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雪にまぎれる彼らは
風雪の音は、波に似ている。
無人駅のプラットホームに降り立ち、ごう、と鳴る風を浴びる。わたしの冬靴が踏むのは白い砂浜ではなく、生き物が死に絶えた世界であるかのように色と温度が失せた夜の雪景色だ。除雪の跡が残る歩廊を歩き、プレハブ小屋よりは少しだけ頑丈そうな侘しい駅舎を抜ける。からからと音を立ててドアをスライドさせると、寒波に見舞われたからか、横殴りの雪が道路や建物をコーティングしていた。
赤いチェックのマフラーに指を引っかけ、口許を隠す。これをすると、呼吸をするごとに眼鏡が曇ってしまうのが気に入らない。けれど、いくら丈の長いダウンコートを着ているからといって、裾から伸びているのはストッキングを穿いた脚。事務職の女性にもパンツスタイルを導入するべきなのだと、冬がやって来るたびに、わたしは強く願っている。
高校生の時分、スカートを一段、二段と折って膝上まで露出し、北日本の冬では自殺行為に他ならないそれを平然とやってのけていた。冷え性になるから程々にしなさいと母が苦言を呈していたが、ありがちなことに反発し、わたしだって、少しくらい流行りに触れていたいものなのだと律儀に説いていたけれど、当時の母の「仕様のない子だわねえ」と言いたげな苦笑いの意味を、とても噛み締めている。もう少し暖かい格好をして、体が冷えすぎないおしゃれをしておくものだった。代償は老いと共に訪れる。無茶をしすぎるな、と無茶をしていた己が言うのだから、なんとも皮肉な現象だ。
帰宅したら、真っ先に石油ストーブの前を陣取るのが日課だ。実家暮らしであることに胡坐をかいて、雪を掃ったコートをリビングに脱ぎ捨て、凍えたつま先を揉みながら熱風を浴びる。風雪を浴びた分だけ、温かい風を貰って、接客や電話応対で社内を駆け回っていた体を休める。髪も解く。美容師に「染める必要もないくらい赤い色をしているね」と評された髪は、じゃあパーマだけお願いしますと依頼して、高い料金を支払い人工の波を形成している。これを、早朝の寝惚けた手でどうにかまとめて、ピンを数本挿し込んだら夕方までは崩れることがない。家に着いてから、寝転がりながら解くと気持ちが良い。わたしは自由だ、と脱獄囚のような心持ちに浸って、ようやく一日の終わりが見えてくる。
駅から自宅まで、徒歩で十五分。閑静な住宅街は分厚い雪が音を吸い込むせいでさらに静まっている。ブーツで積雪を踏み分けていると、風は少し弱まったが、代わりに雪の粒がひとまわり大きくなって地上に降り注いだ。千切った綿菓子をバケツに詰めて、遥か上空で一斉に引っくり返したみたいだ。思わず足を止めて魅入っていると、前方から、ざっざと雪を掻き分ける音が聴こえた。
紺色の傘には見覚えがあった。小間の下で見え隠れしている顔はわたしの弟だ。色違いのダウンコートで着膨れしているが、それでもシルエットは細身である。羨ましいことだ。こちとら、加齢で肌や体型を気にするようになってしまったのに、二つ違いの弟は、いまだフェイシャルな悩みすら無縁であるらしい。髪の色と質はわたしと同じで、父譲りだ。パーマはかけていないので、ちっとも重力に逆らわず真下に落ちる毛先が、歩行の動作で揺れている。目鼻立ちがはっきりとしているのも、父親似だ。ただし社交的で愛嬌がある父とは違って、弟の晴人は愛想がない。
「姉ちゃん、電話、ちゃんと出て」
傘をこちらに傾ける長身には、いつもの仏頂面に苛立ちを滲ませた顔が乗っている。わたしははたと気づいて、手提げバッグの底を浚った。スマートフォンは点滅を繰り返し、着信があったことを告げている。「ごめんね、気づかなくて」
「携帯する電話なのに携帯しても意味がないってどういうこと」
「ごめんってば」
「父さんが、迎えに行こうか迷ってた。だから僕から電話したんだけど」
「そっか。もう、電車乗っちゃってた」
「だと思ったから、僕が来た。暗いし、吹雪いてたし」
「うん、ありがとう」
素直に礼を言うと、晴人は「別に」と呟いてから、歩き出す。中学高校と運動部に所属していた晴人は、わたしの頭のてっぺんが、ちょうど彼の肩のあたりにあって、とにかく大きい。昔はあんなに可愛かったのに、なんてお決まりの台詞を吐くつもりもなければ、瑞々しい若木は日差しを吸ってさらに青空に枝と緑葉を伸ばし……と修辞法を用いるつもりもなく。容姿の成長と変化に一喜一憂させられるだけの、バリエーション豊富な反応を彼はしてくれない。ただ、逞しくなり、相応に頼もしくもなった「男手」である晴人は、こうして変わらず姉に引っ付いてとなりを歩いてくれる。他愛無い話をしたり、ゲームで協力プレイをしたり、漫画や雑誌を貸し合って、部屋の行き来も自由にする。わたしたちは、とても仲が良い。
「姉ちゃん、母さんがさ」
「うん?」
弟の横目がちらりと見え、抑揚のない声が語る。
「どっちでもいいから、そういう話ないのって、言ってた」
「そういう?」
「ケッコンとか」
「あー……」
遂に来たか、とわたしは唸った。唸って、笑って、たはは、乾いた笑いは雪に紛れる。側溝を塞いでいる金属の蓋が積雪で見えなくなっていて、踏んだらつるりと滑った。油断していた。晴人が受け止めてくれなければ転倒していた。「姉ちゃんはホント、雪国育ちとは思えない間抜けだよ」悲しいかな、異論はない。
弟の暴言は的確に事実を述べている。だからわたしは噛みつかず、弟の腕に掴まったまま俯いた。わたしは今年で二十七になり、晴人は二十五だ。母の期待が日に日に強まり、いずれは破裂するであろう未来も想像に難くない。限界まで膨らんだ風船は割れる。わたしと、弟、どちらの手に渡ったタイミングでその風船が破裂するのだろうか。
「晴人はいないの、彼女」
尋ねてみると、頭頂部に息が噴きかかる。ため息だ。
「いたら、一応結婚くらいは視野に入れて動いてる。いないから、こうなってる」
「そうね。あんた、そういう人間よね」
「効率的で、隙がない?」
「実は計算高いくせに、知らないふりばっか上手い」
「姉ちゃんは?」
「わたし?」
「いないの、彼氏」
「いるように見える? 連日仕事づくめよ?」
自虐すると、また息がかかった。今度は、笑い交じりだ。
表情の筋肉が凝り固まっていることが日常である弟の、珍しい反応だ。わたしは顔を上げる。コートの布地越しに、筋肉がついている腕をぎゅうっと握って、ほのかな笑みを焼きつける。「姉ちゃん」といとも容易くわたしの存在定義を口にする彼が憎らしくて眉間を詰まらせると、もう一度、晴人はわたしを呼んだ。
「いないのって聞くのはずるいよ、姉ちゃん」
「だって」
「僕も嘘吐いたけど。いないからこうなってるんじゃなくて──僕たちがこうだから、余所に恋人なんて作らないだけだって。でもそれは、墓まで持っていこうって、秘密にしようって、決めたでしょ」
「そうだけど」
「なら、聞かないでよ。誤魔化すの、手伝って」
「母さんを?」
「父さんも。今日迎えに来たのは、口裏合わせるため」
やっぱり、計算高い男なのである。わたしの弟は、そういう性質の生き物だ。
触れていた手を浮かせる。すると、上空を覆っていた紺色の小間が取り払われて、ゆるやかになった降雪が街路灯で輝いていた。晴人は傘を畳み、そうするのが当然だと言わんばかりに、冷え切っていたわたしの手を握る。ランドセルを背負っていた頃ならばそれは確かに自然な仕草であり、動作であり、周囲にもわたしたち自身にさえ違和感を与えることはなかった。だけれど、今は認められない。家族や友人たち、近所の住人に不道徳な可能性を発芽させかねない。そのために、弟は言い訳を用意する。知らないふりを決め込みながら、賢しく演じて、迷いはない。
「姉ちゃん、すぐ転ぶから。子どもじゃないんだから、もっとしっかりしなよ」
言葉や口調とは裏腹に、また、くちびるでやわらかな弧を描く。だからわたしも「ごめんね、頼りにしてる」と覚束ない姉を演じて、存在定義を思う存分利用しながら弟のとなりを奪い続ける。父から、母から、彼を好いていただろう女の子たちから。
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