第三章 また一晩眠ったら真新しい朝がやってくる?

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毎日の会話の中で、治夫が脱サラして運送会社を経営しているということや、綾香より5歳年上の独身であること、趣味が綾香と同様に絵を描くことだということを知った。  退院日が決まった翌日にやってきた治夫は、花束と手紙だけを渡して何も言わずに帰ってしまった。手紙には、結婚を前提に付き合ってほしいと書かれていた。それだけでなく、預金通帳の残高が刻印されたページのコピーと所有資産の評価証明書、人間ドッグの検査結果のコピーまで同封されていた、そして、最後に運送会社を経営していると今回のような事故に会うこともあるので止めて、IT関係の会社を経営すると書かれていた。  いかにも治夫らしいと思う。真剣さはわかったけれど、ちょっと重いところがあるとも思った。でも、憎めない性格でかわいらしいところのある男の告白を断ることなどできなかった。こうして、綾香は治夫のことを好きになると決めて付き合うことにした。  実際に付き合ってみると、治夫の魅力は他にもたくさんあった。とにかく楽しい人だった。この人となら一緒にいても疲れない。交際は順調に進み、1年後には結婚式をあげた。 「さあ、そろそろ退院の支度をするよ」 「うん、そうね」 「娘たちは帰っちゃったけど、もうすぐ翔が来るから」 「翔?」 「おいおい、息子の名前を忘れちゃったわけじゃないだろうな。ボケるには早いし」  そう言えば、自分は紗英が産まれた3年後に男の子を産んでいた。…ようだ。芽衣は夫に似て、紗英は私に似ている。翔はどちらに似ているんだっけ…。 「失礼ね、ボケてなんかいないわよ」 「そう願います。あっ、それからさっき展覧会の打ち合わせがあるからということで、絵画教室の生徒の増渕夫妻が自宅まで来て待ってるよ。とりあえず、紗英が対応しているけど」 「絵画教室? 増渕夫妻?」  足元が沈み込んでいくような疑問。時間の流れに弄ばれて、現実に近づいているというより、現実から遠のいているような不思議な感覚になる。見えるものや思い出されるものがいっそう不確かになる。 「何、そのとぼけた顔。まさか本当に認知症になっちゃったんじゃないだろうね」 「それはないわ、はっきりわかるもの。今の状態わね。ただ、また一晩寝たら真新しい朝がやってくるような気がして…。それとも、元に戻るのかもね」 「何を言ってるわけ」  窓の向こうに見える桜の木から花びらが舞い下りている。
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