第一章 もしかしたら

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「大迫君」  課長の苛立った声に、課の全員が耳に蓋をしているのがわかる。その後もいくつか事前に知っていることが起こったが、もう気にはならなかった。むしろ、楽しんでいた。  この日は、来週で会社を辞める高坂美佐江の送別会が会社の近くの焼肉屋で行われる。綾香とも仲の良かった美佐江は、寿退社する。喜びと寂しさと羨ましさの混じった複雑な感情だった。  幹事の音頭で乾杯をした後、美佐江が挨拶をする。綾香は美佐江が話し出す前から涙を流していた。それは美佐江がこれから話す内容がわかっているから。仲の良かった美佐江との別れが、綾香の酒の量を増やした。二次会も終わりをむかえる頃にはすっかりできあがっていた。 「綾香、大丈夫?」 「大丈夫、大丈夫」  そう言って、さらに一口酒を飲む。 「でもさあ、もうこんな時間だよ。綾香そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの」  一人だけ遠方から通勤している綾香を心配して、田中すみれが言った。すみれの一言で綾香は現実に引き戻される。 「今何時?」 「11時20分」 「えっ、マズイ。最終ギリギリだ」 「なら、早く帰ったほうがいいよ」 「うん。じゃあ、私帰るけど、美佐江元気でね」  隣で同じくできあがっている美佐江に向かって言う。 「おー、綾香もね」  最後は明るく別れ、綾香は急いで駅への道を小走りで向かう。飲み過ぎの体にはきつかったが気が張っていたことで何とか間に合った。最終電車はいつも満員だ。ドアが閉まると、人いきれで再び気分が悪くなるが、途中で下車すればもう帰ることができなくなるので必死に耐える。やがて、乗客の数も減り、綾香も席に座ることができた。すると今度は、快適な温度と揺れのせいで、一気に眠気が襲ってくる。乗り過ごさないよう眠気と戦い、ようやく自宅のある駅に着いた。ホームに降り立つと、酔いで火照った顔に風が当たり心地よい。いつもなら徒歩で帰るが、送別会が行われることがわかっていた今日は自転車で来ていた。  
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