第一章 もしかしたら

8/52
前へ
/44ページ
次へ
 駐輪場から自転車を引き出して乗りペダルをこぐ。大丈夫だ。これならいつもと同様15分ほどで自宅に帰ることができる。  大事な話があるから、どんなに遅くなってもいいから電話がほしいと、今付き合っている増渕晴久からラインで連絡が入ったのは、午後8時頃。送迎会が一番盛り上がっていた時間帯だった。今日は綾香が送迎会で帰宅が遅くなることは晴久に事前に伝えてあったのに、なんでよりによって今日そんな連絡を寄越すのだろうか。送迎会の最中は、そちらに気が向いていたから、さほど気にはならなかったが、今になって何の用なのかが急に気になりだした。あまりに気になったので、さっき車内から『何の話?』と連絡したが、だからそれは後でちゃんと話すと返されてしまった。  大事な話って何だろう。  いい話のような気もするが、もしかしたら悪い話かもしれない。何せ、綾香の猛烈なアプローチの末にようやく始まった恋なのだ。今でも、彼の綾香に対する思いより、綾香の彼に対する愛情のほうが、数倍大きい。つまり、二人の恋愛関係は決して均衡状態にはなく、綾香は圧倒的に弱い立場なのだ。彼の言葉が気になりだしたら、気になって気になってしょうがない。当たり前だけど。  気のせいていた綾香はいつも以上にペダルをこぐ足に力を入れた。シャッターの閉まった商店街を抜け、神社の前を全速力で通過する。やがて、交差点が見えてきた。あの交差点を渡り切れば自宅はすぐそば。一応横の道をちらっと見たが、幸い、車がくる気配は感じられない。ところが、ペダルに込めた力を一段と強めて交差点に入った瞬間、いつ侵入してきたのか右側から車のライトが猛スピードで近づいてくるのがわかった。自分の自転車が交差点を走り抜ける速さと、右側から迫りくる車の速さを想った時、背筋がぞっとしたが、今はもう自分を信じて走り抜けるしかないと、とっさに脳がそう判断した。  鳴り響くトラックのクラクションの音と激しい急ブレーキの音。車のライトが自転車のすぐ右横まで迫っている。『ああもうダメかもしれない』と思いつつ、ペダルをこぐ足に渾身の力を入れる。すると、ぶつかるぎりぎりのところで自転車はすり抜けていた。まさに奇跡と言っていい。それは、一瞬の出来事のはずだが、綾香にはまるでスローモーションのようにゆっくりと感じられた。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加