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きっときみは
春が来ました。
青く澄んだ空に、わたあめみたいな白い雲が浮かんでいます。
少し前まで身に刺さるように冷たかった風も、今では優しく首元を撫でるように吹いています。
今年は驚くほど雪の降らない冬でした。
ちゃんと春を迎えられるのか、桜は咲くことができるのか心配していましたが、つい先日私が住んでいる街にも開花宣言が出されました。
どの情報番組に出ている気象予報士も、今週はずっと暖かい日が続いて桜は満開になり、週末は絶好のお花見日和になると口をそろえて言っていたようです。
最後にお花見をした記憶を辿っていると、同僚の二人から週末のお花見に誘われました。
少し遠出をして、隠れた桜の名所といわれる公園まで行ってみないかと。
そんな場所があることは、この会社に勤めだした頃から知ってはいました。
公園を横切るように作られたおよそ100メートルほどの遊歩道を、等間隔で植えられた桜並木がまるでピンクのスポットライトのように彩って、別世界のように綺麗なんだとか。
迷う理由はどこにもなく、私は二つ返事で頷いていました。
駅で待ち合わせをして、電車に揺られること40分ほど。
降り立ったホームには人が溢れかえっていました。
きっとここにいるほとんどの人が同じ目的を持っているであろう事は、すぐにわかります。
みんな考えることは一緒なんだなと思いながら、人の波に流されて、少し歩けばすぐに公園の入り口が見えてきました。
「あ、お二人ともここで少し待っててください」
言うと同時に横断歩道を駆けだして、あっという間に反対側に渡ってしまったのは1年後輩の柚希でした。
背が高く見た目の印象からクールに思われがちですが、とにかく元気いっぱいで表情がころころ変わる楽しい後輩です。
「コンビニに駆け込んでいったけど、どうしたんだろ。トイレ行きたかったのかな」
自動ドアを通り抜けていく柚希の背中を見ながら、同期の美菜子が言いました。
美菜子とは、入社したときからずっと同じ部署で働いています。
仕事は早く何でも正確にこなせるのに、私生活のことになると少しおっちょこちょいなところが垣間見られる、かわいいところがあります。
邪魔にならないように歩道の端に寄って待っていると、5分ほどで柚希がコンビニから出てきました。
「トイレにしては早くない?」
「レジ袋持ってるね」
小走りで戻ってきた柚希は、小さめのレジ袋を左手に提げていました。
「お待たせしました!」
「何買ってきたの」
「お団子です!なんか急に食べたくなっちゃって」
「この時期だと、ここ屋台出てるはずだけど」
「えー!せっかく走ったのに」
美菜子はこの公園に何度か来たことがあるらしいけれど、私と柚希は初めてなので、柚希のテンションが上がっていることは見ていてすぐにわかりました。
「まぁでも、お団子の屋台って見たことないし。お花見っていったら、やっぱりお団子だよね」
「そうですよね!あんことみたらし両方買ってきちゃいました」
「じゃあ行こうか」
先に歩き出した美菜子を追って、また人波に乗り、流れるように公園に向かいます。
目的の桜並木まで少し距離はありましたが、入り口を入ってすぐ、色づく世界に目を奪われました。
「うわ・・・」
「わぁー!あれ全部桜ですか?」
「満開だね。グッドタイミング」
まさに別世界。
言葉を失うくらい綺麗な光景を、この時私は目に焼き付けることに必死でした。
青空の下、ささやかな風に吹かれてサワサワと揺れるその姿、その音。
すべてに魅了された私は、今にも体が浮いてしまいそうな、そんな高揚感に包まれていました。
「千春さん!美菜子さん!もっと近くで見ましょうよ、早く早く」
気付けば、柚希は子供のように駆けだしていました。
少し恥ずかしくもありましたが、周りを見渡せば私たちと同じように、辺りは幸せな笑顔で溢れていました。
近づけば近づくほど視界に広がる鮮やかな桜が、胸の鼓動をあおって止みません。
やっとたどり着いた遊歩道。
その石畳の上を歩きながら、そこにいる人々は皆、揺れる桜に瞳を輝かせていました。
「本当に綺麗ですね」
「癒されるというか、心が洗われるというか。今日来て良かったね」
柚希も美菜子も、頭上の桜や風に舞い散る花びらに熱視線を送っています。
ふと、目の前に一枚の花びらがハラハラと落ちてきて、私は右手でそれを受け止めました。
今も無数に宙を舞うその花びらは、確かに桜の花びらで間違いはないはずなのに、私の手のひらにあるそれは、小さな白い花びらでした。
再び太陽の光を浴びて咲き誇る姿を見上げてみて、気付いたことがありました。
「ねぇ、これって桜の木だよね?」
私の言葉に、前を行く二人は不思議そうに振り返りました。
「今更何言ってるの」
「急にどうしたんですか」
「いや、なんか、桜の花びらってもっとピンクじゃなかった?色が白くて、ちょっとびっくりしたっていうか」
「そう?そりゃ種類によって違いはあるだろうけど」
「淡く染まって綺麗ですよね。ピンクの絨毯みたいです」
そう言った二人は舞い散る花びらを追って視線を落とし、石畳を埋める花びらを見つめています。
今日初めて桜を見たわけではありません。
私の記憶の中には、実物も写真でも絵でもその色が残っています。
桜と言われれば、きっと誰もがその色を思い浮かべるはずです。
その色が今、私の目の前には存在しませんでした。
記憶の中にあるどれと比べてみても、私に今見えているのは白く染まった並木道でした。
色を捉える部分がおかしくなってしまったのかと自分の目を疑いましたが、とても綺麗な景色であることには違いありません。
すぐに少しの戸惑いも気にならなくなって、またその景色に夢中になりました。
「あ、あっちに屋台並んでますよ」
「お腹減ってきたし、何か買いに行こうか」
同意を求めるように私を見た美菜子と目が合って、しかし私は何だかまだここを離れたくありませんでした。
「私もうちょっと見ていたいから、二人で行ってきなよ」
「いいの?食べたいものある?」
「ううん、任せる」
「じゃあ適当に買ってくるので、どこか場所見つけて食べましょうか」
「そうだね」
遊歩道を逸れて芝生を歩いていく二人の背中を見送って、私は再びゆっくりと白い石畳の上を歩き出しました。
景色はずっと白いままで変わらないはずなのに、最初に感じた高揚感は一歩一歩踏みしめるごとに高まっていくような気がします。
今なら本当に、空を飛べそうな気さえしてきます。
時間をかけて端まで来ると、広い公園なので、まだ先がありました。
遊具はもちろん、確か鯉のいる池もあったはずです。
見渡すように視線を動かすと、滑り台のてっぺんが見えるその奥に、白く揺れるものが見えました。
それは間違いなく、太陽の光を受けて輝きながら同じように風に揺れる白い桜の木です。
私は吸いよせられるように、その桜を目指しました。
遊具のあるその場所は、普段ならもっと子供達の声で溢れている場所のはずです。
しかし今日の主役は隠れた名所といわれるあの遊歩道で、ここには2組の親子がブランコに乗ったり砂場で遊んでいるだけで、同じ敷地内とは思えないほど空気が違っていました。
一番奥で静かに佇むその木に、脇目もふらず一直線に突き進みます。
近くで見ると思ったより大きかったその木は、やっぱり白い花を満開に咲かせていました。
ただ夢中で揺れる桜を見つめていると、優しく撫でるように吹く風に乗って、聞き覚えのある鳴き声が聞こえた気がしました。
ずっと、ずっとそばにいたあの子の声にひどく似ている気がして、思わず姿を探してしまいそうになりました。
もうあの子がいないことはわかっています。
懐かしい気持ちにほんの少しの寂しさが混じって、胸が切なくなります。
けれどまた聞こえてきた声に、空耳ではないことを確信しました。
ゆっくり木の陰を覗いてみると、白くてフワフワした何かが根元にありました。
もぞもぞと動いたかと思えば、綺麗なビー玉みたいな瞳が二つ、こちらを見上げています。
そしてあの子と同じように、目を細めて鳴くのです。
私は思わず、その小さな白いフワフワした温もりに手を伸ばしました。
嫌がる素振りをすることもなく、大人しく私の腕に収まってくれています。
見るからに艶やかな毛並みを撫でながら、写真で見た小さかった頃のあの子に瓜二つで驚きました。
20年の生涯を終えて昨年旅立ってしまいましたが、ずっと私を見守り続けてくれた大切な存在です。
そんなあの子にまた会えたような嬉しさのあまり、撫でる手に少し力が入ってしまいました。
それでも逃げようともせず、むしろ私の腕に身を預けてくれています。
気持ちよさそうな顔を見ながら、私の母の話を思い出しました。
輝くように綺麗な白に身を包まれたあの子に、心奪われたときの話です。
今の私は、その時の母の感情が手に取るようにわかるような気がしました。
この子を見つけたときからずっと、胸の鼓動が収まらないのです。
激しく高鳴るわけではなく、打つ度にパッと花が咲くような心地の良いリズムで、何かが満たされていく感覚が全身に広がっていきます。
この子から目が離せません、離したくもありません。
きっとあの子に出会ったときの母も、こんな気持ちだったのではないかと思いました。
「きみはどうしてここにいたの?家族は?一人?」
人の言葉がわかるはずがないのに、まるで私の声に耳を傾けるようにまた綺麗な瞳に私を映しました。
「千春さーん!」
後ろから私を呼ぶ大きな声が響いて、驚いた私たちは同時に体を震わせました。
「こんなところにいた!」
「電話しても出ないし、探したんだよ」
振り返った私のところへ柚希と美菜子が駆け寄ってきました。
そういえば3人でお花見に来ていたんだと、本来の目的をすっかり忘れていました。
「電話?ごめん、全然気付かなかった」
「心配したんだからね、無事合流できたから良かったけど」
「本当良かったです。それにしても、ここにも桜の木あったんですね」
「人少ないし、ここで食べる?もうほとんど冷めちゃってる気がするけど」
「あぁ、そうだよね、ごめん」
「大丈夫ですよ!冷めてても、こんな景色見ながらみんなで食べれば、どれも美味しいですって・・・え?」
笑顔でそう言いながら、柚希は私の腕の中で丸くなっている存在に気付いたようでした。
「え?何ですか、それ」
「子猫じゃん!ちっちゃい、かわいい、どうしたの?」
驚く柚希につられて美菜子もやっとその白い毛並みに気付き、とろけるような笑顔に変わりました。
「この木の根元にいたの。飼い猫かと思ったんだけど、首輪してないんだよ」
「じゃあ、野良猫ですか?」
「それにしては綺麗だよね。真っ白だし、毛並みにつやがあるし、手入れされてるみたいだけど」
「じゃあ・・・捨て猫?」
「近くに手紙とかなかったの?『拾ってください』とか」
「ううん、何もなかった」
「そっか」
美菜子はゆっくりと子猫に向かって手を伸ばしました。
子猫は少し緊張しているようにも見えましたが、それでも大人しく美菜子に頭を撫でてもらっていました。
「ねぇ、この子連れて帰ってもいいかな」
「連れて帰るって、飼うの?」
「できればそうしたい。なんだか離れがたくなっちゃって」
「ずいぶん千春さんに懐いてますよね。安心しきった顔してるように見えるし」
「じゃあ、この後ペットショップに行く?必要なもの揃えなくちゃ。それに、動物病院で一回診てもらったほうがいいよね」
日曜日は病院やってないかな、と自分のスマホを片手に調べはじめた美菜子があまりに協力的で、私は驚きました。
何事もよく考えてから行動する美菜子に引き留められることはあっても、自ら病院まで探そうとしてくれるなんて、思ってもいませんでした。
それだけ美菜子も、すっかりこの子の虜になってしまったようです。
「え、付き合ってくれるの?」
「当たり前でしょ。こんなかわいい子猫放っておけないよ」
「そうですね。そうと決まれば、とりあえず腹ごしらえです。お二方、そろそろ私のお腹が限界なんですけど」
柚希が自分のお腹をさすっている姿を見て、私も美菜子も思わず吹きだしてしまいました。
「ごめんごめん、この子に夢中ですっかり忘れてた」
「今の台詞、花より団子っぽいね」
「私そんな食いしん坊じゃないですよ!しっかり桜も見てますから、写真もたくさん撮ったし」
私たちは笑いながら、近くにあった木で出来たベンチに並んで座りました。
膝の上に乗せた子猫は体勢を整えてまた静かに丸くなり、私たちのことを気に留めることもなく、暖かい日差しに身を委ねています。
せっかく二人が買ってきてくれた食べ物はやっぱり冷めてしまっていましたが、柚希の言うとおり、この景色の中3人で笑い合って食べるととても美味しく感じられました。
柚希がコンビニで買ったお団子に手を伸ばそうとしたとき、美菜子が何を思いだしたのか、おもむろにバッグから小さめの袋を取り出しました。
「そういえば、これも忘れるところだった。千春、はい」
「え?」
「あー、私も持ってきたんですよ。どうぞ、千春さん」
「え、え?何これ」
渡された袋をいくら見つめても、これがなんなのか私にはさっぱりわかりませんでした。
「誕生日、おめでとう」
いつタイミングを計ったのか、二人から同時に発せられた言葉にようやく何が起こっているのか理解できました。
まさに今日が、私の21回目の誕生日だったのです。
「ちょっと、反応薄くない?何か言うことないの」
「もしかして、迷惑でした?」
「あ、違うの!まったく想像してなかったから、ビックリした。ありがとう、すっごい嬉しい」
驚きすぎて感情が追いついていない私を見て不安げだった二人にも、安堵の表情が浮かびました。
するとそれまで大人しかった子猫が急に起きあがって、膝の上で私を見上げて鳴きました。
相変わらず、猫の言葉はわかりません。
けれど私たちの会話を聞いていたのか、「おめでとう」と言ってくれているような気がしました。
「きみも祝ってくれるの?ありがとう」
頭を撫でてあげると、目を閉じて嬉しそうな顔をしています。
「そういえば、この子の名前どうするんですか」
「そうだ、飼うなら名前考えなくちゃね」
柚希と美菜子が楽しそうに、でも真剣に子猫の名前を考えはじめました。
思い浮かんだ名前を二人が言い合っている間、私もぼんやりと桜を眺めながら何が良いか考えていました。
今は風が止んでいるはずなのに、木から花びらがヒラヒラと舞い落ちています。
「さくら・・・」
ぼそっと呟いた私の声はしっかりと二人の耳に届いたようで、私に視線が向けられています。
「桜の木の下にいたから、さくら・・・なんて、安直すぎるかな?」
私が意見を求めた二人が口を開くより早く、私の膝上から鳴き声が響きました。
高らかに、清らかに、美しく。
私たちは一瞬、息を呑んで言葉を失ってしまいました。
「今、返事したの?」
「本人が気に入ってるみたいだから、決まりじゃないですか」
「そうだね。これからよろしく、さくら」
春の日差しを受けたさくらの瞳がキラキラと輝いて、満足そうな表情に私も嬉しくなりました。
花びらが宙を舞うほどの風は吹いていないのに、降ってくる花びらの量がだんだんと増えています。
どこから来るのか不思議でしたが、私の誕生日を祝ってくれている誰かがまだいるのだとしたら、私は幸せ者だなと思いました。
それが誰なのか、心当たりが一人だけ、いや一匹だけ。
そうであってくれたら嬉しいと、私の心に浮かんでいる姿があります。
「ねぇ、思ったんだけど」
ひとしきりさくらを撫でたあと、美菜子は桜の木を見上げて言いました。
「これこそ、本当に桜?花が真っ白だよね」
「確かに。綺麗なんですけど、桜ならもっとピンクに色づいててもいい気がします」
少し前に私が言った台詞と同じことを言う二人が何だかおかしくて、小さく笑ってしまいました。
「なんで笑ったの」
「いや、何でもない。この子がいたんだから、この木は間違いなく桜の木だよ。ねぇ、さくら?」
私の問いかけに答えるように、またさくらは鳴いて私を見つめています。
綺麗な白い毛並みはやっぱり、私の知っているあの子にとてもよく似ているのです。
さくらはきっとあの子からの贈りものだと、思わずにはいられません。
今どこにいるのかわからないけれど、まだどこかで私を見守ってくれている気がします。
きっと届くと信じて、青く眩しい空に刻むように心で唱えました。
ありがとう。
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