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ⅩⅠ
男が目覚め、自分の状況に気づきはじめた。
シャワールームの外から彼女は男を眺めていた。
前住人がリフォームしたガラス製のシャワールームは、刑の執行にはうってつけだった。今まで住んだ部屋は、バスルームの壁面に飛び散った血を拭うのに苦労したものだ。血を抜くため、水を張った浴槽に首まで沈めたまま、その間ずっと頭を押さえつけていなければならなかった。だがそれも二分も経てばぐったりするし、それまで相手が苦しむ様を見るのも彼女にとって悦びだった。
男は不自由な体勢ながらも自分の姿を確認している。
粘着テープで塞がれた口に、拘束された両手は手錠の金具部分がシャワーフックにひっかけられているため、男はぶら下がるように立つしかなかった。背があまり高くないせいか、期せずしてつま先立ちになっている。無防備な全裸だからか、恐慌状態からか、男の股間で情けなく萎れているものを見ていると、この上なく痛快だった。もっといたぶってやりたかったが、それはクレアが許してくれない。
クレアは彼女より賢い。
彼女が勤めている非営利団体「神の恵み」という名の犯罪者更正補助施設はクズの集まりばかりだが、その中で児童性愛者を見つけるのが、クレアは抜群にうまかった。書類など見る必要がない。醸し出す空気で判るのだ。
この男は、出所三ヶ月のジョン・モートン。自分の幼い息子に五年にわたり、性的虐待を続けてきたどうしようもないクズである。保護監察官が定期的に家を訪ねてはいたが、住む家を与えたのは「神の恵み」だ。保護監察官の多くは常に複数の保護対象を抱え、彼らがトラブルを起こさない方が稀なため、いつしか「神の恵み」におんぶに抱っこの状態となる。
准看護師の彼女が本来勤めるところではないが、そもそも団体に勤めようとする者が数少ないためか、まずだいたいどの州へ行っても受け入れられる。どこの州にも「神の恵み」があるわけではないが、どうやらこの団体の代表である人権擁護者は民主党の有力者とつながりがあるとか、あるいは献金している噂も聞く。まあそんな政治的な背景など彼女の関知するところではないが、”死刑囚”を見つけるにはうってつけの職場だった。
この「神の恵み」は、表向き出所者のトラウマを取り除き、社会復帰を支援するという夢のようなことを謳っているが、現実は精神安定剤漬けにして大人しくさせているだけだ。だから眠っているところを襲い、さらってくるのは簡単だった。
彼女はこの元犯罪者たちのグループセラピーを傍らで何度か見たが、何回聞いても彼らの育った環境や社会への憎悪は一方的な言い分にしか聞こえなかった。その倍も苦しんでいる、クレアのような子が何人もいるのに、こいつらは自分の苦しみしか話さない。
そして彼女が男性と関係を結べずに落胆した時、クレアは囁くのだ。
―― 処刑しましょう。
十一歳のクレアの声が囁く。
シャワールームの扉を開けると、彼女は全裸で中へ入っていった。もちろんこの男と何かするつもりはない。ただ単に衣服を血で汚したくないだけだった。
怯えるジョンの喉元を指で探り、頚動脈の位置を見つける。これは彼女の方が得意なことだ。
その右手にコードレスのガス式釘打ち機が握られているのを目にしたジョンは目玉がこぼれ落ちそうなほど見開き、両脚をばたつかせて暴れた。
「だいじょうぶ。すぐ終わるからね」
以前病院勤務だった頃、患者に対してよくかけていた言葉だ。だがあの時とは正反対の気持ちで言っていた。すぐに終わらせるつもりはない。苦しませるためにやっているのだから。
ネイルガンを首に打ち込み、穴を開けるのはクレアの方がうまかった。彼女自身は手が震えてしまうので、代ってもらう。クレアは【吸血鬼】を真似て、二箇所開けた。【吸血鬼】がクズどもを血祭にあげているのを知った時から、彼(彼女?)はクレアにとって英雄となったのだ。
声にならない唸りをあげ、ジョンが暴れる。
その度に首の傷から噴き上がった血が、彼女の身体を赤く染めた。想定ずみなので、シャワーの蛇口を捻る。冷たい水が降り注ぐ。
気持ちいい。
彼女自身も清められていく気がした。みじめで、悲しい気持ちも一緒に洗い流されていく。
【吸血鬼】のようにミイラ状とまではいかないが、“死刑囚”からみるみる血が抜けていく様にクレアは満足しているようだ。もちろん彼女自身も。
ジョン・モートンの遺体をジョエルとメイは並んで見下ろしていた。
モートンは自宅で発見された。服を着たままソファに座っているせいか、一瞬生きているように見える。
だがその顔は土気色で、喉元には乱暴に開けられた2つの穴。血はすでに抜けきり、傷口は乾いていた。
今までの現場と同様、ここで殺害されたのではない。おそらく犯人の自宅だ。ここまでなるには大量の血が流れるはずだが、その形跡が自宅のバスルームからは出てこなかった。
「遺体の第一発見者で、モートンの地域保護監察官のへイデン氏です」
刑事局のメイの同僚が、ベージュのジャンパーを着た男をジョエルに紹介した。ジョエルは軽く頭を下げると、ヘイデンに右手を差し出した。ヘイデンは相手がFBI捜査官と聞いたからだろうか、禿げあがった日焼けした額に汗を浮かべ、わずかに緊張した面持ちでジョエルの手を握り返した。
「ここを訪ねたのは何時頃ですか?」
「午後七時頃だったと思います。今日は通常の面会日ではなかったのですが、アリシア……『神の恵み』のスタッフなんですけど、ジョンが仕事の面接に来なかったと連絡がありまして。それで家を訪ねたのです」
「神の恵み?」
「はい。慈善団体……いや、非営利団体だったかな。元犯罪者の更生を手助けしているグループです。警察の方はどうだか存じませんが、刑務所や我々コミュニティセンターに勤める者とは関係が深い名前です」
「……いや、聞いたことはあります」
「この住宅も『神の恵み』の方で手配してくれました。彼は妻子とは接近禁止令が当然出てましたし、ほかに身よりもなく、正直助かりました」
メイは初めて聞く団体だったが、ジョエルには覚えがあるらしい。顎に手をあて、考え込む顔になった。
「……ジョンは孤独でした。おそらく交流があったのは私と、団体の者ぐらいです。一体誰が……」
ヘイデンは収容されていくモートンの遺体に一瞬視線を移して言った。すでに遺体袋に入れられていたが、惨状を思い出したのか、その顔は青ざめていた。
「そうか……そういうことか」
一方、ジョエルは一人つぶやくと、外へ出て行こうとしていた。
「あの、どこへ?」
メイが問いかけると、ジョエルは初めて彼女の存在に気づいたような顔をした。
「私は『神の恵み』を訪ねる。君は、ふたたびウィリアム・ローレンスから、アリスの話を聞いてきてくれ」
時刻は午後十一時近かった。ローレンスは疲れた表情だったが、メイを家の中へ通した。
「一体、何が起こっているんですか?」
「それぐらいは聞いてもいいだろう」という目で、ローレンスはメイにコーヒーを入れたマグカップを手渡すと、自分はダイニングテーブルのイスに座った。メイはテレビの前のソファーに座っていたが、ローレンスの方へ身体を向けた。
「ある連続殺人事件を追っています。犯人は州を跨いで犯行を重ねている可能性があって……これ以上はすみません、私の権限ではお話できません」
もっともすでにマスコミが嗅ぎつけている。先ほどローレンスの家に入る時にもレポーターがカメラとマイクを向けてきたからだ。テレビニュースはこの事件でもちきりだろう。
メイは疲労混じりのため息をつき、コーヒーに口をつけた。
「モリスンはその犯人に……殺されたと?」
メイが職業を尋ねるとローレンスは「作家」と答えた。とっさに「やりづらいな」とメイは思った。彼は自分の推測を入れて話したりするかもしれない。事実だけを話して欲しかった。
だが予想に反し、ローレンスの話は端的だった。
最初に彼が語った通り、アリスとの出会いは初対面がモリスン家の前庭。次は同僚のリン・キルギスという女性と二人でモリスンたちをディナーに招待したが、結局アリスだけが来た。
その日はアリスの誕生日だった。彼女はバラ色のドレスを着ていたが、それを汚してしまい、リンが二階のバスルームでシミを落とし、乾かした。
「リンはドレスを脱がせた時にアリスの身体を観察したそうです。その……虐待などの痕を疑ってたのだと思います……アザなどはなかったと言ってました」
「リンはそもそもモリスンがアリスの姪だとは思っていなかった?」
「ええ。僕がアリスの様子を話した時から、彼女は敏感に反応しました。誘拐されてきたのかもしれないと。ディナーに二人を呼び、確認してみようと計画したのも彼女です。もっとも僕もモリスンに実際会うと、似たような疑念を抱きました。無愛想だったのに急に饒舌になったり……」
なぜリンはモリスンを疑ったかについて、メイが問う前にローレンスは語った。
リンが十二歳の頃、隣家の娘クレアが母親の恋人に殺された。クレアはその男に性的虐待を受け続けていた。それを止められなかったことをリンは今でも悔やんでいる。
話を聞いたメイの眉間も自然としかめられていった。
感情移入しすぎてはいけない。鼻から息を吸い込み、大きく吐いた。
「では、キルギスさんからも話を伺いたいのですが」
そうだった。数時間前もここでローレンスは躊躇した。
また同じ顔をしている。
「その、自分でも変な話だと思うんですが……リンは同僚ではなかったのです」
驚くメイにローレンスは今日の午前中知った事務局での話をした。そして自分に近づいてきた時期や、リンについて思えば知らないことばかりだったということも。
メイははじめローレンスと同じく戸惑っていたが、頭の隅で何かパズルのピースのようなものが次々はまっていく音が聞こえはじめた。
リンは……ローレンスではなく、隣家が目的で彼に近づいたのでは?
何のため?
モリスンには児童性愛者の容疑で逮捕された前科があった。
リンは親友を児童性愛者に殺され、亡くしている。
「あの?」
メイが黙り込んだため、ローレンスは訝しげに問いかけた。
そもそもリンはモリスンの存在をどうやって知ったのだろう。
初犯であることと性的虐待もしていない誘拐だったためか、性犯罪者のリストには載っていない。レイと知り合ったのは更生施設だとジョエルが言っていた。レイが殺されたのとほぼ間を置かず、モリスンは消息不明となる。
更生施設。
モリスンはあの賃貸住宅をどうやって借りられたのだろう。
そして夜間の清掃の仕事をどうやって手に入れたのだろうか。
頭の中に一つの答えが残った瞬間、携帯が鳴ったので、驚いたメイは持っていたマグのコーヒーを少し床にこぼした。
「あっ、すみません」
「いや、気にしないで。それより電話……出なくていいんですか?」
ローレンスが台所へ何か拭く物を取りに向かい、メイはマグを目の前のローテーブルに置くと、通話ボタンを押した。
『ランバートだ。ローレンスから話は聞けたか。……一緒にいた同僚のことは?』
「そう、その同僚です、リン・キルギス。彼女はローレンスの同僚のフリをして近づいてきたようなのです」
気が急いて何から話していいかわからなかったが、それだけ先に告げた。
『……なるほど。【神の恵み】に直近の二、三ヶ月で入ったスタッフについて訊いた中に彼女の名がある』
「つながりましたね! 彼女の住居は?」
『もう来ている。アパートの前だ。今から言う住所に君も来てくれ』
キッチンペーパーを持って現れたローレンスからペーパーを一枚もらうと、メイは急いで住所を書きとめた。
『彼女はやり方にこだわってはいたが、指紋や毛髪については無頓着だった。だからリンが模倣犯だとしたら……』
メイは床を拭いているローレンスに頭を下げ、目で謝った。
電話を切り、ウィンドブレーカーを羽織って辞去する前に、不意に尋ねた。
「あの、いきなり不躾なのは承知でうかがいますが、彼女と身体の関係はありましたか?」
ストレートに聞いたのは時間がなかったのもあったが、メイは確認したかった。ローレンスは不快な顔をするか、笑い飛ばすかのどちらかかもしれない。それでも彼の前から姿を消したのは、アリスへの誤解が解けただけではない気がしたのだ。
ローレンスはメイの唐突な問いに一瞬あっけにとられ、床を拭く手を止めたが、少し暗い目で彼女を見つめ返すと、答えた。
「リンと最後に会った晩、そういう雰囲気になったのですが……僕から逃げるようにいきなり帰りました。夜中だったのですが、近所を探してもいなくて。煙のように消えてしまった。車では来てなかったし……不思議だと」
「車?」
「たしか、彼女、免許は持ってないと言ってました。めずらしいなと思って、覚えてます」
「……答えにくい質問に答えてくれてありがとうございます。色々と参考になりました」
「参考? 何のことです? まさか……リンがモリスンを?」
「……わかりません。今ははっきりしたことは」
ローレンスの顔が強張っている。メイも疲れていたが、彼には同情していた。今日一日でいろんなことが起こりすぎている。
「すみません。またお話を伺うかもしれませんが、今晩は失礼します。その、ラグの染みが取れなければ言ってください。……弁償しますので!」
家の中のローレンスに聞こえるように最後は声を張り上げ、メイはもうドアを開けて出て行った。
車はモートンの現場から借りてきたので、警察車両だ。
キルギスの家から少し離れたところに駐車しなければ。彼女に気づかれたら終わりだ。
「……もしかして」
車のイグニッションにキーを挿し込む手が震えていた。
落ち着け。
「リンは部屋にいますか?」
エンジンをかけながら、メイはジョエルにふたたび電話した。
『ああ。先ほど窓から様子を見たのか、一瞬女性が見えた。特徴からリンだと思う』
「今、ローレンスから話を聞いて気づいたのですが、もしかしたら彼女、車を持っているのかもしれない」
『大丈夫。出入口は一つしかないアパートだ。私が見張っている』
電話を切り、大通りへ車を出すと、アクセルを踏み込む。
ヒーターのかかった暖かい車内なのに、メイの両手は細かく震え、止まらなかった。抑えようとハンドルを握る手に力が入る。
リンをこの手で逮捕したかった。
彼女を止めてあげたかった。
自分では抑えきれない強い憎悪を。
メイはもう気づいていた。
リンもクレアを殺した男に性的被害を受けていたに違いないと。
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