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 突然窓ガラスを叩かれ、メイだけでなく、ジョエルも驚いたようだ。  メイは膝の上に広げていた死体の写真を急いでかき集めるとフォルダの中へしまった。二人顔を上げて窓の外を見ると、男がこちらを覗きこんでいる。  ほとんど人通りがなかったため油断していたが、メイの話も含めれば二時間近く、車内にいたかもしれない。その間モリスンの家も、近隣にも動きはなかった。歩道を通り過ぎる人を数人見ただけだったからだ。  いや、このベージュのコートを羽織った男は見かけたような気がする。メイは思ったが、一方で自信がなかった。とりあえずジョエルがどう対応するか、この場は彼に任せるしかない。  ジョエルは窓を半分開けた。 「……あんたたち、セールスか何か?」  わずかだが、男の呼気から酒の臭いがした。しかし、こちらを見る目つきから完全に酔っているわけではないようだ。 「いえ。近所の方ですか?」  ジョエルは男に問い返した。男は一瞬、後ろのモリスンの家を振り返ると、うなづいた。 「モリスンの家に用? 彼なら夜間に仕事をしているから、今は家にいると思うけど」  メイは男を観察した。  自分たちと同年代、三十前後か。プラチナブロンドの髪は少し長めで、襟足にかかっていた。青いチェックのネルシャツにジーンズ。どちらも着込んでおり、かなりくたびれていた。しかし清潔感はあり、犯罪の匂いは感じさせない。 「あなたは?」 「僕は、モリスンの隣に住んでいるウィリアム・ローレンス。あんた方は?」  昔の俳優みたいな名前だなと思いつつ、メイがジョエルの出方をうかがうと、彼は胸ポケットからバッジケースを取り出して見せた。 「失礼。怪しまれるのも無理もない。私はFBI行動分析課の捜査官ランバート。彼女はシカゴ警察ラペル警部補です」  ジョエルは例の何を考えているのかわからない表情をローレンスに向けた。ローレンスは「怪しむ」と言われたからか、わずかに顔を赤らめた。 「あなたはモリスンと親しいのですか?」 「親しい?」  ジョエルの問いにローレンスは小首をかしげ、またモリスンの家を見た。  メイも二人の肩越しに緑の屋根の家に目を凝らす。  人がいるというわりには、さきほどから家の中で何の動きも見えない。 「たしかにモリスンとは一度話しました。彼の姪のアリスとは二度ほど。二度目はうちで食事をしました……その、僕の同僚も一緒に」  警察と聞いたからか、ローレンスの口調がわずかに丁寧になった。 「アリス?」 「ええ。歳は聞いたことなかったな……そういえば。たしか先日十二月一日、彼女の誕生日だと聞きました。その晩、たまたま夕食に誘ったのですが、あの子だけ来て。モリスンは具合が悪いとかで来ませんでしたね。アリスも先に彼とお祝いしていたらしく、お腹がいっぱいだとあまり食べませんでした」  ジョエルとメイの顔色が変わったのにローレンスも気づいたようだった。 「……家を訪ねる」  ジョエルの顔に緊張が走っている。スーツの上着の内側に手を入れ、銃の感触を確かめているのがわかった。  ジョエルのように上等な上着ではないが、メイも自分の黒いウィンドブレーカーの下に隠れた腰のホルスターの位置を確認すると、ドアに手をかけた。 「ちょ、ちょっと……どういうことなんですか?」  車を下り、モリスンの家へ向かうジョエルの前にローレンスが立ちはだかった。その彼を片手で制し、ジョエルは告げた。 「ヒューバート・モリスンに姪はいません。彼は事件の関係者である可能性がありまして」  ローレンスが息を飲んだのがメイにも見えたが、ジョエルはかまわず木戸を開けるとモリスン家の敷地へ入り込んだ。そのジョエルの後を追いながら、メイはローレンスの方を振り返り、言った。 「のちほど話を聞くことになると思います。家にいてもらえますか」  ローレンスは何か言いかけたが、結局メイの言葉に従ってくれた。自分の家へと戻って行った。 「……ジョエル。アリスというのは……」  膝まで生い茂る雑草をかき分け、小さな前庭を進んで行くジョエルの背中に向かってメイは声をかけた。  足元を見ると、セメントが敷かれている小道が玄関へ続いていた。セメントの表面はでこぼこしており、ところどころ玉虫色に輝くビー玉が埋め込まれている。 「その少女が何者なのか知らないが」  ジョエルの顔は見えなかったが、その口調から興奮しているのはメイにもわかった。 「我々はモリスンと彼女に会わねばならない」  二人は緑に塗られた玄関扉を挟むように立ち、顔を見合わせた。  ジョエルがメイを見てうなづく。メイはライオンの顔がついたノッカーを叩いた。 「モリスンさん、シカゴ警察です。お尋ねしたいことがあって参りました」  返事はない。 「モリスンさん。いらっしゃらないのですか」  ジョエルがドアノブをゆっくり回した。鍵は閉まっているようだ。 「裏口を確認して」  メイは辺りを見回しながら、裏口の方へ向かった。どの窓もしっかり施錠されている。裏手へ回ると、ドアがあり、触れると簡単に開いた。  どうやら完全に閉まっていなかったようだ。  まるであわてて飛び出した後みたいだ。 「裏口、開いていました!」  すぐにジョエルも追いついてきた。メイが裏口のドアを大きく開くと、ジョエルは少し離れたところに立ち、中を見た。一応、両手で銃を構えていたが、すぐにその手を下ろし、家の中へ入っていく。  家の中は真っ暗だった。外も夕陽が西の彼方にほぼ隠れ、闇が落ち始めていた。カーテンの隙間から入り込んだ街灯の光が、内部の家具の位置を教えてくれる。  ジョエルとメイは銃を構えたまま、腰をわずかに落として少しずつ中へ進む。裏戸口があったのはキッチンだ。意外にも綺麗に片付いていた。シンクにも洗い物はたまっていない。男の一人暮らしにしては珍しいとメイは思った。  二人は特に言葉を交わしたわけではなかったが、互いに緊張感が抜けていくのを感じていた。各部屋を確認するごとにそれは強まっていった。  人の気配がない。  こういう現場は初めてではなかった。  もちろん、ジョエルはなおさらだろう。  それは嫌な方向に当たった。  二階の寝室に、木綿のパジャマ姿のヒューバート・モリスン……らしき男が倒れていた。と言うのも今までの事件同様、男の身体は干からび、ミイラのようになっていたからだ。静かに目を閉じているのも同じだった。まるで眠っているかのように。両手は胸の上で組まれていた。犯人の仕業だろうか。  モリスンの遺体を見たジョエルは寝室へ入ることなく、ほかの部屋を探し回った。家中のドアというドアを開けて回っているような音が聞こえた。彼自身、この家がすでにもぬけの殻なのはわかっているに違いない。ただ、彼はアリスを探していたのだ。もしかするとモリスンの死はなんとなく予感していたのかもしれないが、一方で、彼と一緒にいるはずの「犯人」の存在を意識していたはずだ。 ーー私、何を言おうとしてるんだろう……  メイは自ら考えたことに驚いたが、実際にモリスンの異様な亡骸を目にし、ジョエルの話を思い出したのはたしかだ。  レイが借りていた倉庫に現れた少女。  モリスンが姪と偽って一緒に暮らしていた少女。 ーーありえない、それは絶対にありえない。だっておかしいもの……  メイが応援を呼び、モリスンの家にパトカーが数台押し寄せると、今まで静かだった通りは近隣から出てきた野次馬たちで賑やかになった。  その光景を青ざめた顔で眺めながら、ローレンスは自宅の玄関ポーチの柱に寄りかかるように立っていた。 「アリスは?」  ジョエルは首を横に振った。 「見つかったのは……モリスンだけでした」  ジョエルは唇に親指を当て、爪に歯を立てたが、すぐに手を下ろした。感情を剥き出しにしたところを見た気がした。メイに見咎められたと思ったのか、今では嘘のように穏やかな表情に戻っている。  アリスのことだが、家の中には彼女のものらしき衣服や食器類はそのまま残されていた。だが身元を示すものは何一つないのが不思議だった。モリスンが処分してしまったと考えるのが妥当なのかもしれないが。  警察犬を使って家の周辺も捜そうとした。優秀な犬だ。犯人逮捕に貢献し、何度も表彰されている。  だが今回、アリスの匂いを嗅がせた彼は怯えたように吠え、尻尾を足の間に丸めて動こうとしなかった。警察犬の担当者もこんな反応は初めてだと首を捻った。 「あの、あなたの他にアリスの存在を証明できる人は?」  メイが問いかけると、ローレンスは驚いた顔を上げた。 「疑っているんですか? 僕の作り話だと?」 「いいえ、いると思います。アリスが本名かどうかはわかりませんが」  ジョエルが二人の間に割って入るように言った。  メイはあらためてジョエルに問いかけたいことがあったが、自分でも信じられていないことを口にはできなかった。  レンタル倉庫の防犯カメラ映像に映った少女と今回の少女が同一人物だとしたら、大きな矛盾がある。あれから十年の歳月が経っているのだ。 「アリスは……いくつに見えましたか?」  メイはわずかに震える声でローレンスに尋ねた。 「は? せいぜい十歳位ですね。それ以上には見えませんでした」  ローレンスは不思議そうにメイを見る。 「なぜ、そんな質問を?」  そこでジョエルがローレンスに尋ねた。 「アリスとご自宅で食事をした際、一緒だったという同僚の方は? 今、話を聞くことは可能ですか?」 「そのことなんですが……どう説明したらいいか……」  ローレンスの顔は心から困惑しているように見えた。メイたちが先を聞こうと彼を注視した瞬間、メイの携帯に電話が入った。デイビス刑事部長からだ。 『先ほど管区内で遺体が見つかったんだが、それが……』  ジョエルもメイの表情からすぐに気づいたようだ。 「模倣犯の方でも……遺体が見つかったようです。どっちが先かはわかりませんが」 「どっちでもいいだろう。現場へ向かう」  言ったそばから、ジョエルは車へ向かって人混みを掻き分け、大股で歩き出していた。メイは彼の後に続かねばと思いつつ、純粋にローレンスの話が気になった。 「あの、のちほど、ご自宅を訪ねてよろしいですか。詳しく話を聞かせてください」  後ろ髪を引かれるような思いで、メイは車に戻った。  エンジンをかけ、人や車を避けながら慎重にワゴン車を動かすメイの隣で不意にジョエルもかすかな笑い声を漏らした。 「……何かあまりに偶然がすぎる気がするが、とにかく行こう」  ジョエルの言う通りだった。どちらが先かはわからないが、追いかけている二つの事件がほぼ同時に起きたということだ。  メイはかすかに手が震えるのをハンドルを握りしめて止めた。  模倣犯の方は別の目で見なければならない。今までの謎はいったん置いて、まっさらな気持ちで対峙すべきだ。
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