もう一つの病

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もう一つの病

 再び蔵へと戻ってきた彩菜たちは、薬箪笥のところまでヒナミを連れてきた。 そして、以前優介を助けた時と同じように、薬箪笥の前に置かれている木箱をどけると、その下に現れた六芒星の図形の上に彼女を案内しようとした。 「ダメだ……全然来てくれない」  彩菜がしゃがみ込んで両手を広げるも、ヒナミは優介の後ろに隠れたまま動く気配はない。 「おいおい、これじゃあ治せないんじゃないか?」  怪訝そうにそんな様子を見ていた康平が口を開く。それを聞いた優介が、「だったら俺も一緒にそこに入るよ」とヒナミを連れて歩き出した。 「えっ? 優介も一緒に入って大丈夫なの?」  少し不安げに瞳を揺らす彩菜が祖母の顔を見た。 「心配せんでも大丈夫じゃ。病ではない者が、その陣の中に入ったとしても何も起こらん。むしろ、優介がいる方がその子も安心じゃろ」 「なら良かった」と彩菜はふうと息を吐き出す。 「あー、せっかく蔵の中片付けたのに、これでまた振り出しか」 「ちょっと康平、余計なこと言わないでよ」  彩菜がムッと目を細めて睨むと、「悪い、冗談だって」と康平は気まずそうに目をそらす。 コホン、と彩菜は咳払いして気を取り直すと、両手を差し出してヒナミの左手を握った。 「ヒナミちゃん。怖がらなくても大丈夫だからね」  彩菜はニコリと微笑むと、そっと目を瞑った。そして心の中の意識を、目の前の女の子に集中させる。 沈黙に包まれた蔵の中で、康平がゴクリと静かに唾を飲み込む。祖母は黙ったまま、道端家の血を引く孫の姿を見ていた。  彩菜は大きく息を吸い込むと、かつて母親が教えてくれたあの詩を口ずさむ。  ひとつかぞえて月の唄……  静寂が包む蔵の中で、彩菜の声がそっと響いた。一瞬ふわりと風が巻き起こったが、それはすぐに気配を消してしまう。 「……」  彩菜はもう一度息を吸い込むと、同じ台詞を口ずさむ。 「ひとつかぞえて月の唄……」  先程よりも心を込めて唱えるも、彩菜の気持ちとは裏腹に、蔵の中はひっそりと静まり返るだけで何も起こらない。 「…………、あれ?」  彩菜は瞼を開けると、パチクリと動かした。目の前では相変わらずヒナミがこちらを怯えた表情で見ている。 「何も起こらないぞ……」  康平がきょろきょろとしながら辺りを見回す。同じように優介も周囲をぐるりと見渡すと、真横にある薬箪笥の方を見た。 「おかしいな……あの時と同じようにやってるんだけど……」  彩菜が困ったように頭をかきながら呟く。そんな彼女に、康平は呆れたようにため息混じりに言った。 「まさか、あの時は『まぐれ』だったとか?」  怪しむように幼なじみの女の子を見る康平に、彩菜が慌てて口を開く。 「そ、そんなのわかんないよ。だいたい、私だってどうやって治したのか覚えてないし……」  そう。あの時。優介がここに運ばれてきた時は、ただただ必死で、何が起こったのかあんまり詳しく覚えていない。 今と同じようにお母さんから教えてもらった詩を口ずさむと、急に薬箪笥が光出したのだ。でも……。  いつもと変わらず穏やかな様子で自分たちのことを見下ろす薬箪笥を見て、彩菜は首を傾げる。 もしかして康平が言うように、あれはまぐれだったのか?  不安と、行き場を失った思いを瞳に滲ませて、彩菜は祖母の方を見た。 「ふむ……。何も妖怪の身体に起こる異常がすべて病のせいとは限らん。人間と同じで、精神的なショックで口がきけんこともあるからのう。もしかしたらこの女の子も、心が原因で喋れないのかもしれん」 「心が、原因……」  彩菜はその言葉の意味を深く咀嚼するように、ゆっくりと呟く。 「道端家に伝わるこの薬箪笥には、妖怪の病や傷を治す力があるが、『心』の病までは治すことはできん。それは人間と同じで、別の問題になるからの……」  そう言ってゆっくりと歩き出した祖母は、彩菜の前にいる少女へと近づく。そして、優しく頭を撫でた。 「もしもこの子が心の病を患っているとすれば、薬箪笥の力に頼るわけにはいかん」 「じゃあどうすれば……」と彩菜が口を開こうとする前に、祖母は孫の顔を見ると静かに呟いた。 「愛情じゃよ」 「……愛情?」 「さよう」と祖母はこくんと頷く。 祖母はヒナミの手を握ると、そのまま彩菜の方へと近づいた。そして握っていた小さな手のひらを、今度は彩菜の右手へと託す。 「彩菜がこの子を助けたいという気持ちがあれば、きっと心を開いてくれるはずじゃ」  彩菜とヒナミが繋いだ手を、祖母は両手で包み込むように握りしめる。 祖母と、言葉を失った女の子の命のぬくもりが、彩菜の手に沁みこむように伝わっていく。 ふと顔を上げれば、さっきまで怯えていたような顔をしていた少女は、潤んだ両目で真っ直ぐと自分のことを見つめていた。 大切な何かを求めるかのようなその瞳に、彩菜は無意識に、かつて母を失った自分の姿を思い出す。  おかあさん。  そんな幼い頃の、自分の声が心の中で聞こえたような気がした。 「きっとこれも何かの縁。彩菜や、この子を救っておやり。大丈夫、お前さんならそれができるはずじゃ」  ニコリと微笑む祖母の姿に、彩菜はふっと自分の心が軽くなった感じがした。大事な家族を失い、言葉も失った妖怪の女の子。  彩菜は抱きしめるように左手でもヒナミの手を握ると、少女に自分の気持ちが伝わるように、はっきりとした口調で告げた。 「うん。この子は、ぜったいに私が助けてみせる!」
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