10人が本棚に入れています
本棚に追加
一
耳の奥で救急車のサイレンの音が聞こえたような、気がする。
何かを選んだつもりになっていても、ただ空をつかんでいるだけなのかもしれない。考えて見れば、自分はいつも、ここではないどこかを目指していた。
あの日が陽炎のように空へと昇って行き、頭の中が白くもやがかかったようになる。
春の陽射しがシーツに陽だまりを作っている。
布団の中で、目覚めの縁にもたれかかっていると、階下から母の声が聞こえてきた。
「綾香、もう起きなさい。遅刻するわよ」
ベッドの中で、まだ半分夢の中にいた真鍋綾香は手を伸ばして、さっき一度自分で止めた目覚まし時計をつかみ時間を確認する。
マズイ
遅刻するかもしれない。布団を跳ねのけ、パジャマ姿で部屋を飛び出し階下の洗面所へ向かう。洗顔をし終わり、顔をあげると後ろに立つ兄の顔が鏡に映った。その時、綾香はなんとなく違和感を持った。
『何かが違う』
しかし、それが何かは解らなかった。再び二階の自室に戻り、身支度をする。ギリギリ間に合いそうだ。急いで階段を下り、台所で朝食の準備をしている母の背に声をかける。
「お母さん、じゃあ行ってくるね」
返事も待たずに玄関に走る。
「ごはん食べないの?」
たぶんそう言ったに違いない母の言葉を半分だけ聞いて玄関を出た。駐車場の車の横にとめてある自転車を出し、駅まで突っ走る。おかげでなんとかいつもより二本だけ遅い電車に飛び乗ることができ、無事始業時間に間に合った。
制服に着替え、自分の席についてパソコンの電源を入れる。この日、急遽開かれることになったという早朝会議から戻った課長が席に着くのを目の端にとらえる。だが、この景色はすでに何度も目にしてきたように感じられる。『既視感』というのだろうか…。課長はきっとこの後、綾香の斜め前に座る大迫学を呼んで説教する。
最初のコメントを投稿しよう!