぐに。 喉元まででかかった言葉を我慢するには今の状態では結構な至難の業で、代わりに吐き出した声にならない呻きは酷く震えていた。こんなんじゃあまた心配をかけてしまう。本当に僕は成長しないな。 「…さとちゃん、泣いてるの?」 「っ、な、いてない、よ?」 「そんなに辛い?やっぱり、ただの結膜炎じゃなさそうだよ。どうして本当の事俺に話してくれないの?」 電話越しの彼が今どんな表情でそこに居るのか容易に想像できた。優しい彼は、昔から少しも変わらない。 僕が本当の事を憐くんに話したら、君は僕のものになってくれるの?僕を君の番にしてくれる? そんな本心が一瞬だけ顔を覗かせた瞬間、無意識のうちに指がボタンを押していた。 通話をぶっちぎってしまった事を悔やむより先に、重い瞼が視界を遮り、眠気が思考が奪った。
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