第一章 もしかしたら

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 しかし、綾香の気持ちは着実に店長に傾いていた。夫との恋愛期間が短く、若くして結婚してしまった綾香は恋愛の免疫力が低い。再び訪れた恋心は綾香を乙女のようにしていた。それは、燃えるような激しいものではなく、控え目に咲く花のような静かで優しいものだった。店長には奥さんも子供もいることはわかっていたので、深入りするつもりもなかった。それでも、店長の傍にいたい。店長ともっと会話したい。店長の顔を見ていたいという気持ちは強くなっていた。恐らく、店長も綾香の思いに気づいている。 「増渕さん、今週の土曜日に時間取れませんか?」  土曜日は綾香が休みと知っていて声をかけてきた。 「えっ、土曜日ですか」 「増渕さんがお休みということはわかっているのですけど、その日出版社のパーティがあるんです。毎回、うちで働いてくれている人を招待しているんですけど、今回は増渕さんどうかなと思って。ただ、パーティといっても立食形式のざっくばらんなものなので普段着で参加できるものですから心配はいりません」  なるほど、そういうことか。この誘いに深い意味はないのだと知って安心したと同時に落胆もした。 「ぜひ、参加させてください」  実際のところ、出版社のパーティというものに興味もあったし、店長と二人で行けるということも魅力であった。  当日、家族には短大時代の友人たちとの会食だといって出かけた。そんな嘘などつく必要もなかったのだけれど、自分の心の中にいくらかのやましさがあったせいかもしれない。 パーティは有名作家や芸能人なども参加していて楽しかった。食事も立食形式だったが、なかなかの豪華さで驚いた。パーティが終わり、まだその興奮も冷めないまま外に出る。綾香は駅前からバスで帰ることにしていた。まっすぐ伸びた道を二人並んで歩いていると、綾香は急に店長を意識してドキドキしてしまっていた。
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