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昼も過ぎ転塾の手続きに来た塾生の流れも一段落したあたりで東野水輝は東野尚子に麦茶を差し出しながら話しかけた。
「お母さん、お疲れ様」
「ごめんね、こんな事になっちゃって」
「お母さんが謝る事無いよ」
「この塾ももう終わりねぇ…… 40年、長かったわぁ」
「お母さん…… この塾と土地売って田舎の方でのんびりしようよ。首都がこっちになって生徒が増えてから気ぃ張ってたもんね。今度は田舎の方で寺子屋みたいな小さな学習塾でもやろうよ。あたしも大学卒業したらちゃんとした講師として手伝うから」
「水輝ちゃん…… こんな人が死んだような建物売れるはずが無いじゃない…… でもここにはいたくないからね、もう少しゆっくりしたら考えよ? ね?」
東野尚子は悲しそうな顔をしながら言った。麦茶のコップを持つ手もぷるぷると震えていた。
「ああ、そうだ。もう警察の人帰ったみたいだからお父さんが亡くなった部屋にお花置きたいんだけど」
「そうね、いつまで経っても花の一つも置かないなんてお父さんあっちで泣いちゃうからね」
東野水輝は大輪の向日葵の花束を事務室の隅に置いてあった袋から出した。
「あら、向日葵なの?」
「うん、お父さん好きだったじゃない」
「そうだね、夏休みの合宿や夏期講習の中でも暇見て岐阜ひまわり畑行ってたよね」
死者を送る花には似つかわしくないとは思ったが「お父さんが好きだったから別にいいか」と言った思いで事件現場に向日葵の花束を手向けるために持ってきたのだった。その手向ける役目は東野尚子が引き受けた。
東野尚子はあえてエレベーターを使わずに自分の足で5階の個人指導室まで向かった。
「私も歳ねぇ…… 4階ぐらいでもう足が重くなってきたわ」
東野尚子はもう50代であるせいか寄る年波を感じていた。彼女は個人指導室の扉の前に着いた。そしておもむろにドアノブに手を掛けた。だが、それは固く動くことは無かった。中に誰かいるのかと思いノックをしながら「誰かいるの?」と、言う。だが、無反応であった。
「どういうことよこれ」
キョロキョロと辺りを見回しても誰もいる気配は無い。彼女はガチャガチャとドアノブを捻りながら思いっきりドアを押した。
ばん! と、言った鈍い音がしてドアが開いた。目の前には窓際にいる参道求と岡田俊行が見えた。だがそれより見慣れた机を4つ並べたものの方が気になってしょうがなかった。
「あなた達…… いるなら開けなさいよ」
「何だ、一人で開けれるじゃないですか。目撃者欲しさにわざわざ一階まで男性講師呼ばせたんですよね?」
「何を意味のわからない事を…… それになんですかこの机、学校の給食の時の並べ方じゃないんだから……」
「なんでこんなマンツーマンの部屋に机が4つも必要なんですか?」
「主人が置いていたものなのでよく分かりません」
「丁度いいぐらいのベッドですよね」
ベッド その単語を聞いた瞬間に東野尚子の表情が一変した。それを確認して参道求は更に続けた。
「ご主人、ここで何をしていたのでしょうか」
「個人指導以外何があるのでしょうか」
「別の意味のじゃ無いでしょうか? このホワイトボード、数式が書かれた形跡が全く無いのですが」
「消せば残るはずが無いじゃないの」
「何十年も使ってるのに数字が書かれてた形跡が無いんですよ。この塾の黒板はホワイトボードだから書けば多少は文字が残るのご存知ですよね?」
東野尚子は奥歯を噛み締めながら目を背けた。
「ご主人、いや、塾長はここで若い生徒に手を出していたんじゃないですか?」
「そんな訳が……」
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