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 ローレンスは混乱していた。  酒も飲んでいないのに足元がふらつき、思わず店の裏口に置かれていたダストボックスへ両手をついた。側の歩道を通りかかった母親らしき女性が幼い娘を背中にかばいながら、こちらを遠巻きに通り過ぎていく。  今、僕はどんな顔をしているんだ?  たしかに今、ローレンスの頭には疑問符の嵐が吹き荒れていた。 『ですから、リン・キルギスという女性職員は当方には在籍しておりません!』  一時間前、大学の事務局にてローレンスはひっつめ髪の女性から念を押すようにそう告げられた。臨時講師として働くにあたって、契約等手続きをしてくれた事務局長だ。たしか、グリッジという名だった気がする。 『本当にその女性は、ここで働いていると言っていたんですか?』  その言葉と訝しげな視線に『気の毒に。騙されて母親の入院費でもせびられたのね』というような好奇交じりの同情を感じたローレンスは「もういいです、結構。わかりました」と言って校舎を出た。意識したわけではないが、講義を終えてから訪ねてよかったと思った。こんな状態では仕事になりそうもない。  事務局を訪ねるまで、ローレンスは三日待った。  ストーカーみたいに追い回す真似はしたくなかったから、自分の講義の日まで待ち、さもついでのように事務局を覗いてみたのだ。思えばここを訪ねたのは創作講座開始初日くらいで、数ヶ月ぶりだった。その初日にリンがいたかどうかは覚えていない。  そして、つい先ほど衝撃の事実を告げられたのだ。  たとえ先日のリンの様子が変だったとしても、電話があの日以来、つながらなくなったとしても、ローレンスは自分に否があると思っていた。彼女の方からキスしてきたとしても、泣いている彼女の隙につけこんでいると思われても仕方がない。  先日、十二月一日から二日へと変わろうとしていた夜。  ソファにリンを押し倒した時、彼女の身体は硬く、震えていた。ローレンスが上体を離して見下ろすと、彼女の眉根が寄り、目はきつく瞑っている。 『……リン?』  リンはローレンスの身体の下からすり抜けるようにして立ち上がった。彼が外しかけたピンクのカーディガンのボタンを一つだけ元へ戻し、革のジャケットと学生みたいなナップサックを持ち、玄関ドアの方へ向かった。 『……ごめんなさい』  呟くように言ったリンの揺れる目から、涙がこぼれた。  次の瞬間、彼女は背を向けて出て行った。  ローレンスはしばらくソファに座ったまま動けずにいたが、ようやく今が夜中で、女性を一人で歩かせるような時間ではないことに気づき、家から飛び出した。  自宅周辺の一ブロック分の歩道まで探し回ったが、誰も歩いてはいなかった。当然と言えば当然で、時刻はもう夜中の0時を過ぎていた。  どこか遠くで車のエンジン音が聞こえたような気がしたが、リンだとは思わなかった。彼女は免許も持っておらず、運転もできないと言っていたから。  リンは煙のように姿を消した。  ローレンスに山のような疑問を残したまま。  金銭目的で自分に近づいてきたとは思えない。何度か食事し、家にまで来たのだから、自分が金持ちではないことくらいすぐにわかるはずだ。  ようやく足に力が戻ってきたので、歩きはじめた。雪が降りそうな凍てつく風に頬をなでられながら、頭の中も落ち着いてきた。  思えばリンについて知っていることがほとんどない。隣人の話は聞いたが、彼女自身がどこに住んでいるのかは知らなかった。携帯の番号と、大学の事務局に勤めているということ、ローレンスが知るのはそれだけだった。  初めて会ったのも大学構内で、彼女の方から声をかけてきた。 『作家のローレンスさんですよね? 事務局でも噂の的なのよ』 『……噂されるような色男だったら、こんなところで独りでサンドイッチを(かじ)ってないと思うけど』  ローレンスはリンが差し出した右手をどぎまぎしながら握り返したのを覚えている。グレーのぴったりしたタートルネックのセーターに女学生のようなプリーツスカートをはいていた。地味な服装だったが、シンプルなだけに彼女の身体の美しい曲線を際立たせていた。  下心がなかったと言えば嘘になるが、最初のディナーの誘いから、常にイニシアチブは彼女が握っていた。ローレンス自身は受動的だった。  リンの大学職員としての「なりすまし」も実に自然で……と言うより、そもそも疑って見ていたわけではないから、思い返せば妙なところはあったかもしれない。プライベートについてほとんど話さなかった。それも知り合って間もなければ別段不思議なことではない。彼女が自分のことを話したのは、最後に会ったあの晩、クレアの不幸な事件だけだ。  なぜだ。  身分を偽ってまで、自分に近づいた理由(わけ)は?  そして……なぜ謝った? 泣いたのは?  家に帰り着いてからも、ローレンスはぼんやりしたまま、無意識にコートを脱ぎ、手を洗った。その足でキッチンに行き、コーヒーを入れようとケトルを火にかけた。だがすぐにガスレンジの火を消すと、グラスを取り出し氷を入れた。グラスにもらいもののスコッチを半分注ぐ。酒はあまり強くない。自覚はあったが、今は酔いたい気分だった。ちびちびなめるように口にしながら、玄関のすぐ横にある書斎へ入った。  クローゼットと大差ない広さの角部屋は、なぜか不思議と落ち着いた。表に面した壁の角部分に出窓があり、ちょうど歩道と隣家が両方見渡せた。その出窓をひと目見た瞬間、書斎に決めた。  執筆用のデスクトップPCの電源を立ち上げている間、ロールスクリーンを半分だけ開け、外を見た。肘掛け椅子に腰掛けると、急に身体のだるさを感じた。少し酔ってきたようだ。  メールはアレックスからとスパムメールの類しかない。アレックスの内容は読まずとも件名から察せられたので、ローレンスは先日書きかけた『デュランを殺せ』のファイルを開いた。  すでに殺人は三件目まで書いている。ガイ・トレスは父親の車を盗み、州外へ失踪した。  最初はガールフレンドだったが、二件目は夜中のダイナーで声をかけてきた不良少女。車のバックシートでやはりセックスの最中に首を絞める。はじめから薄いゴム手袋をしている男を少女は不審に思うべきだったが、クスリでボンヤリしている頭に明確な判断力はなかった。そもそもマトモな娘は一人で夜中のダイナーにはいない。三件目は、病院。昏睡状態の三十代女性の酸素マスクを外し、自発呼吸ができず苦しむ彼女とベッドで交わりながら。  異常な殺人鬼の異常な行為を描いている自分もどこかおかしいのだろうか。リンは本能的にそれを察して逃げたのか?  ローレンスの口から苦笑いがもれた。  ともかくこれから重大なことを決めねばならない。どちらへ舵を切るかだ。  ガイは少年時代の連続殺人の目撃者だったトラウマにより異常者となったのか、あるいは「悪の種子」が元からあったのか。  そしてガイを追うジョシュ。毎日患者たちの一種異常な考えを聞く仕事。彼はおかしくはならないのだろうか。  ローレンスは考え事をしながらも、窓の外に気づいていた。向かいの歩道の縁石に乗り上げた海老茶色のワゴン車。今は午後六時。もうかれこれ一時間以上はそこに停まっている気がする。  運転席と助手席の二人。何か手元を見ながら話をしているが、ずっと車を出る気配はない。何かのセールスだろうか。       助手席の男性は黒髪に白い肌、遠目にも俳優のようなルックスはわかる。運転席の女性(かどうかローレンスにはいまひとつ自信がなかった)は、燃えるような赤毛で、かなり縮れている。持て余しているのか短くカットしていた。メイクをしない主義なのか、口紅も塗っておらず、顔色が悪い。でも目力は強そうだ。意志の強そうな太めの眉はずっとしかめられていた。  一言で言うと、彼らが気になった。  二人はしきりに隣家に視線を投げては、話を交わしていた。  ヒューバート・モリスンの家をたしかに見ていた。
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