ACT 3

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「こっちだ」 突然の声に、叫びそうになった口を両手で塞ぎ、振り返る。 「く……すぎ……さん」 口に手を当てたまま、もごもご言った私を、久須義さんはじっと見て……歩き出す。 えっ、ちょっと待って。慌てて口から手を離し、私を待たない背中を追いかける。とは言え、隣を歩くのは気が引けたので、一歩下がり……斜め後ろから、前を向いて歩く久須義さんを見る。 短めの髪と、切れ長の目に顎髭。紺色の着物に、雪駄。背筋をピンと伸ばして、何というか……(おごそ)か、に歩く。なんだか今、初めてきちんと見た、気がする。昨日もその前も、なんだか緊張して。話せなかったのはもちろん、まともに見れなかった。 ごちゃごちゃ思っていると、目が合った。反射的に目を逸らしながら、気まずさも覚えた私は「ぜ、全然」、口を開いてしまう。 「人、いないんですね。やっぱり、閉館間近だから」 「貸し切っている」 予想外な言葉に、久須義さんを二度見してしまう。貸し切ってる? そんなこと出来るの? と言うか、どうして? 言葉にならず見詰めるけど、会話は終了したみたいで。また無言で歩き続ける。 貸し切って、どうするつもりなんだろう。久須義さんをチラ見しながら1人でぐるぐる考え、ガラス張りの外周を歩き続けていると……ふと左へと逸れ、狭い通路に入る。そのまま真っ白な壁伝いに歩き、右へと折れた途端――空間が大きく広がった。 薄暗い室内にライトアップされた大小、様々な形の水槽が並ぶ。まるで生きているみたいに揺らめく水草の波間に、カラフルな魚が泳いでいる。と言うか、これって。 「ウオータプラント……アクアリウム」 思わず呟くと「来週末からだ」、久須義さんは小さく頷く。確かに、パネルにもそう書いてあったけど……誰もいなくて、いいんだろうか? 所々、ライトが消えていたり、魚がいなかったり……まだまだ準備とか、ありそうな気がするけど。貸し切っちゃって、良かったの? ごちゃごちゃ思いながらも、聞けず。水槽の間をゆっくりと歩く久須義さんに付いて……とりあえず「5,6年前に」、自分のことを話す。 「一度、来たことあります。すごくキレイで、感動しました」 しーん。 あれ、聞こえなかった? それとも無視された? なんだか、ちょっと傷ついていると。 「大学の頃に、来たことがある」 ものすごいタイムラグに「はいっ?」、変な声が出てしまう。 でもまた、しーん。 いやいや、ボール拾わなきゃ。転がっているはずのボールを探して「だ、大学、ですか」、投げる。 「そんな前から開催してるんですか、してましたよね。私が来たときは15周年とかだったし。もしかして最初のとき、とか」 しーん。 あれ、なんか失礼だった、怒った? いやでも、確かリツさんの1つ下だとか聞いたような。と言っても、リツさんの正確な年齢は、非公開だけど……もしかして久須義さんも、非公開? 「その頃はまだ、ここまで大きな規模ではなかった」 また大幅なタイムラグからの言葉に「はいっ?」、またまた変な声が出る。今度は軽く目を向けられた。はっと、思わず身構えたけど……それ以上言葉は繋がらず、また前を向いて歩く。 えっと、何々? ボールを手に少し考える。久須義さんは一体、何がしたいの? どうして美術館を貸し切ってるの? 私はどうしたらいいの? ぐるぐる、迷い始めたとき――左耳の傍で小さな声がした、気がして、反射的に目を向ける。 そこには金魚鉢の形をした等身大よりも大きな水槽が、青いライトに照らされ、真っ暗な背景のなか浮かび上がっていた。その中では、まるで海藻のように揺らめく水草と流木が複雑にレイアウトされた幻想的な空間に、カラフルな魚が群れをなして泳いでいる。 そのスケールに、世界観に、かなり圧倒されながらも……惹き付けられるように、その水槽へと足を進める。  近づくと視界いっぱいが青になった。まるで空の中にいるみたい。大きく揺らめく水草が、視線を奪う。小さな魚が、まるで明滅するネオンのみたいにきらきら、して。 『水槽には触れないでください』 そういえば、そんな注意書きが水槽の傍にいくつも立っていた。だからみんな、遠巻きに写真を撮ってた。ぼんやり思い出しながらも、水槽に手を触れていた。 ひんやり、指先から伝わった温度は、巡る血液に乗って体を巡る。 どくどく、鼓動が聞こえる、早くなる、冷たくなる。 真っ青な視界に……目を奪われる。 揺らめく水草が、舞う魚が、まるで私を誘ってるみたいで。 ――吸い込まれる!  思った瞬間、水槽に当てていた(てのひら)が、ずぶっ、水の中へ引き込まれた。 あり得ない出来事に頭が真っ白になって、もはやただ、目の前の出来事を見詰めることしか出来ない。 前のめりに倒れるようにずぶずぶと体が引き込まれ――ざぶん、息が止まる、音がくぐもり、青い水がまとわり付き、動きを鈍くする。 パニクって、苦しくて、口からごぼごぼ空気が出てしまう。 マズい、マズい、ようやく思うけど、もうどうにもならない。 苦しい、苦しい、苦しい!  意識が遠くなりながらも、もがいていると――右手を誰かに掴まれ、一気に――青の世界から、引っ張り出される。
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