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だれにもいえない
校内で会う日は合図を送る。
朝、姉は玄関でローファーを履いているときに、僕に目配せをする。「放課後に会いたい」と言外で語る瞳を見据え、頷けば約束は取り交わされる。昼休みに昇降口へ行き、姉の下足箱を覗けば二つに折り畳まれたメモが置かれている。僕は一年生で、姉は三年生だから、上級生の下足箱を昼に覗くのは少し勇気が要るし、スパイムービーの主人公を気取っているような心持ちにもなれるが、あまり好ましくはない。現代人なのだから携帯端末を利用すればいいのかもしれないが、履歴が残ることこそ僕らには致命的だ。万が一、母に携帯電話を検分されたとしたら。メールで会う約束をしていたら、その都度理由を偽って、繰り返しているうちに理由の在庫も枯渇する。着信履歴は頻度を考慮すると論外だ。
紙にしようと提案したのは姉だった。セーフハウスめいた待ち合わせ場所を三つ用意する。放課後、人気がなく誰も利用しない準備室や、廃部になって空きが出来た部室棟の一室、図書室の隅。それぞれに番号を振り、どこで会うか、姉が選ぶ。わざわざ、弟との密会のためにやり取りするメモ用紙を購入し、小花柄の紙切れにたった一文字の数が記され、あとは割り振った数字の場所に向かうだけだ。余計なひとことは絶対に書かない。誰かに拾われたときに誤魔化し易くするために。家族に発見されても、授業や部活動で使ったのだと即座に取り繕うために。
昼休み、僕は昇降口を訪れた。教師が一人、二人と廊下を通る。背中が遠ざかってからさりげなく三年生の下足箱へ移動したところで、上級生と思しき女子グループが三人ほど駆け足でやって来て、僕はぎくりと強張った。表情には出さなかったが、代わりに口から心臓が飛び出そうなほどに驚いていた。姉との待ち合わせでもっとも緊張するのが、このメモ用紙を取りに行くタイミングなのだ。なるべく目撃されず、人目を忍んで行動したい。妙な噂を立てられるわけにはいかない。スパイとは、映画であろうと模倣であろうと、正体が判明すれば命運も尽きるもの。僕は携帯電話を手に、メールを打つ振りをする。
女子生徒たちは、他愛無い話をしながら、昇降口に設置されている自動販売機の前に並ぶ。「B組の誰それさんがね」と、この場にはいないらしい誰かを話題に、ああでもないこうでもないと議論を交わし、おかげで一向に立ち去らない。井戸端会議は長丁場だと母さんがぼやいていたことを思い出した。
早く戻れよ……と何度念じただろう。ようやく彼女たちが移動を始め、僕の横を過ぎていく。一人だけこちらを見て、怪訝そうな表情をしていたのが少し気にかかる。いや、考えすぎか。おそらく、ジュースを買うでもない、通行人でもない、少し離れた位置で携帯電話を操作している僕が異様に見えてしまったに違いない。姉のように人当たりの良い反応ができるほど器用ではない僕なので、まあ、充分及第点だろう。
今度こそ、人目を憚りながら姉の下足箱を覗いた。薄桃色のメモ用紙を摘まんで、ぴらり、と開く。姉の字は、まさしく人柄が出ている字だ。丸くなく、尖ってもいない。まるで、書道を得意としているかのように、流麗で繊細だ。彼女は書道なんて習っていたことはないが(やっていたのなら僕だって追いかけていた筈だ)たったひとつの数字でも、姉だ、と一目瞭然であることを、僕はひっそりと嬉しがる。姉の細く長い指が紙の上で舞い、その円舞の軌跡をインクが描いているみたいで、あの優艶な指の痕跡を紙切れの中で想像し、愛着が湧く。
「今日は、三番か」と独りごちる。三番は、図書室の隅だ。
死角になっているスペース。書架が並び、最深部のそこに収まってしまえば誰も僕らを視認できない。曲がり角からひょっこりと顔を出せば、もちろんかくれんぼのごとく、発見されてしまうのがオチである。だが、ただでさえ出入りの少ない図書室で、生徒たちが関心を示さないであろうジャンルを取り扱う書棚には、滅多なことでは利用者も現れないのだから好都合だ。
僕は、あそこが好きだ。僕らは人前では姉と弟でしかなく、家でも、学校でも、町に出たとしてもこの一線で踏み止まる義務があった。しかし、図書室の隅に行けば、僕は誰に咎められるでもなく、姉に語りかけることができた。被った埃や、年季の入った蔵書のかび臭さも、いっそ外界でランダムの体臭に塗れるより余程心地良いものだ。
メモをポケットにねじ込んで、教室へ戻る。高校に入学し、新しい校舎にもすっかり慣れた。東階段の踊り場が少しだけ滑り易くなっていたり、体育館へ続く渡り廊下に飾られた年代物の集合写真がどの部活のものなのかも、覚えている。僕はこの学校に馴染んでいる。姉がいる、というだけで選んだこの高校を、掌握しているかのように得意げになっている。
すべては姉のためだった。誰にも言えない恋だから。
教育という神聖不可侵の穴蔵で、僕らは禁断の逢瀬を繰り返している。
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