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信長の寵愛の女①
す
信長の寵愛と調べると吉乃(類)が出てきます。吉乃が出てくる前は信長の女関係は闇に包まれていました。
ですが伊勢湾台風の時にある民家の屋根裏から信長や戦国時代の事がかかれている前野文書=武功夜話が発見され世間は盛り上がりました。
あの信長にまるで韓国ドラマのような物語が・・と。
でもその武功夜話は秀吉の朝鮮攻撃は多少信用できると言われているだけであとはあやしいと言われています。
実際に生駒子孫によると生駒にあった古文書と秀吉関連の本からの創作だと言っていますしね。そしていまだに吉乃寵愛と書く歴史サイトや信長考察本の類いは武功を元にして書いてますので寵愛説は消えません。
そして類も吉乃も架空の人物です。家系図には生駒娘としか書かれていません。
実際に武功夜話を読んでいると面白すぎるのです。濃姫との結婚は天文17年2月信長15歳の時です。
武功では信長結婚にあたり吉乃が濃姫に申し訳ないと内緒にします。漢字で書くのが面倒なので普通に書きますが
ざっくり言うと上総介信長と道三の娘が結婚したけど濃姫が可哀想だから信長と吉乃の事は内緒にしようぜ❗と書いてあります。
ですが信長が上総介を名乗るのは天文23年21歳頃からなので輿入れ時点ではまだ三郎信長です。
濃姫輿入れ前に信忠が産まれていると書かれていると思ったら天文20年にも信忠が腹のなかにいたり。弘治元年に信忠を産んでいるが弘治2年に夫(前夫)が戦死していたり。
生駒屋敷で3人産まれてますが実際には信忠も信雄も清洲で産まれています。生駒腹だと言われているのは信雄だけで信忠、徳姫は微妙なんですよね。
普通に考えれば明智筋の信長母か明智の血を引く濃姫からの側室か犬山との分断の為に生駒から出された人質として側室になった。
徳姫出産後疎遠になっていてしかも出家し尼になっていたこともわかっています。正室格とか扱いなど言われていますがそんなことはあり得ないんだよね。
生駒を正室にする意味がない。普通に考えれば清洲で側室になり子供を産み その後下がり疎遠になり出家し尼になった。寵愛されていたなら信長が許さないだろうし疎遠ににはならないでしょう。
信長は生駒が亡くなった時に香華料を渡していますがその後は何もしていません。
寵愛と言うよりは単なる側室の一人だった。
彼女にわかっているのは清洲で信長の側室になり諸説ありますが3人の子供を産み 側室をやめ仏門に入った人。
それだけです。
たったそれだけの事なのに素人のサイトは面白い事になってます。一度みてみることをおすすめします。
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