第一章 もしかしたら

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「そう? しばらくぶりに働きに出たから楽しいのよ」 「それだけ?」  何か含みを持たせたような、揶揄うような言い方をした。紗英が綾香の仕事場での姿を知っているはずもないのであり、深い意味を込めた発言とは思えないが、綾香のほうが妙に反応してしまった。 「どういう意味よ。へんな詮索は止めてよね」 「そんなに怒んなくたっていいじゃない…」  母親の理不尽な怒りに直面し戸惑っている。へんに怒ることで、自分の心の奥にある揺れ動く思いを露呈させてしまったことを反省する。 「ごめん、ごめん。お母さん、今まったく別のことで頭がいっぱいなので、つい…」 「ならいいけどさあ」  紗英は納得していない様子を見せる。そこで、綾香は話題を変える。 「そんなことより、紗英もそろそろ就職のことを考えておいたほうがいいんじゃないの」 「まだ考えたくないよ。もうしばらく大学生活を楽しみたいもの」 「そうね」 紗英の疑いはなんとかかわした綾香だったが、自分の様子が他人から見ても変化していると気づかれてはならないと気を引き締める。だが、夫はそんな妻の変化にも気づかないようだった。というか、考えれば綾香も随分前から夫についての関心が薄れていた。といって、不仲になっているわけでもない。夫婦生活も長くなると、お互いの長所も短所もすでにわかりきっているので、特別なことがない限り関心を持たなくなる。少々の変化にはお互い気づかないものなのかもしれない。  
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