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迷い道
硬かった桜の蕾も膨らみ、いくつかはその淡紅色を覗かせるほど暖かくなり、心地良い陽射しが街を包むようなある日。
春の陽気に心踊らせ、新生活に向けて不安や期待に胸を馳せる人々の中で、一人、浮かない顔の青年が俯いて歩いていた。
「はぁ……ほんと、どうしようかなぁ」
彼はそう独りごちて道の脇にある寂れた小さな公園に咲く桜の木を見上げる。その瞳は桜を捉えてはおらず、黒い目に淡い色を映しているだけだった。
少しの間、ぼーっと桜の木を眺めていた彼だったが先程よりも深い溜息をつき、遊具のない公園の、少々色の禿げた二人がけの茶色いベンチへと歩み寄り腰を下ろした。
肩に掛けていた黒い革製の鞄のファスナーを開け、几帳面に整理された教科書類の中から透明なファイルを抜き取り、その中に一枚だけ入っていた書類を取り出す。
「……第一志望届け。来週の金曜までに提出なんだよな」
彼の持つその黄色い紙は印字で書かれているものと彼の名前以外書かれていない。どうやら彼は大学の進学先を決めかねているらしい。その証拠に黄色い紙には何度か鉛筆を走らせたであろう跡が薄らと残っていた。
彼、日向晴斗はそよ風でなびく長い前髪を日に焼けた褐色の手で抑えながらその紙を睨みつける。
そんな晴斗の元へ黒いフードを被った顔の見えない男が、これまた黒い革靴で短い雑草を踏み付けながら近づいてきた。男は晴斗の前まで来ると突然口を開いた。
「キミは今とても悩んでいる。そうだね?」
「は……?」
戸惑いと不信感を隠しきれない様子の晴斗は訝しむような目つきで男を見つめる。誰だって見知らぬ人に急に声をかけられたら警戒心を持つだろうが、男の不気味な見た目と相まって晴斗はより一層身構えた。
男は晴斗の様子に気づくと、慌てて言葉を付け足し弁解し始めた。
「ああいや、僕は怪しいものでは無いんだ。ただ通りかかっただけなんだけどキミが思い詰めたような表情をしていたから少し気になってしまって……驚かせてしまったのならすまない」
「……そうですか。確かに悩んではいますけど心配されるほど大したことでもないので」
元より人と深い交流をすることが好きではない晴斗は警戒心を弱めたものの、素っ気ない口振りで男をあしらい追い払おうとした。
しかし、晴斗の思いとは裏腹に男は空いていたスペースへ腰を落ち着けるとなおも晴斗へ話しかけて来た。
「今キミが考えていることは進路のことだよね? 行きたい大学に行くべきか、親が望む大学へ行くのか……答えが出せないんだろう?」
「え、なんでそんなの知って……!」
考えていたことを言われ、驚きで目を丸くして男を見つめる晴斗に、にこりと微笑んで見せた男は突拍子のない台詞を口にする。
「僕は心が読めるんだ。キミの考えていること、思っていることを全てね。100%キミのことを言い当てることができる能力を持っているのさ」
「なんだよそれ……馬鹿馬鹿しい」
おどけたようにすらすらとおかしなことを言う男に対して、冷めた目で見返す晴斗。だが、男は懲りずに喋り続ける。
「本当のことだよ。たとえばキミが友人関係で悩んでいることも、好きな子と距離を縮められなくてもどかしい思いをしていることも、密かに夢を抱いていることも……全部僕には筒抜けさ」
「……ま、マジかよ。ありえねぇ」
半ば顔を引き攣らせ言葉を漏らした晴斗は今言い当てられたことを心の中で反芻し、頭を抱えたい衝動に駆られる。
「これで信じてくれたかな?」
「……まあ、な」
未だ顔を引き攣らせたままの晴斗であったが一度小さく頷き肯定を示す。思い当たることばかり言われてしまえば信じないわけにはいかず、渋々ながら納得したようだった。
「でもさ、俺の事を知っていたとして……別にどうにかできるわけでもないだろ」
「確かにキミの悩みを全て解消出来るわけでは無いね」
男は人差し指で晴斗の持っている黄色の紙を指し示しながら言葉を付け足す。
「だが……そのまま一人で悩んでいても答えが出ないのも事実だろう? 話すだけ話して見たらどうだい?」
図星を突かれた晴斗は言葉を詰まらし、白紙の紙に目を落とす。そして、溜息を零したあと男を見据え口を開いた。
「あんたの言う通り親に言われた大学に行くか、行きたい大学へ行くか悩んでるよ。それに他のことも……全部合ってる」
「……そうか」
晴斗は目を逸らし、低い声で淡々と話す。
「友達はさ、皆自分の夢とかやりたいことがはっきりしてて、その為の努力とか勉強も惜しまずにやってる」
男は何も言わず、晴斗が先を話すのを促す。
「俺はいつも流されてやってたから……今やりたいと思っていることが本当にそうなのか分からない。だけど親の言う通りにしていればいいとも思えないんだ」
男は晴斗の言葉を聞き、一度深く頷くと男は口を開いた。
「なるほど。それじゃあ僕から一つキミにアドバイスをしてあげよう」
妙に明るいトーンで話す男に晴斗は怪訝そうな目を向ける。例え男が晴斗のことをなんでも知っているということが本当だったとしても晴斗自身分からないことを理解できるとは思えなかったのだ。
「まず、キミの心情を整理しよう。キミは周りの友人と自分を比較して焦りを感じている。また、やりたいことがキミの意思か、はたまた親への反抗心からなのか自分でも分かっていない。そうだね?」
「……ああ」
「それなら話は簡単だ。なぜなら今のキミの悩みは全て一つの事柄に収束する。それはつまり『夢について』だ」
「……そうだな」
「キミは、必ず夢を持たなければいけないと思ってはいないかい? もしくは目標や信条と言い換えてもいい」
晴斗は考える。確かに幼少期よりずっと目標を持つことや計画を立てることの重要性を周りの大人に説かれてきた。夢を語れば素晴らしいと賞賛される。逆に夢や目標がなければ何も考えていないと揶揄される。だからなければいけないものだと思っていた。
「周りが言うように夢を持つことは素晴らしいことだ。それは正しい。だが、やりたいことも夢も次第に変わっていくものだ。それは『好き』や『叶えたい』と思っているものが変わるからだよ」
「結局、あんたは何が言いたいんだ?」
「……無理に夢なんて作らなくていい。やりたいことなんて決めなくていい。いずれ見つかる。そういうこと、かな」
晴斗は溜息をつく。長々と話していたにも関わらず結局何も解決していない。夢を持たなくてもいいと言われても決めなければいけない状況にあるのは事実なのだ。多少の焦りや不安は和らいだものの答えは出ていない。
晴斗の心のうちを読んだのか、くすくすと男は笑う。
「答えになっていないと思っているだろう? 僕は曖昧で在り来りなことしか言っていないからね。そう思うのも無理はない」
軽薄そうな声色の男を未だ不審そうに見つめる晴斗。だが、晴斗は男が話し続けるのを黙って聞いていた。
「キミは誰かに証明して欲しいんじゃないかな? キミの進む道は合っている、正解だと。けれど誰も教えてはくれない。だから不安感が拭えない」
「……そう、かもしれない」
「夢を持たなくてもいいと言ったのは正解のないものに解答を作らなくていいという意味なんだ」
晴斗は、思い悩む。正解のないものが晴斗は苦手だった。数学なら答えは決まっている。だが国語は自分で答えを選び出さなければならない。晴斗は自身の不安感の正体が掴めた気がした。
「合っているかどうか、なんて気にしなくていいんだ。キミは好きなゲームや漫画を読む時にそんなことは考えないだろう? 好きだからやる。楽しいからやる。夢というと大仰で大層なものに感じるけど突き詰めれば『好き』というものが根本にある。だから自然とやりたいと思うんだ」
晴斗はもう一度、黄色い紙に目を落とした。今まで見落としていた何かを発見したような気持ちだった。もやもやとしていた輪郭の形が徐々に決まっていくようだった。
「少しずつ、キミの心に整理がついてきたかな? それじゃあここでやっとアドバイスらしいアドバイスをしよう。勉強とは自分を磨くための道具。大学とは勉強するための場所。……キミは自分のどこを、どんな風に磨いていきたい?」
「どこを、どんな風に……」
「それが分かればきっと、その紙も書けるんじゃないかな。既にキミの中に答えはあるようだし、後はそれに気づくだけだ」
男はそう言うと席を立ち、立ち去ろうとする。気づけば辺りは夕日に照らされ、橙色の光が町中に広がっていた。太陽の反対側には薄らと白い月も見える。
晴斗は慌てて立ち上がり、今にも公園から出ようとしている男の後を追う。だが、男は公園を出た直後、街に溶け込むかのようにあっという間に消えてしまった。
困惑気味にキョロキョロと周りを見回す晴斗だったが、結局見つけられず家に帰ることにした。晴斗は公園に来た時よりも明るい顔で街を歩いていた。
家に着いた晴斗は晩御飯の準備をしている母親に向けて話しかけた。
「なぁ、母さん俺――」
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