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「少し早いけど。今日は、もういいよ」
榊さんの声にシリンジポンプ(薬の投与のときに使う機器)から視線を上げる。なんだか難しい顔をしているから、ちょっと焦る。
前に記憶を無くしているとき、あからさまに色々考え込んでしまって榊さんに心配をかけた。だから今回は――久須義さんの唐突な出現に、ものすごく、あり得ないほど動揺しながらも、いつも通りにしていた、つもりだったんだけど。
「……えっと、すいません」
思わず謝ると榊さんは「何? もしかして」、はっとしたような顔をする。
「ジャスミン、嫌だって?」
どんだけ自慢したいの?
小さく瞼を落としながらも「それは、大丈夫です」、不安を与えないよう言い切ると――「良かったあ」、ほっ息をついてから、改めるように私へと目を向けた。
「史希くん、来てる」
途端、そうだった! 立ち上がりーー久須義さんのことで頭がいっぱいだった自分にうんざりしながら「来てるんですか!」、言葉を繋げる。
「どう言ってました? 榊さんは聞いたんですか?」
でも榊さんは答えてはくれず「ここは片付けておくから」、小さく口角を上げる。
「帰っていいよ。廊下にいる」
そこはかとなく、良い雰囲気を感じない。不安になりながらも「すいません、ありがとうございます」、軽く頭を下げて鞄を持つと、廊下に出た。
有川さんは、廊下の壁に寄りかかりながら視線を落としていた。白のバンドカラーシャツに黒のジャケット、そして細身の濃紺ジーンズ。爽やかだけど、表情は明るいとは言えず……やっぱり、良い雰囲気を感じない。声をかけられずにいると――少し長めの前髪から視線をスライドさせ、小さく口角を上げる。
「芽愛里ちゃん」
「……話したん、ですよね。師長さんと」
「話したよ」
「どうだったんですか?」
答えない有川さんを見つめていると――ME室の自動ドアが開く音とともに「そんなとこで話してないで」、榊さんの声がして振り返る。
全開してるドアの端っこから……榊さんの、片目が見えた。
「外で話せば? 美味しいケーキでも食べながら、とか」
外で? ケーキ? 突然の言葉に、瞬きをしていると「この近くに」、有川さんの声が繋がる。
「ケーキの美味しいお店があるけど」
見上げた私に「どう?」、小さく首を傾げる。跳ねた鼓動を感じながらも、久須義さんのことが頭を過ぎって腕時計に目を落としてしまう。
4時45分。ココからバスで10分の駅前から乗り換えて、観光客に有名な庭園前で下り、徒歩ですぐだけど。駅からは、道が混んでなければ10分。混んでたら10分……15分かかる、から。
「何か予定ある?」
腕時計から視線を上げ「18時に……N美術館に、行かなくちゃいけなくて」、素直に答える。すると少し考えるように視線を逸らしたあと「じゃあ」、向ける。
「美術館まで送って行くのは、どう?」
また小さく首を傾げた有川さんに「送って、ですか?」、聞き返すと「車なんだ」、答える。
「本当は、ダメなんだけどね。皆が色々、大目にみてくれた」
「そう、なんですか」
何となく即答出来なくて視線を上げると「俺の車なら」、声のトーンを上げる。
「待つことも、混み合うこともなく。快適に、スムーズに辿りつける」
口調が軽いせいか、言い方に妙な抑揚があったせいか、小さく笑ってしまう。有川さんも少し笑ったあと「芽愛里ちゃんには感謝してるんだ。本当に」、声のトーンを落とす。
「だからせめて、送らせてもらえない?」
今度はお願いするように言われ――師長さんとのことはもちろん、有川さんのことも少し心配で「……じゃあ、お願いします」、頷く。
有川さんは「ありがとう」、小さな笑顔を向けたあと、促すように歩き出した。
隣を歩きながら、師長さんとの話しが気になって。でも、有川さんは何も言わないし、待ったほうがいいのか、どうなのか。ココで看護士を続けても良いなら、すぐに言ってくれてもいいのに。そうじゃないってこと? 榊さんも、なんだか難しい顔をしてた、気がする。
無言で歩く有川さんを軽く見上げたり、視線を落としたり……そわそわしながら職員玄関を出て、駐車場へと歩く。
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