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濃姫資料
泰巌相公縁会名簿
「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」
これが見つかった事で帰蝶は長生きしたのだとなりましたが、寵妾となっているから違うとごく一部のあの歴史家が猛反発しましたね
妙心寺史
「尚ほ信長一周忌の法会を信長公夫人の主催で天正十一年六月二日(信長本能寺に死したる日)に営んだとき、月航が其の小祥忌拈香を挙掲した事がある」
お鍋は秀吉の主宰した一周忌に出ています
側室も妻ですが正式に名乗れるのは
正室だけなのでおそらく帰蝶の事だと思います
総見院殿追善記
「安土には此由を傅聞。宿直の番衆をはじめ。前夫人。後夫人。北の方。西對。東南の局に。妾古後達。奴婢。雑人に至まで徒裸足にて 散々に北走。」
これは秀吉が指示して書かせたものなので
おかしな所も多々あります
本能寺の後安土にいた人たちは裸足で逃げたよと言うことですね
北の方は正室の事なので正室の事だと思います、わからないのは前夫人後夫人ですね
帰蝶が信長と離縁していたのなら安土にいるわけもなく前、後夫人ではない
おそらく信秀の前夫人(名前不明)
後夫人、土田御前なのかな
安土で力を持っていたとされる鍋ですが
西對(女性の住まいと言う意味)東南の局
鍋よりも力を持った女性がいたと言うこと
なんですな、本当に鍋は自称寵愛女
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