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その日はなるべく、縦長に伸びた突起物を目に入れたくなかったのに。
「二階の散乱っぷりを思い出してうんざりする」
口を尖らせる。ランチメニューのホットコーヒーで体内を暖めても、心はそうもいくまい。カントリー調の店内の、窓際の席からは、国道を挟んだ向こう側にフレンチレストランが見える。あちらの駐車場は閑散としているが、こちらはお昼時のため大盛況だ。「社会人になったら昼休みはチムニーで食え」と地元企業の先輩方が挙って薦めるくらいに、洋食店チムニーは馴染み深い名店なのである。
デミグラスソースの半熟オムライスは本日も非の打ち所なく、雲を口に含むことができたらこんな食感がするのではないだろうかと連想するようなやわらかさだった。そういえば、人生で五回ほど搭乗した飛行機では、窓を開いて雲を食べられたらいいのにと稚拙な妄想をしたものだ。
それはさておいてもだ。文句たらたらなわたしだが、チムニーは贔屓にしている店だ。「じゃあラーメン屋でも良かったのか」と辰巳さんに問われたら、そんな馬鹿なと即答した。トレードマークの煙突は、店名になるほどだ、威風堂々と屋根から突き出していて遠目でも位置が把握できる。車の助手席で、縦長のそれを見た瞬間、事務所の二階で連なっていた紙の塔を想起し眉間がぐっと寄ってしまったが、洋食店に罪はない。美味い物は美味い。
「麺の気分じゃなかったわ」
「じゃあ文句言わない。あと、律儀に俺の話にも乗っからなくていいから」
「聞いてたの?」
「あのな、給湯室は事務所の裏口側だろ。俺、裏口から戻ったから」
なんたること、盗み聞きされていたようだ。
「いつもは表から帰ってくるのに、どうして今日は裏口なの」
今度は辰巳さんが口をつんと尖らせる。駄々を捏ねる子どものよう。
「領収書切り忘れてばつが悪かった」
「……いい年の大人のくせして」
「うるさい。そうしたら、給湯室が女子会ムードだろ。あそこ、仕切り作るべきだと思うぞ。通りづらいってみんな言ってる」
「パーテーション置いても、声は通るもの」
「そうなんだよな」
「だったら、我慢して。わたしだって、乗り気だったわけじゃないの、わかるでしょ」
「桜庭が俺に微塵も興味がないんだな、というのはびしびし伝わってきた」
「女同士はね、いろいろ大変なの。気に入られようなんて思わないけど、気に食わない、なぁにこの子、可愛くないわねなんて睨まれたら職場ではやっていけないの。円滑な人付き合いのためには、謙虚さを演じる必要もあるんです」
「ほーお。それで、デザートは?」
「フォンダンショコラが食べたい」
「すみません、追加お願いします」
わたしと同じ年代と思しき女性の給仕がやって来て、追加注文を細長い伝票に書き足してから笑顔で去る。テーブルの端に伏せられた紙を、辰巳さんがぺらりと捲った。
「奢るなんて言わなきゃ良かった」途端に渋い顔をするので、わたしは声を立てて笑う。「一口あげるから。ここのフォンダンショコラ、美味しいのよ。今の時期しか出してくれないの」
「冗談だよ。デザートの追加ぐらい気楽にしろ、ちゃんと払う」
「そういうの、わたしはいいけど他の女性にするのやめたほうがいい。絶対に誤解される」
「事務の奥様方にか? 俺はそこまで紳士じゃない」
辰巳さんは煙草のソフトケースから一本取り出し、咥えたそれにジッポライターの火を持っていく。炙られた先端は、彼が呼吸をするごとに発光する。以前、パトカーの赤色灯に似ていると指摘したら、身に覚えがないのに後ろめたい気分になるからやめてくれと嘆かれたことがあった。
煙草が燻り、暖房の風でたちまち吹き消される。辰巳さんは、その行く末をじっと凝視し、けれど口調は苦々しい。
「そもそも、偏見で見られるのは好きじゃないんだよ」
「ああ、弟もよく言ってる。人格を一方的に否定されるのは構わないけど、先入観で固定されるのは苦痛だ、悪人扱いされるほうが余程ましで、理想を押し付けられるのは迷惑だ、って。正解?」
「全面的に同意するな」
フォンダンショコラが来た。しっとりとした生地に、フォークの先端を埋める。
「まあでも」灰皿の窪みで弾いた煙草から、灰が落ちる。不思議なことに、切断された灰は形を崩さず留まっているのである。角砂糖のようであり、吸殻で潰すと灰は灰でしかなく、砂浜で波に削られていく城のようにも見える。正体は単なる灰だ、役目を終えた廃棄物だ。視線が引き寄せられて、そんなふうに、節榑立っている指とその動きを眺めていたら、彼は言った。
「桜庭と噂になっているうちは、安泰だろ」
視線を上げる。ほう、と薄いくちびるから紫煙が逃げていく。
「辰巳さんが?」
「桜庭も。そういう約束で、俺らはこうしてる」
わたしは頷いた。
「そうね。でも、たまに不安にもなる」
「露見しないかどうか?」
「嘘なんて、ちょっとの刺激で崩れてしまうわ」
砂のように。灰のように。
辰巳さんは一笑した。
「そうならないために、立ち回ってるつもりなんだがな」
「本当に、タフね。不倫なんて、高度すぎて隠せる気がしないもの、わたし」
「俺は好青年なんだろ? 普段から猫かぶりはしとくもんさ」
「本当は泣き虫で、酒に弱くてすぐ酔っ払って、麻雀は負け越してるし勝負強さもなくて、とことん情けない人なのにね。スーパーマンの素養があるのに活かし切れていないの。まあそれでも、人間味があって、わたしは好ましいと思う」
「じゃあ、偽装結婚でもするか」
「やめてよ。わたしとセックスできる?」
いずれは孫の顔を、と母にせがまれる日も遠くないだろう。わたしはどうしたって弟との子どもを産めないのだから、偽装結婚を受け入れるのならカモフラージュの一環として伴侶との子どもを儲けなければならない。わたしは弟を愛している。実の弟に愛欲を抱く破綻者である。だが、最愛の男との子どもは望めない。かといって、隠れ蓑にしている辰巳英一郎と子どもを作るのか。
辰巳さんは、誰もが騙されるであろう爽やかな微笑みを湛えた。
「抱けるか抱けないかなら、抱けるよ」
「顔を隠せばできてしまう?」
「人妻を寝取ってる最低男に、今さら誠実さなんて求めなけりゃ大概はどうとでもなる」
「……さすが、最低」
「どうも」
辰巳さんが、吸殻で、灰の塊を押し潰した。
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